心を、人の心奥を、覗いてみたい?

もし明日、世界中の人間の思考が丸見えになったとする。あらゆる内面が、フィルターも遅延もなく、あなたの意識に流れ込んでくる。

さて、あなたはそれを望むだろうか。

たぶん、多くの人は「読みたい」と答える。好きな人が自分をどう思っているか。上司の本音。友人の裏の顔。好奇心は人間の根深い衝動だし、知ることは力だと、私たちはずっとそう教わってきた。

でも、少しだけ立ち止まってみてほしい。この問いの本当の重さは「読めること」にはない。「読んだあと」にある。

そもそも心なんてあるのか

哲学には「他者の心の問題(Problem of Other Minds)」と呼ばれる古典的な問いがある。あなた以外の人間に、本当に「心」があるのか。痛みを感じているのか。喜んでいるのか。それを直接確かめる手段は、原理的に、存在しない。

あなたが見ているのは、常に「ふるまい」だ。泣いている人が悲しいとは限らない。笑っている人が楽しいとは限らない。私たちに与えられているのは類推と推測だけで、それは証明とはまるで別のものだ。

だから「他人の心が読める」という仮定は、それ自体がとてつもなく大きな飛躍を含んでいる。そもそも「読むべき心」が確かにそこにあるのか、誰も保証してくれないのだから。誰もあなたのそばにはいないかもしれないという疑いを、哲学はいまだに払拭できていない。

でも、この問いにはもっと不穏な裏側がある。もし仮に心が読めて、そこに何もなかったら? あるいは、あなたが期待していたものとまるで違うものがあったら? 読めてしまうことの恐怖は、読めないことの不安より、ずっと深いのかもしれない。

理解は関係を殺す

仮に心が読めたとして。それは人間関係にとって祝福だろうか。

友人の何気ない一言の裏にある微かな嫉妬。恋人の優しさのすぐ隣にある退屈。家族の愛情に混じる義務感。人の内面は純粋ではない。それは悪意の問題ではなく、人間とはそういうものだからだ。

哲学者レヴィナスは、他者の「顔(visage)」は無限の他性を持つと論じた。他者は決して完全には理解できない存在であり、むしろその理解不可能性こそが、倫理的な関係の条件になる。「わからない」からこそ、私たちは他者に対して敬意を持ちうる。

完全に透明になった他者は、もはや「他者」だろうか。すべてが見えてしまったとき、そこには驚きも、発見も、敬意の余地も残らない。

人間関係は「わからなさ」に支えられている。相手を理解したいという欲望は、永遠に完了しないからこそ持続する。もし完了してしまったら、そのあとに残るのは何だろう。

安堵ではないと思う。たぶん、全知の退屈だ。

すでに失敗した実験

少し視点を変えてみる。部分的なテレパシーなら、実はもう存在している。

SNSだ。

人々は日常的に、思考の断片を公開している。意見、感情、怒り、喜び。編集されフィルタリングされた思考ではあるけれど、かつてなら個人の内面に留まっていたはずのものが、いま不特定多数の目に晒されている。

その結果はどうだったか。相互理解は進んだだろうか。人々は寛容になっただろうか。

答えは、まあ、見てのとおりだ。

思考の一部が可視化された結果、起きたのは分断と炎上と相互不信だった。人は理解し合うどころか、より効率的に傷つけ合う方法を手に入れた。思考の断片が武器になることを、私たちはもう知っている。

これはフィルタリングされた、都合よく編集された思考ですらこうなのだ。完全なテレパシーが実現して、この傾向が好転する根拠はどこにもない。

知ることの暴力

他人の心を読むことは、知りたい情報だけを選んで受け取ることではない。フィルターのないテレパシーは、知りたくないものも容赦なく流し込んでくる。

あなたに無関心な人の退屈。尊敬していた人の俗な欲望。見知らぬ人の暗い衝動。

情報には暴力性がある。私たちが平穏に日常を送れているのは、知らないでいられるからだ。「知らぬが仏」は処世術ではない。ほとんど生存戦略に近い。知れば知るほど暗くなるのだとすれば、テレパシーとはその暗闇を無限に押し広げる装置だ。

そしてもうひとつ、もっと厄介なことがある。他人の心を読むということは、「他人の目に映った自分」を知るということでもある。歪んでいるかもしれないし、あるいは正確すぎるかもしれない、あなた自身の像。あなたには何も見えていないのだとすれば、他者の目に映るあなたもまた、あなたが想像するそれとは根本的に違う。

それに耐えられる人間が、どれだけいるだろう。

透明な檻

この思考実験が突きつけてくるのは、テレパシーの可否なんていう小さな話ではない。

私たちは本当に他者を「理解したい」のか。それとも「理解したつもり」でいたいだけなのか。知ることは自由をもたらすのか、それともただ新しい檻をつくるだけなのか。心がすべて透明になった世界で、なお孤独でないと言い切れる人間は存在するのか。

あるいは、もっと根の深い問い。

完全に理解された存在は、まだ「人間」と呼べるのか。謎のない存在。不確定性のない存在。読み尽くされた存在。それはもはや人ではなく、データではないか。意識とは灯りと不在のようなもので、覗き込んだ瞬間に消えてしまうのかもしれない。

あなたはいま、誰の心を一番読みたいと思っただろうか。

その人の心を読んだあと、あなたはまだその人を愛せるだろうか。

そして、その人があなたの心をすべて読んだあとも、あなたのそばにいてくれるだろうか。


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