どちらを選んでも振り返る

後悔しない人生を送りたい。たぶん、あなたもそう願ったことがある。

だが残念なことに、その願い自体が罠だ。後悔を避けようとする行動は、慎重すぎる選択を生み、決断の先延ばしを招き、安全な道ばかりを選ばせる。そして数年後、あなたはこう思う。もっと大胆にすればよかった、と。後悔を避けたはずの人生が、後悔で満ちている。

後悔は追い払おうとすると寄ってくる。受け入れようとすると姿を変える。見て見ぬふりをすると、忘れた頃に刺す。

逃げた先で待っている

行動経済学には「後悔回避バイアス」という概念がある。人は将来の後悔を予測し、それを回避するように意思決定を歪める傾向があるという知見だ。損失を恐れて株を持ち続ける。告白が怖くて距離を置く。転職のリスクに怯えて不満を飲み込む。どれも、後悔したくないがゆえの行動だ。

問題は、この予測がほとんど当たらないことにある。

ダニエル・ギルバートらの2004年の研究 Looking Forward to Looking Backward は、この不一致を実証した。「あと少しで勝てた」場面と「明らかに負けた」場面を比較したとき、人は前者のほうがはるかに強い後悔を感じると予測する。だが実際に経験してみると、その差は予測よりずっと小さい。人間は自分を責めることを回避する能力に意外なほど長けており、後悔の強度を事前に見積もるのは驚くほど下手なのだ。

つまり、後悔を恐れて行動を控えている人は、実際には起きない苦痛を回避するために、確実に何かを失っている。存在しない影に怯えて、現実の道を踏み外している。そうして生まれた空白が、やがてもっと大きな後悔になる。決断できない状態の構造は、まさにこの場所から始まる。

やった後悔、やらなかった後悔

後悔には時間的な非対称性がある。

短期的には「やった後悔」のほうが大きい。「あんなことを言わなければよかった」、「あの選択をしなければよかった」。行動の結果は具体的で、因果関係が見えやすく、自分を責める的になりやすい。

しかし長期的には、逆転する。コーネル大学のトーマス・ギロヴィッチとヴィクトリア・フゼック・メドヴェクの研究(1995年)は、人生を振り返ったとき、人は「やらなかった後悔」のほうを強く感じる傾向があることを示した。告白しなかった相手。挑戦しなかった仕事。行かなかった場所。行動しなかったことには具体的な結果がないからこそ、想像の中で際限なく美化される。

「もしあのとき」という仮定法は、検証不可能な別の人生を描く。そしてその別の人生は、現実と並べたとき、つねに現実より美しく見える。もう一度、最初からやり直せたとして、記憶が残らないなら同じ選択をする可能性が高い。記憶が残るなら、それはもう「最初から」ではない。どちらに転んでも、後悔は消えない。

結婚しても後悔する

キルケゴールは1843年の『あれか、これか(Enten-Eller)』で、「A」と呼ばれる審美主義者にこう語らせた。

結婚しろ、後悔するだろう。結婚するな、それも後悔するだろう。結婚してもしなくても、どちらも後悔するだろう。世の中の愚かさを笑え、後悔するだろう。世の中の愚かさを嘆け、それも後悔するだろう。首を吊れ、後悔するだろう。首を吊るな、それも後悔するだろう。これが、紳士諸君、あらゆる哲学の精髄である。

冗談のように読めるかもしれない。だが、構造としては冗談ではない。

選択肢が存在するということ自体が後悔の前提条件だ。選択肢が二つ以上あるかぎり、選ばなかった道への未練は原理的に消えない。キルケゴールの「A」にとって、真の自由は選択の瞬間の直前にある。世界がまだ無限の可能性であるとき。選択した瞬間に、可能性は現実へと収縮し、他のすべての可能性は消滅する。後悔とは、消滅した可能性の亡霊かもしれない。

バリー・シュワルツは2004年の The Paradox of Choice で、選択肢が増えれば後悔も増えることを示した。メニューが3種類なら選びやすい。300種類あれば、何を頼んでも「もっと良いものがあったのでは」という疑念が消えない。私たちはなおも自由という夢を見るが、その自由の味は、後悔と区別がつかない。

選んでいないなら悔いることもできない

後悔が成り立つには、ひとつの暗黙の前提がある。「自分が選んだ」という感覚だ。

哲学では「行為者性(agency)」と呼ばれる。自分が行為の主体であるという意識がなければ、後悔は生じにくい。強制された行為に対して人はあまり後悔しない。「仕方なかった」という言い訳は、後悔を和らげるもっとも効果的な鎮痛剤のひとつだ。

ここに、厄介な問いが口を開ける。

もし決定論が正しいなら、すべての選択は脳内の物理プロセスの帰結だ。あなたが「選んだ」と感じたものは、何百万年の進化と数十年の経験と数秒前のニューロンの発火パターンの、不可避な結果にすぎない。誰も何も選んでいないのだとしたら、後悔は不合理だ。選びようがなかったことを悔やむのは、重力に文句を言うようなものだ。

だが、不合理だと知っても、後悔は消えない。

自由意志が幻想かもしれないと頭で理解しても、心はそれを受け入れない。「あのとき別の道を選べたはずだ」という直感は、どれだけ否定しても蘇る。後悔は論理の外側に住んでいる。

存在しない場所への郷愁

後悔の核心には、反実仮想(counterfactual thinking)がある。実際には起きなかったことを想像する能力だ。「もし工学部に進んでいたら」「もし別の街に住んでいたら」「もしあの日、声をかけていたら」。

進化的には、この能力は有用だったのかもしれない。「あのとき逃げなかったら食べられていた」と想像できるからこそ、次に危険が迫ったとき素早く動ける。学習装置としての後悔は、生存に貢献してきた可能性がある。

しかし問題は、反実仮想が描く「別の人生」は、原理的に検証できないことだ。哲学を選んだあなたは、工学を選んだあなたを知ることができない。その「別の自分」は想像の中にしか存在しない。そして想像の中の人生は、つねに都合よく美化される。

後悔とは、存在しない場所への郷愁なのかもしれない。届かない一言を過去の自分に届けたい衝動も、同じ構造の上に立っている。変えられないものを変えたいという、不可能な欲望。

慣れたとしても

ここで、ほんの少しだけ希望に見えるものがある。人は、たいていのことに慣れる。

かつて胸を刺した後悔が、数年後には「まあ、あれはあれでよかったのかもしれない」に変わることがある。ヘドニック・トレッドミルの理論が示すように、人間の感情にはベースラインへ回帰する傾向がある。それでも明日の朝また幸せを冀うのは、この適応のおかげでもある。後悔も例外ではなく、時間とともに鈍化する。

ただし、これは解決ではない。

後悔が鈍化するとは、判断の基準そのものが移動するということでもある。かつての後悔が薄れたとき、それは「正しい選択だった」という確認ではない。単に、あなたが変わっただけだ。過去の選択を肯定しているように見えるのは、過去の自分といまの自分が、もう同じ価値基準を共有していないからにすぎない。

後悔が消えたのではない。後悔していた自分が消えたのだ。そしてそのことに気づいたとき、また別の種類の後悔が静かに芽を出す。

あなたはもう手遅れだ

後悔しない方法を探している人に伝えられることがあるとすれば、それは「方法はない」ということだけだ。

後悔を避けようとすれば後悔が増える。受け入れようとすれば姿を変える。時間に任せれば鈍化するが、鈍化した先では自分が誰だったかもわからなくなる。学びに変えようとすれば、存在しない正解を追いかけることになる。良い人生なんてないのだとすれば、後悔しない人生もまた、ない。

キルケゴールが二百年近く前に書いた言葉は、いまも壊れていない。やっても後悔する。やらなくても後悔する。それがあらゆる哲学の精髄だと彼は言った。皮肉だったのかもしれない。しかし皮肉は、真実よりも正確なことがある。

あなたはいまこの瞬間にも、何かを選び、何かを選ばなかった。そのすべてについて、いつか後悔するだろう。もしくは、後悔しなかったことを後悔するだろう。

どちらにしても、手遅れだ。最初から手遅れだった。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu