そこにいなかった人たち

あなたはそこにいた。間違いなく。GPS がそう言っている。写真のタイムスタンプもそう言っている。SNS の投稿もそう言っている。でも、あなたはそこにいたのだろうか。

スマートフォンを構えた瞬間、あなたはその場所から静かに退場している。物理的にはそこに立っている。でも、意識はもう「今ここ」にはない。フレーミング、露出、アングル、そしてその写真を誰に見せるか。あなたの頭はすでに未来にいる。まだ存在しない聴衆に向かって、まだ起きていないリアクションを想像している。

現在は、あなたの手からすり抜けていく。

観察者は参加者になれない

これは別に新しい話ではない。スーザン・ソンタグは1977年の時点で、写真を撮ることの本質をこう見抜いていた。写真とは「捕獲された経験」であり、カメラは「意識の貪欲な気分における理想の武器」だと。撮影するとは、被写体を「自分のもの」にすることであり、それは世界との関係を「知識のようなもの」に、つまり「権力のようなもの」に変換する行為だと。

ソンタグの言葉を借りれば、観光客の経験は「立ち止まり、写真を撮り、また歩き出す」という構造に還元される。ライブ会場でスマートフォンを掲げる手の群れは、まさにこの構造の極端なかたちかもしれない。音楽が鳴っている。人々は録画している。しかし聴いている人は、果たしてどれだけいるのだろう。

ここで重要なのは、写真や動画が「悪い」とか「やめるべきだ」という話ではない。もっと厄介な問いがある。私たちは、経験しながら同時にそれを記録することが、そもそも可能なのかということだ。

道具は透明になれるか

ハイデガーの言葉を少し借りよう。彼は道具との関わり方を二つに分けた。「手元存在(Zuhandenheit)」と「眼前存在(Vorhandenheit)」だ。小難しく聞こえるけれど、要するにこういうことだ。

ハンマーを使って釘を打っているとき、あなたの意識はハンマーにはない。釘に、あるいは作ろうとしている棚に向いている。ハンマーは透明になっている。これが手元存在。しかしハンマーが壊れた瞬間、あなたの意識はハンマーそのものに向かう。道具は「対象」として目の前に現れる。これが眼前存在だ。

カメラやスマートフォンは、この図式のなかでどこに位置するだろうか。プロの写真家であれば、カメラは手元存在に近づくかもしれない。シャッターを切る動作が身体の一部になり、意識は被写体に集中している。しかし、ライブ会場でスマートフォンを構える人にとってはどうだろう。画面上のフレーミングを気にし、録画ボタンを確認し、ストレージの残量を心配する。意識はつねにデバイスに引き戻される。

つまり、記録する行為そのものが、経験の構造を変えてしまう。目の前で起きていることは、「生きられる出来事」から「撮影される対象」へと変質する。あなたはもう参加者ではない。あなたは観察者だ。

アウラの喪失、あるいはもっと悪いこと

ヴァルター・ベンヤミンは、複製技術の時代において芸術作品が「アウラ」を失うと論じた。アウラとは、作品が「いま・ここ」に一回だけ存在するという、その唯一性のことだ。

ベンヤミンの問題意識は芸術作品に向けられていたが、同じことは経験そのものにも言えるかもしれない。ライブで聴く音楽には、その場、その瞬間にしかないアウラがある。空気の振動、隣の人の体温、演者の息づかい。それは複製できない。写真にも動画にも残らない。

しかし私たちは、それを複製しようとする。そして複製しようとするまさにその瞬間に、原本を手放している。

考えてみると、これはベンヤミンが想定していたよりも一段ひどい事態かもしれない。ベンヤミンの時代、複製は事後的に行われた。写真家がスタジオで作品を撮影し、印刷し、流通させた。原本はそこにあり続けた。しかし今、私たちは経験の最中に複製を試みている。原本が生成されるまさにその瞬間に、それを横から掠め取ろうとしている。

結果として起きるのは、原本の消失だ。あなたの経験は「記録のための素材」に格下げされ、記録されたものは「赤を知らないし、何もわからない。」で書いたような、あのどうしようもない隙間、クオリアの不在を抱えたまま、クラウドのどこかに漂い続ける。

記憶と記録のあいだ

ここでもう一つの厄介な問いが顔を出す。では記憶はどうなのか。

記憶だって、経験の「記録」ではないか。私たちは何かを経験しながら、同時にそれを記憶として保存している。そしてその記憶は、再生されるたびに書き換えられる。「何も確かではない」で触れたように、記憶の再固定化という現象は、想起するたびに記憶が再構成されることを示している。つまり、記憶もまた「正確な原本」ではない。

でも、記憶と写真のあいだには決定的な違いがある。記憶は、経験に没入しているあいだに、いわば裏口から忍び込んでくる。あなたが音楽に聴き入っているとき、意識は記憶の生成に向いていない。記憶は意図せずに残る。一方、写真は意図的に撮られる。スマートフォンを構えるその動作が、「いま・ここ」からの離脱を要求する。

皮肉なことに、記録しようとしなかった人のほうが、結果として豊かな記憶を持ち帰るかもしれない。あるいは、何も持ち帰らないかもしれない。どちらにしても、その人はたしかにそこにいた。

あなたはなぜ記録するのか

ここまで読んで、「じゃあ写真を撮るのをやめろということか」と思ったかもしれない。そうではない。問いはもっと根本的なところにある。

私たちはなぜ記録するのか。

一つの答えは、忘却への恐怖だ。「「いつか」は来ない」で書いたように、私たちは時間が有限であることを知っている。だからこそ、経験を何らかのかたちで「固定」しようとする。写真は、流れ去る時間に対する抵抗の身振りだ。

もう一つの答えは、共有への欲望だ。経験を他者に伝えたい。「私はここにいた」と証明したい。しかしソンタグが指摘したように、写真による「共有」は、実のところ「所有」の変形にすぎない。あなたが共有しているのは経験ではなく、経験の模造品だ。

そして三つ目の、おそらくもっとも不穏な答えがある。私たちは、経験そのものに耐えられないのかもしれない。「いま・ここ」に完全にさらされること、一回きりで取り返しのつかない瞬間のなかに素手で立つことが、実は怖い。カメラは盾だ。ファインダーは、現実と自分のあいだに挿し込まれた薄いガラスだ。

幸福という自殺」でノージックの経験機械について書いたけれど、スマートフォンの画面もまた、一種のフィルターとして機能しているのかもしれない。直接経験するには生々しすぎるものを、画面越しに安全な距離から眺める。それは快適だ。しかしその快適さの代償として、あなたはそこから「いなくなる」。

見るということの暴力

ソンタグはもう一つ、もっと不穏なことを言っている。写真を撮ることは、介入しないことだと。目の前で何が起きていようと、写真家はシャッターを切り続ける。撮影するという行為が、「いま起きていることを、起きているままにしておく」という判断を含んでいる。

これをライブ会場に当てはめると、やや滑稽な絵になる。誰も死んではいない。ただ音楽が鳴っているだけだ。しかし構造としては同じだ。スマートフォンを構えた瞬間、あなたは「観察者」という安全な位置に退却している。そこでは感動も、退屈も、不快も、すべてが画面の向こう側の出来事になる。あなたは傷つかない。でも、あなたは触れてもいない。

鎖を愛した動物」で書いたように、私たちは安全を自由と引き換えにする生き物だ。カメラを構えるという行為にも、同じ構造が潜んでいるのかもしれない。現前の自由を、記録の安全と引き換えにしている。

そこにいたという嘘

数年後、あなたはスマートフォンのなかに大量の写真を発見する。ライブの写真、旅行の写真、食事の写真。どれも見覚えがある。どれも思い出せない。

写真は証拠だ。あなたがそこにいたという証拠。しかし「届かない一言」で書いたように、過去の自分に何かを届けることはできない。写真は過去のあなたに向けたメッセージではなく、未来のあなたに向けた、体験していない出来事のカタログだ。

ソンタグの言葉を最後にもう一度借りよう。写真は「非現実な過去の想像上の所有物」を与えるのだと。あなたはそこにいた。でもあなたはそこにいなかった。写真だけがそこにいた。

それが答えだとは言わない。答えなどない。ただ、次にスマートフォンを構えようとしたとき、ほんの一瞬だけ考えてみてもいいかもしれない。あなたはこれから、何を手に入れて、何を手放すのか。

たぶん考えたところで、あなたはシャッターを切る。私だってそうする。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu