あなたを撮った
街を歩いている。ふと、知らない人がこちらにレンズを向けている。シャッター音が聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。あなたの顔は、いまこの瞬間、誰かのSDカードに記録された。許可は求められていない。
あなたは怒るだろうか。それとも、気づかないまま歩き続けるだろうか。
ストリートスナップと呼ばれる行為がある。公共の場で、見知らぬ人を、断りなく撮る。撮る側はそれを「表現」と呼び、撮られる側はそれを「侵害」と呼ぶことがある。どちらも間違っていない。どちらも正しくない。この記事はその境界線について書くが、線は引けない。引けないということを、もう少しだけ丁寧に絶望してみたい。
シャッターという所有
スーザン・ソンタグは1977年の『写真論(On Photography)』で、写真を撮る行為を「所有」の一形態として記述した。
To photograph is to appropriate the thing photographed.
撮影することは、撮影された対象を占有することだ、と。カメラは記録装置であると同時に、世界を自分の側に引き寄せる道具であるとソンタグは論じた。写真は現実の断片を切り取り、撮影者のものにする。撮られた側の同意は、この構造の中では二次的なものにすぎない。
ソンタグの議論で特に鋭いのは、写真が「知ること」と「支配すること」の境界を曖昧にするという指摘だ。写真を撮ることは、対象を知ろうとする行為に見える。しかし同時に、それは対象を自分の文脈に回収し、自分の物語の中に位置づける行為でもある。旅先で現地の人々を撮るとき、あなたは「記録している」と思っている。しかしソンタグに言わせれば、あなたは「収集している」。
ストリートスナップは、この構造がもっとも露骨に現れる場面のひとつだ。被写体は見知らぬ他者であり、撮影者と被写体の間には関係がない。関係がないまま、一方が他方の像を奪い取る。「奪い取る」という言い方が強すぎると感じるなら、試しに逆の立場を想像してみればいい。あなたは自分の像を「与えた」覚えがあるだろうか。
法が黙っているところ
法律は、この問いに対して驚くほど曖昧な態度をとる。
日本には「肖像権」を明文で定めた法律がない。憲法第13条の幸福追求権から派生する人格権の一部として、判例法上認められてきたものだ。公共の場で撮影すること自体は、原則として違法ではない。しかし、撮影した写真を無断で公表した場合、被写体が自らの肖像の公表に合理的な期待を持っていなかったと判断されれば、民事上の責任を問われることがある。
つまり、撮ることと見せることの間に、法的な線が引かれている。ただし、その線は判例ごとに揺れる。
アメリカでは、公共の場にプライバシーの期待はないという原則が広く適用され、ストリートスナップに対する法的な制約は比較的少ない。一方、フランスやドイツでは肖像権がより強く保護され、公共空間であっても個人を特定可能な写真の無断公開は制限される場合がある。
法的な枠組みは国によって異なるし、時代によっても変わる。しかし、ここで本当に問題になるのは、法の話ではない。法が「撮ってもいい」と言ったとして、あなたは撮るべきなのか。「合法であること」と「正しいこと」が同じでないことは、歴史が繰り返し証明してきた。法が沈黙しているところに、倫理の本当の問いが始まる。
見えない塔
ここでもう一段、視点を引き上げたい。
ジェレミー・ベンサムが18世紀に設計したパノプティコンは、中央の監視塔から全房を見渡せるが、囚人の側からは監視者が見えない監獄建築だ。ミシェル・フーコーは1975年の『監獄の誕生(Surveiller et punir)』で、この構造を近代社会における権力のモデルとして読み替えた。重要なのは、実際に監視されているかどうかではない。監視されているかもしれないという意識が、人の行動を内側から規律化する。
ストリートスナップの構造は、小さなパノプティコンに似ている。
撮影者はカメラを構える。被写体は、多くの場合、撮られていることに気づかない。気づいたとしても、いつ、どこから、誰に撮られているかはわからない。権力の非対称性がそこにある。見る側は見られる側を選べるが、見られる側は見る側を選べない。
しかし、スマートフォンの普及は、この構造をさらに複雑にした。いまや全員がカメラを持っている。全員が潜在的な撮影者であり、同時に潜在的な被写体だ。パノプティコンの塔は消え、代わりに無数の小さなレンズが街のいたるところに存在している。監視の構造が内面化されるとき、人は「見られているかもしれない」という前提で振る舞い始める。公共空間は、もはや自由に振る舞える場所ではなく、常にレンズの前にいる可能性がある舞台になった。
ストリートスナップの撮影者は、この権力構造の一端を担っている。意図していようといまいと。
顔を奪うということ
レヴィナスの話をしなければならない。
エマニュエル・レヴィナスは、他者の「顔(visage)」を倫理の出発点に据えた。ここでいう顔は、鼻や目や口という物理的な配置のことではない。他者が目の前に現れたとき、その存在が私の認識の枠組みに収まることを拒む、という事態そのものを指す。顔は概念化を拒む。回収を拒む。そして、その拒絶そのものが、こちらに倫理的な応答を迫る。
写真は、この拒絶を無効化する。
レンズを通して他者の顔を記録するとき、あなたはその顔を画像に変換している。画像になった顔は、もう拒絶しない。トリミングされ、フィルターをかけられ、SNSにアップされ、いいねを集め、誰かのフィードを数秒間だけ飾って消えていく。生身の他者の顔が持つ抵抗は、シャッターを切った瞬間にすでに失われている。
もちろん、これはストリートスナップに限った話ではない。ポートレートでも、報道写真でも、家族のスナップでも、写真は常に他者を像に変換する。しかしストリートスナップの場合、被写体はその変換に同意していない。同意なき変換。それは倫理的に何を意味するか。
レヴィナスなら、おそらくこう言うだろう。他者の顔を自分の所有物にしようとすること自体が、ある種の暴力だ、と。ストリートスナップはその暴力を、芸術という名の下に正当化しようとしている。
ただし、これはレヴィナスの議論を極端に適用した場合の帰結であって、レヴィナス自身がストリートスナップについて論じたわけではない。
撮る者の特権
ストリートスナップの歴史をたどると、ある構造が繰り返し現れる。撮る者と撮られる者の間にある、社会的な非対称性だ。
ダイアン・アーバスは1960年代のニューヨークで、障害を持つ人々、トランスジェンダーの人々、社会の周縁にいる人々を撮影した。その写真は衝撃的で美しく、アーバスを20世紀の重要な写真家のひとりにした。しかし同時に、「特権的な立場にいる撮影者が、社会的に脆弱な人々を被写体として消費していないか」という批判も、繰り返し提起されてきた。
写真における権力の問題は、誰がカメラを持ち、誰がレンズの前に立つかという配置に凝縮される。歴史的に、カメラを持つ側は社会的に優位な位置にいることが多かった。植民地主義の時代、西洋の写真家が「未開の地」の人々を撮影した記録は、記録であると同時に、支配の道具でもあった。ソンタグが「写真は知ること、すなわち権力だ」と書いたのは、こうした歴史的文脈の上に立っている。
もちろん、すべてのストリートスナップがこの構造に当てはまるわけではない。撮る側と撮られる側が対等な社会的立場にいることもある。しかし、カメラを向けるという行為そのものに、微細な権力の勾配が内在していることは認めざるをえない。あなたは撮る側を選べるが、撮られる側は選ばれる。この非対称は、技術的にも倫理的にも、解消されていない。
同意という不可能
「撮る前に許可を取ればいい」。
この素朴な解決策は、問題の半分しか解決しない。
同意を求めた瞬間に、ストリートスナップのストリートスナップたる所以が失われる。街の中で、意識されないまま切り取られる一瞬。日常の中に不意に現れる構図や光。それらは、被写体がカメラの存在を意識した瞬間に消えてしまう。同意を前提としたストリートスナップは、形容矛盾に近い。
しかし、だからといって「芸術のためには無断撮影も許される」という結論は出ない。美しさへの応答が記録の動機になりうることと、その記録が他者の権利を侵害しうることは、両立する。撮影者がどれほど純粋な美的動機を持っていたとしても、被写体にとっては「知らない人に勝手に撮られた」という事実だけが残る。
日常を撮ることの価値は、ある。それは否定しない。しかしその価値は、他者の自律性を犠牲にしてまで追求すべきものなのか。ここに明確な線を引ける人間は、たぶんいない。
全員が加害者の街
そしてもうひとつ、現代に特有の問題がある。
かつてストリートスナップは、カメラを持ち歩く少数の写真家の行為だった。しかしスマートフォンの普及によって、状況は根本的に変わった。
2025年現在、世界のスマートフォン利用者は約50億人を超える。そのほぼすべてが高性能なカメラを搭載している。人々は日常的に写真を撮り、SNSに投稿し、位置情報とともに記録を残す。旅行先で、カフェで、電車の中で。意識的にストリートスナップをしているわけではなくても、他人が写り込んだ写真を日常的に撮影し、公開している。
つまり、ストリートスナップの倫理を「写真家」という特殊なカテゴリに限定して議論すること自体が、もはや意味をなさない。全員がカメラを持ち、全員が撮影し、全員が被写体になりうる世界において、「撮る側」と「撮られる側」の区別は流動的だ。あなたが誰かを撮っているその瞬間に、別の誰かがあなたを撮っているかもしれない。
自由と監視が表裏一体になった社会では、プライバシーという概念そのものが変質している。公共空間にいること自体が、撮影されうることへの暗黙の同意である、という考え方がある。しかし「公共空間にいる」ことと「自分の像を公開されてもいい」ということの間には、直感的に、巨大な隔たりがある。その隔たりを法はうまく捉えきれていないし、倫理はなおさらだ。
シャッターは止まらない
ストリートスナップは暴力か、芸術か。
たぶん、どちらでもある。そしてどちらでもない。
ソンタグはカメラに所有の暴力を見た。フーコーは視線に権力を見た。レヴィナスは他者の顔に倫理の根源を見た。法は曖昧な線を引き、文化はその線を毎年少しずつ動かしている。
ここに答えはない。「同意を取れ」は正しいが、同意を取ればストリートスナップは成立しない。「表現の自由だ」は正しいが、表現の自由は他者の尊厳の上に立つことを無条件には許さない。「公共の場なのだから仕方ない」は事実だが、仕方なさを受け入れることが正しさを意味するわけではない。
あなたが街を歩いているとき、誰かのレンズがあなたの横顔を捉えている。あなたはそれを知らない。知らないまま、角を曲がり、コンビニに入り、帰路につく。あなたの像は誰かのカメラロールに残り、あるいは削除され、あるいはどこかに公開される。あなたはそのすべてについて、何も知らないし、何もできない。
そして明日、あなた自身がスマートフォンを取り出し、何気なく風景を撮る。その端に、知らない人の横顔が写っている。あなたはそれに気づかない。気づいたとしても、たぶん消さない。
全員が撮り、全員が撮られ、全員がそのことについて何も考えない。考え始めたら、一枚も撮れなくなる。考えないことにしたら、この記事を読む前の場所に戻るだけだ。
シャッターは止まらない。止める理由も、止めない理由も、どちらも正当で、どちらも不十分だ。