成功した予防は記憶から消える

何も起きなかった。橋は落ちなかった。飛行機は墜ちなかった。サーバーは止まらなかった。あなたは今日も病気にならなかった。

おめでとう。そのことに、誰も気づかない。

予防が成功すると、予防は不要だったように見える。これは公衆衛生の文脈では「予防のパラドックス」として知られている。疫学者ジェフリー・ローズがこの語を最初に用いたとき、彼が指していたのは「集団全体への予防策は個々人にとっての恩恵が小さい」という構造だった(Rose, 1981)。しかし予防が抱える問題はそれだけではない。もっと厄介な構造が、その奥に潜んでいる。成功した予防は、自分が必要だった証拠ごと消してしまうのだ。

崩落しなかった橋

橋が落ちなかったのは、定期点検のおかげかもしれない。しかし橋が落ちなかったという事実は、「点検がなくても落ちなかった」という解釈を同時に許してしまう。

これは因果推論の根本問題だ。私たちは「予防しなかった世界」を観察できない。予防した世界しか存在しない以上、比較対象はどこにもない。哲学ではこの問題を反事実条件文の検証不可能性と呼ぶ。「もしXしなかったらYが起きていた」という命題は、原理的に真偽を確かめる手段を持たない。

何も確かではないで書いたように、私たちの知識は最終的にはどこにも着地できない。予防の効果については、その不確実性がさらに一段深い。確かめようとする出発点そのものが、存在しないのだから。

英雄は嘲笑される

2000年問題。Y2K。1990年代後半、コンピュータの日付処理が西暦2000年を正しく扱えないという問題に対し、世界中の政府と企業が数千億ドルを投じて修正作業を行った。

2000年1月1日、何も起きなかった。

何も起きなかったので、人々はこう言った。「最初から大した問題ではなかった」、「専門家が予算を引き出すために煽った」、「壮大な無駄遣いだった」。修正に奔走したエンジニアたちは英雄になるはずだった。しかし英雄が救った災厄は、どこにも残っていなかった。災厄が残っていない以上、彼らが救ったものは何もない、とみなされた。

修正が成功したから何も起きなかったのか。最初から何も起きるはずがなかったのか。この問いに答える手段は、永久に失われている。修正された世界しか存在しないのだから。

新型コロナウイルスのパンデミックでも、まったく同じ力学が動いた。感染拡大を抑えるためにロックダウンする。感染が抑えられれば「過剰反応だった」と非難される。抑えられなければ「対応が遅すぎた」と非難される。どちらに転んでも批判を免れない。予防とは、構造的に報われない営みなのかもしれない。

ワクチンもそうだ。天然痘が根絶されたことで「もうワクチンは不要だ」という声が上がる。予防接種の成功が、予防接種そのものの正当性を蝕む。病が消えた世界では、病を消した手段の価値を実感する手がかりが残されていない。

見えないものの値段

この構造は、日常のいたるところに沈んでいる。

健康診断を毎年受けて病気にならなかった人は、「健康診断は不要だったのでは」と考えがちだ。保険料を払い続けて事故に遭わなかった人は、「無駄金だった」と感じる。耐震工事を施した建物が地震に耐えたとき、「工事のおかげ」と実感できる人は少ない。倒れなかったことは、ただの日常に溶ける。

ITセキュリティの世界では、この問題がさらに切実だ。セキュリティ対策に多額の投資をしてインシデントが起きなかった場合、「投資は過剰だった」と判断されるリスクがある。セキュリティ担当者にとっての最大の成果は、何事もなかった一日だ。そしてその一日は、誰の業績にもならない。

努力できない仕組みの分析で触れたように、人間は報酬が目に見えない行動を持続することが極端に苦手だ。予防は、まさにそういう行動だ。効果は「何も起きないこと」としてしか現れない。報酬は永遠に不可視のまま、ただ日常がもう一日続くだけ。

測れないものは存在しないのか

予防の効果が見えにくいのは、人間の認知的な限界だけの問題ではない。もっと根の深い問題がある。予防の効果は、原理的に測定できない。

「何件の事故を防いだか」。この問いに正確に答えることは、論理的に不可能だ。防がれた事故は、この世界のどこにも痕跡を残さない。存在しなかった出来事の件数を数える方法はない。

誰も学びを測れないで論じたように、本質的に測定不可能なものを無理に数値化しようとすると、指標そのものが目的にすり替わる。永遠の素振りが描いたように、手段はいつのまにか目的に転倒する。予防もまた、続けているうちに「何のための予防か」が忘れ去られ、形だけの手続きとして残りうる。

しかし予防をやめた瞬間に脅威は帰ってくるかもしれない。帰ってこないかもしれない。確かめる方法はない。

存在しなかった世界との比較

教育にも同じ構造がある。なぜ勉強をしなければならないのかで書いたように、教育の効果は「教育を受けなかった場合のあなた」との比較でしか測定できない。しかしその比較対象は存在しない。あなたは教育を受けたあなたしか知りえない。教育を受けなかったもう一人のあなたは、どこにもいない。

予防も、教育も、保険も、すべて同じ構造を共有している。それらの価値は、存在しなかった世界との差分としてしか定義できない。しかし存在しなかった世界は、定義上、観察不可能だ。

ここにあるのは、単なる実務上の不便ではない。もっと深い問いだ。「起きなかったこと」に意味はあるのか。見えないものに価値を認めることは可能なのか。存在しない世界と比較して「この世界のほうがまし」と言い切れるだけの根拠を、私たちは持っているのか。

嫌いなものに支えられて生きているで論じたように、私たちの生活は見えない構造によって維持されている。見えないから忘れる。忘れるから軽んじる。しかしそれが消えたとき初めて、それが存在していたことに気づく。気づいたときには、もう遅い。


予防は、成功すれば自分の痕跡を消す。完璧な予防は、何もしなかった日と区別がつかない。

あなたが今日無事だったことの裏に、どれだけの見えない介入があったか。それを知る方法はない。知る方法がない以上、感謝することもできない。感謝できない以上、それは最初からなかったのと同じだ。

何も起きなかった。それが最高の結果だったのかもしれないし、本当に何もなかっただけかもしれない。あなたにはそれを区別する手段がない。永久に。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu