現実を生きる感覚

今朝、目を覚ました。足が床に触れた。冷たかった。コーヒーを淹れた。湯気が立った。ここまで、何ひとつ疑わなかった。

それは正しい態度だ。疑う理由がないからではない。疑ったところで、何も変わらないからだ。

覚めたつもりの夢

夢の中で「これは現実だ」と確信していたことがあるだろう。

あの確信は、今のこの確信と、何が違うのか。構造的には何も違わない。夢の中にいるとき、あなたはそれが夢だと知らない。知らないまま、完璧に現実だと思っている。起きてから「あれは夢だった」とわかる。つまり、「現実である」という判断が正しかったかどうかは、常に事後的にしか確認できない。

今この瞬間が夢ではないという保証は、今この瞬間の中にはない。

「でも、夢にはどこか違和感がある」と思うかもしれない。色が曖昧だったり、場面が唐突に切り替わったり。しかし、その「違和感」に気づいたのは起きてからだ。夢の中では、どれほど奇妙な展開も完全に自然に受け入れていた。空を飛んでいても、死んだ人と話していても、何も疑わなかった。

現実が現実であるという感覚は、それ自体では何の証拠にもならない。夢がまさにそれを証明している。

何も残らなかった部屋

1641年、ルネ・デカルトは『省察』の中で、あらゆるものを疑おうとした。

感覚は騙されうる。遠くの塔は丸く見えるが、近づけば四角い。水に差した棒は曲がって見える。感覚が嘘をつくことがあるなら、すべての感覚が嘘をついていない保証はどこにもない。

デカルトはさらに踏み込んだ。全能で悪意ある霊が、あらゆる経験を捏造しているとしたらどうか。空も大地も色も形も音も、すべてがその存在の仕掛けた罠かもしれない。数学的な推論すら、その霊によって誤らされている可能性がある。二足す三が五であることさえ、確かではない。

有名な「欺く霊(genius malignus)」の仮説だ。

この徹底的な懐疑の果てに、デカルトが辿り着いたのは「私は考える、ゆえに私はある」だった。正確には『省察』の中では「私はある、私は存在する(Ego sum, ego existo)」と表現されている。すべてを疑っても、疑っているという思考の活動そのものは否定できない。何かが考えている。それだけは確かだ。

ただ、デカルト自身が認めているように、これはあまり多くを救わない。「何かが考えている」ことは確かでも、その「何か」が人間であるとか、身体を持っているとか、どこかの街に住んでいるとか、昨日の自分と同じ存在であるとか、そういったことは何も保証されない。確実なのは、思考が存在するという一点だけだ。しかもその思考が拠り所にしている知識も記憶も、何ひとつ確かではない

部屋の中のものを全部疑って捨てていったら、最後に残ったのは「捨てている手」だけだった。それ以外の家具は、まだ暗闇の中にある。(この懐疑を現代の文脈で展開したのが「あなたの現実には根拠がない」だ。)

言葉ごと閉じ込められる

この種の懐疑を現代風に仕立て直した思考実験がある。「水槽の中の脳」だ。

あなたの脳が身体から取り出され、培養液の満ちた水槽に浮かんでいるとする。コンピュータが電気信号を送り込み、完璧な現実の体験を生成している。あなたが見ている空も、触れている机も、飲んでいるコーヒーも、すべて電気信号のパターンにすぎない。この状況にあるとき、あなたはそれに気づけるだろうか。

1981年、哲学者ヒラリー・パトナムは『理性・真理・歴史(Reason, Truth and History)』の中で、この思考実験に奇妙なひねりを加えた。

もし私たちが本当に水槽の中の脳だったとしたら、「水槽」という言葉は本物の水槽を指していない。なぜなら、水槽の中の脳は本物の水槽に因果的に接触したことがないからだ。言葉の意味は、使用者とその対象との因果的なつながりによって決まる。水槽を見たことも触れたこともない存在が「水槽」と言うとき、その言葉はシミュレーション内の何かを指しているにすぎない。「脳」も同様だ。

つまり「私は水槽の中の脳かもしれない」という文は、もしそれが真であるなら、話者が意図しているはずの意味を持てない。パトナムはここから、この仮説は自己論駁的だと主張した。

哲学者らしい鮮やかな切り返しだ。しかし、これで安心できるかというと、そうでもない。仮説を言語的に退けたとしても、私たちの経験が「本物」であるという直接的な証拠が得られたわけではない。言葉の檻は壊したが、部屋の外に出たわけではない。

壁に「ここは牢獄ではない」と書いてあっても、窓がなければ確かめようがない。(言語が世界の限界を画定するという問題は「世界はそこで終わっている」で正面から扱った。)

確率で語られる牢獄

2003年、哲学者ニック・ボストロムは「あなたはコンピュータ・シミュレーションの中に生きているか(Are You Living in a Computer Simulation?)」という論文で、別の角度からこの問題に切り込んだ。

ボストロムの議論は、次の三つの命題のうち少なくとも一つは真である、という構造をとる。

  1. 知的文明のほぼすべてが、高度な技術段階に到達する前に滅亡する
  2. 高度な技術に到達した文明のほぼすべてが、意識を持つ存在のシミュレーションを実行することに関心を持たない
  3. 私たちはほぼ確実にシミュレーションの中にいる

注意すべきは、ボストロム自身が「私たちはシミュレーションの中にいる」と主張しているわけではないということだ。三つの命題のどれが真であるかについて、彼は判断を保留している。これは信念の表明ではなく、論理的な帰結の整理だ。

しかし、もし(1)も(2)も偽であるなら、つまり文明が滅びず、かつシミュレーションに関心を持つなら、(3)を避ける道はほとんど残されない。高度な文明が膨大な数のシミュレーションを走らせるなら、シミュレーション内の意識の総数は「本物」の意識の総数を圧倒的に上回る。任意の意識がシミュレーション内にある確率は、単純に数の問題として、極めて高くなる。

そしてこの議論の不気味なところは、(1)と(2)が偽であることを否定するのがなかなか難しい点だ。技術は進歩し続けている。人間はシミュレーションやゲームを作ることが好きだ。(1)が真であってほしいと願うのは、文明の滅亡を望むことになる。(2)が真であることを祈るのは、未来の知的存在の好奇心を過小評価することになる。

どの選択肢も、あまり楽しい話ではない。

全員が見ている幻覚に名前をつけた

少し角度を変える。

もし全人類が同じ幻覚を見ていたとしたら、それは「現実」と呼ばれるのではないか。

冗談のように聞こえるかもしれないが、科学が語る世界と私たちが経験する世界のあいだには、すでにかなりの距離がある。

物理学によれば、目の前の机は原子の集まりであり、そのほとんどは空間だ。色は外界に存在しない。特定の波長の電磁波に対する脳の神経活動として生じる。音もまた外界にはない。空気の粗密波を聴覚系が変換した結果だ。冷たさも、硬さも、すべて脳が感覚入力を処理して構成した表象にすぎない。

私たちが「現実」と呼んでいるものは、世界そのものではなく、脳が構成した世界の像だ。しかもその像のなかであなたの見ている赤が隣の人の赤と同じ色である保証は、どこにもない。哲学ではこの問題が長く議論されてきた。カントは「物自体(Ding an sich)」と「現象」を区別し、私たちが認識できるのは常に現象のみであり、物自体には原理的に到達できないと論じた。

全員が同じ幻覚を見ているのか、それとも全員が同じ現実にアクセスしているのか。その二つの状態を区別する方法を、誰も持っていない。区別できないなら、区別することに意味があるのかどうかすら怪しい。

そして、もしその区別に意味がないのだとしたら、「現実」という言葉は何を指しているのだろう。(知覚と実在の隙間については「あなたには何も見えていない」でも書いた。)

「本物」が消える場所

VR技術が進歩している。仮に、外部の現実と区別がつかないほど精巧な仮想環境が実現し、その中で一生を過ごせるとしたら、それは「本物の人生」だろうか。

直感的には「偽物だ」と言いたくなる。しかし、なぜ偽物なのかを説明しようとすると、途端に言葉が足りなくなる。

経験の質がまったく同じであれば、「本物」と「偽物」の違いはどこにあるのか。基盤が違う、と言うかもしれない。シリコンと電気信号の上に成り立っているから偽物だ、と。しかし、今のあなたの経験も、炭素とニューロンの電気化学的信号の上に成り立っている。基盤の素材が異なることは、経験の真正性を左右するのだろうか。

あるいは「選択の余地がある」ことが問題かもしれない。VRはヘッドセットを外せる。しかし、もし外さなかったら。外す選択肢を忘れたら。そもそも外す選択肢があることを知らなかったら。

今あなたがいるこの場所に、外す選択肢がないことは、本物であることの証拠だろうか。それとも、ただ出口を見つけていないだけだろうか。

「本物」という概念は、比較対象があって初めて機能する。偽物を知っているから本物がわかる。しかし、もし比較対象そのものが存在しなかったら。生まれてから一度も「本物の現実」を経験したことがなかったら。そのとき「本物」という言葉は、何の意味も持たない空の容器になる。そしてもし「本物」が空なら、完璧な幸福を約束する機械を拒む理由もまた、空だ。

確かめても変わらない

ここまで来ると、問いは「現実は本物か」ではなくなっている。

デカルトは疑い尽くして、思考だけを残した。パトナムは言葉の構造から懐疑の足場を崩した。ボストロムは確率で可能性を整理した。科学は感覚と実在のあいだの距離を測り続けている。VRはその距離を人工的に再現しつつある。

これだけの思索が積み重ねられてなお、「現実は本物か」という問いに、誰も決定的な答えを出していない。出せていないのではなく、この問いの構造そのものが、内側から答えることを許さないようにできているのかもしれない。現実の内部にいながら現実の外部に立つことはできない。テストを受けながらテストの正当性を検証することはできない。そもそもこのテストに灯りが点いている理由すら、誰にもわからない。

もし今この瞬間がシミュレーションだと証明されたら、あなたは何を変えるだろうか。明日の予定をキャンセルするだろうか。仕事を辞めるだろうか。

たぶん、何も変えない。変えても変えなくても、目の前のコーヒーは冷める。締め切りは来る。隣の人は笑う。

「現実は本物か」という問いが怖いのは、答えが出ないからではない。答えが出ても出なくても何も困らないことが、いちばん怖い。確かめる手段がないのではなく、確かめる動機すらない。それでも毎朝起きて、疑いもせずに床に足をつける。

ならば聞き方を変えたほうがいい。「現実は本物か」ではなく、「本物かどうかが重要でないなら、あなたはいったい何を根拠に生きているのか」。

その問いにも、たぶん答えは出ない。出ないまま、コーヒーが冷える。あなたはそれを飲む。冷めたコーヒーがまずいという感覚が本物かどうかを、あなたは確かめない。確かめたいとも思わない。

それでいい。それでいいということの意味を、誰も説明できない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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