「いつか」は来ない
「いつかやる」。
この五文字ほど便利な免罪符を、僕はほかに知らない。口にした瞬間、何かに向き合ったような気分になれる。やると言った。意志は示した。あとは時間の問題だ。でも、その「いつか」に日付を書き込んだことのある人は、たぶんほとんどいない。
日付のない予定を、予定と呼んでいいものだろうか。
「明日」という逃げ道
動物は先延ばしをしない。
犬は「明日散歩に行こう」とは思わない。腹が減れば食べるし、眠くなれば眠る。「明日」という概念を持たない存在には、先延ばしという贅沢がそもそも許されていない。先延ばしは、未来を思い描ける知性が生んだ副産物なのかもしれない。猫はただ今を生きている。猫が「あとでやろう」と思いながら昼寝をしているかどうかは分からないが、少なくとも罪悪感はなさそうだ。
「明日」は人間が発明したなかで最も優秀な逃避先かもしれない。何しろ、明日は永遠に一日先にある。今日がどれだけ進んでも、明日はつねにその一歩先にいる。追いつけない。追いつく必要もない。終わらない今日がやってこないかぎり、明日はいつだって逃げ道であり続ける。僕たちはそのことを薄々知っている。
準備が整う日なんてない
「準備ができたら始める」。
誰もが一度は口にしたことがあるだろう。では何が揃えば「準備ができた」と言えるのか。知識か、経験か、自信か。それとも、失敗しないという保証か。もし最後のものを求めているなら、準備が整う日は永遠に来ない。失敗しない保証など、この世のどこにも転がっていないからだ。
イギリスの歴史学者シリル・ノースコート・パーキンソンは1955年、『エコノミスト』誌に寄せたエッセイで、のちに「パーキンソンの法則」と呼ばれる観察を記した。仕事は、その完了のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。これは官僚制の非効率を風刺した言葉だったが、先延ばしにも妙に当てはまる。締切が一週間あれば一週間かかり、一日しかなければ一日で終わる。
「時間ができたらやる」と言うとき、僕たちはその時間がどこからか自然に湧いてくると信じている。だが時間は「できる」ものではない。一日は24時間で、それは昨日も明日も変わらない。「時間を作る」とは、実際には「何かを捨てる」ということだ。何かをやめ、何かを諦め、その空いた隙間にようやく「いつか」を押し込む。
つまり「時間ができたらやる」は、こう翻訳できる。「ほかの何かを犠牲にしてまでやる気はない」。正直でいい。でも、それをそのまま口にする勇気は、なかなか持てない。
怠惰じゃない、怖いだけだ
ここで、少し残酷な話をする。
先延ばしは怠惰の問題ではない。時間管理の問題でもない。カールトン大学の心理学者ティモシー・ピチルは、長年の先延ばし研究のなかで、ある結論にたどり着いた。先延ばしは感情調整の問題だ、と。
僕たちはタスクそのものを避けているのではなく、そのタスクにまとわりつく不快な感情を避けている。退屈、不安、自信のなさ、失敗への恐怖。そういったものから目を逸らすために、SNSを開き、動画を再生し、急に部屋の掃除を始める。今の気分をほんの少し楽にするために、未来の自分を犠牲にしている。それが先延ばしの構造だとピチルは言う。
知ってしまうと、少し切ない。僕たちは怠けているのではない。暇が怖いだけだ。
やらなかったことの幽霊
嫌な話になるが、もう少しついてきてくれ。
コーネル大学の心理学者トーマス・ギロヴィッチとヴィクトリア・メドヴェクは、1994年の研究で後悔の時間的パターンを調べた。短期的には「やってしまったこと」への後悔が強い。だが長期的には逆転する。時間が経つにつれ、人は「やらなかったこと」をより深く後悔するようになる。
やってしまった失敗には、物語がつけられる。「あれは学びだった」「あの経験があるから今の自分がいる」。人間は自分の過去を意味のある筋書きに変換する能力に長けている。だが、やらなかったことには物語がない。あるのは空白だけだ。「もし、あのとき」という仮定法の霧のなかに、選ばなかった人生がぼんやり浮かんでいる。
そしてその霧は晴れない。行動しなかったという事実は、遡って修正できないからだ。あのとき動いていればと、過去の自分に届かない一言を抱えたまま。
「いつかやる」と先延ばしにしたものが、10年後、20年後に幽霊のように訪ねてくる。実体がないぶん、余計にたちが悪い。そしてその幽霊に出会うたび、人はもう一度、最初からやり直せたらと夢想する。やり直せないと知りながら。
自由のめまい
デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールは、1844年の著作『不安の概念』のなかで、不安を「自由のめまい」と呼んだ。
何かを選べるということは、同時に何かを選ばないということだ。可能性が開かれているということは、そのすべてを実現できないということでもある。自由は解放であると同時に重荷でもある。選べるからこそ不安になり、不安だからこそ立ちすくむ。
先延ばしは、この「自由のめまい」の日常的な発露なのかもしれない。何でもできるはずなのに何もしない。それは怠惰ではなく、可能性という鎖のない牢獄の中で足がすくんだ人間の、静かなめまいだ。
もしそうだとすれば、先延ばしは有限な時間のなかで無限の可能性に向き合わざるを得ない存在の条件そのものに根ざしている。克服すべき悪癖というよりは、僕たちが自由であることの、少し情けない証拠なのかもしれない。もっとも、そもそも誰も何も選んでいないのだとしたら、先延ばしという概念そのものが幻想の上に立っているのだが。
だからといって、やらなくていいということにはならないのだが。
「いつか」の正体
結局、どうすればいいのか。
分からない。少なくとも、ここでは答えを出さない。
「先延ばしを克服する5つの方法」みたいなものを並べるのは簡単だ。でもそういうものは世の中にいくらでもあるし、それを読んで変われるなら、僕たちはとっくに変わっている。
むしろ、問いたいのはこういうことだ。
「いつか」が来ないと薄々知りながら、それでも「いつか」と言い続けるのは、弱さなのか。それとも、自分自身へのささやかな優しさなのか。まだ間に合うと思わせてくれる、小さな嘘。その嘘がなかったら、僕たちは今日という日の重さに耐えられるだろうか。
たぶん、耐えられない。だから僕たちは「いつか」を発明した。そしてそのことに気づいても、やっぱり「いつか」と言い続ける。
これは問題なのか。それとも、これが生きるということなのか。
答えは出ない。出なくていい。
ただ、この記事を読み終わったあと、あなたが「あとでやろう」と思っている何かは、たぶんまだそこにある。