倫理と思考実験

A lever, a ring, a button. These entries begin with a scenario that seems simple, then watch it come apart. They explore what we owe each other, whether empathy saves or destroys, and where justice frays at the edges.

倫理と思考実験

自販機の前

自販機の前に立つ。30本ほどの飲み物が並んでいる。数秒、迷う。結局、いつもと同じものを買う。 この数秒間に、何が起きているのか。たかが飲み物の選択にすぎない。しかし、その「たかが」の中に、意思決定の構造がそのまま映し出されている。 二つのシステム ダニエル・カーネマンは2011年の著書『ファスト&スロー』で、人間の思考を二つのシステムに分けた。システム1は直感的で高速な処理。システム2は論理的で低速な処理。日常の大半の判断はシステム1が担っている。 自販機の前での選択は、典型的なシステム1の領域だ。ボタンを押すまでに、価格、味の好み、気温、喉の渇き具合、前回の経験といった変数が、意識にのぼることなく統合されている。「なんとなくこれ」という直感は、怠惰ではなく、高速な情報処理の結果だ。 ただし、新商品が並んでいるときは事情が変わる。見たことのないパッケージが視界に入った瞬間、システム2が起動する。「これは何だろう」「おいしいだろうか」「値段は」。処理速度が落ち、選択に時間がかかる。自販機の前で立ち止まる時間が長い人は、優柔不断なのではなく、新しい情報を処理しているだけかもしれ

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

読む前の自分はもういない

あなたが誰かに本を贈るとき、あなたはその人の好みに合った本を選ぼうとする。しかし、本当に良い本は、読んだ人の好みそのものを変えてしまう。つまりあなたは、「読む前の相手」の好みで本を選ばなくてはならないのに、その本が成功すればするほど、「読んだ後の相手」は別の人間になっている。贈り物は届いたときにはもう、届くべき相手がいない。 これは本の話に限らない。人生のあらゆる重要な選択が、この同じ構造を持っている。 あなたはまだその本を知らない 哲学者L.A.ポールは2014年の著作 Transformative Experience で、こうした状況を「変容的経験(transformative experience)」と呼んだ。ポールによれば、変容的経験には二つの特徴がある。第一に、経験する前にはそれが「どのようなものか」を知ることができない(認識的変容性)。第二に、経験することで自分の核心的な選好や価値観が変わる(個人的変容性)。 子供を持つこと。恋に落ちること。重い病の診断。宗教的回心。初めて海外で暮らすこと。これらはすべて、経験する前と後で世界の見え方が根本的に変わる出来事だ。

By Sakashita Yasunobu

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波の上で誰を見捨てるか選ぶ

あなたは今、ボートの上にいる。海にはまだ人がいる。手を伸ばせば届く。でも、伸ばした瞬間にボートが傾いて、あなたも沈む。だから手を引っ込める。そしてその夜、ぐっすり眠る。 これは比喩ではない。あなたの今日そのものだ。 ボートの定員 1974年、生態学者ギャレット・ハーディンはPsychology Today誌にひとつの論考を発表した。「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor」。 比喩はこうだ。定員50人の救命ボートに、すでに50人が乗っている。余裕はあと10人分。海には100人が浮かんでいる。10人を選んで乗せるか。全員を乗せようとしてボートごと沈むか。誰も乗せないか。 ハーディンの答えは明快だった。誰も乗せるな。 ボートの定員は物理的制約であり、善意では拡張できない。全員を救おうとすれば全員が死ぬ。この残酷な算術は、道徳とは無関係に成立する。ハーディンにとって、これは冷酷な主張ではなく、現実の記述だった。 少なくとも、彼はそう信じていた。 共有される海、排他されるボート ハーディンにはもうひとつの有名な

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寛容が自らの喉を噛み切るとき

寛容な社会は、自分自身を食い殺す仕組みを最初から内蔵している。 1945年、カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』の脚注にひとつの不発弾を埋めた。「無制限の寛容は、寛容の消滅をもたらす」。哲学書の片隅に差し挟まれた短い注釈。それが80年後の今も、誰にも解除できない爆弾として転がっている。むしろ、時代が進むほどに信管は敏感になっている。 あなたは寛容な人間だと思っている。他者の意見を尊重し、異なる価値観を受け入れる。それは美しい態度だ。しかし、その寛容さはいつか、あなた自身を飲み込むために口を開ける。不寛容な者に対して寛容でいられるか。いられるとして、それはまだ寛容か。それとも、ただの降伏か。 ポパーが言ったこと、言わなかったこと 寛容のパラドックスについて語る人は多いが、ポパーの原典を正確に読んでいる人は驚くほど少ない。 ポパーの主張は「不寛容に対して不寛容であれ」という単純なスローガンではなかった。彼が『開かれた社会とその敵』の注釈で述べたのは、もう少し慎重な立場だ。合理的な議論によって対抗できる限りにおいては、不寛容な思想であっても言論で対処すべきである。しかし、合理

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そこにいなかった人たち

あなたはそこにいた。間違いなく。GPS がそう言っている。写真のタイムスタンプもそう言っている。SNS の投稿もそう言っている。でも、あなたはそこにいたのだろうか。 スマートフォンを構えた瞬間、あなたはその場所から静かに退場している。物理的にはそこに立っている。でも、意識はもう「今ここ」にはない。フレーミング、露出、アングル、そしてその写真を誰に見せるか。あなたの頭はすでに未来にいる。まだ存在しない聴衆に向かって、まだ起きていないリアクションを想像している。 現在は、あなたの手からすり抜けていく。 観察者は参加者になれない これは別に新しい話ではない。スーザン・ソンタグは1977年の時点で、写真を撮ることの本質をこう見抜いていた。写真とは「捕獲された経験」であり、カメラは「意識の貪欲な気分における理想の武器」だと。撮影するとは、被写体を「自分のもの」にすることであり、それは世界との関係を「知識のようなもの」に、つまり「権力のようなもの」に変換する行為だと。 ソンタグの言葉を借りれば、観光客の経験は「立ち止まり、写真を撮り、

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あなたはどこにも住んでいない

あなたには住所がある。郵便が届く。鍵を回せばドアが開く。布団があり、台所があり、光の入り方に見覚えがある。だがそこは「家」だろうか。あなたはそこに「住んでいる」だろうか。それともただ、寝る場所があるだけだろうか。 「家」という言葉は、思ったよりも重い。そして思ったよりも捨てがたい。 住まうということ ハイデガーは1951年の講演「建てる、住まう、考える」で、「建てる bauen」という言葉の語源を探った。古高ドイツ語の buan は「住まう」を意味する。そしてドイツ語の ich bin(私はある)は、もともと「私は住まう」を意味していた。つまり「存在すること」と「住まうこと」は、言語の最も深い層でつながっている。 ハイデガーにとって、住まうとは単に屋根の下にいることではない。それは大地と空のもとで、死すべき者として世界に居ることだ。

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持っていたつもりだった

あなたのスマートフォンを手に取ってほしい。あなたはそれを買った。代金を払った。箱を開け、フィルムを剥がし、初期設定を済ませた。だからそれはあなたのものだ。そう思っている。だが中に入っている音楽はあなたのものではない。電子書籍もあなたのものではない。アプリはライセンスに基づいて一時的に使用を許可されているだけで、提供者が気を変えれば明日には消える。あなたが「持っている」と感じているものの大半は、あなたのものではない。 そもそも「持つ」とは何か。この問いは思ったより厄介で、思ったより古い。 労働を混ぜる ジョン・ロックは『統治二論』第五章で、所有権の起源を説明しようとした。神は地上のすべてを人類に共有のものとして与えた。ではなぜ、ある土地やある果実が特定の個人のものになるのか。ロックの答えはこうだ。すべての人間は自分自身の身体を所有している。身体の労働、手の働きは、その人固有のものである。だから自然の状態にあるものに自分の労働を混ぜたとき、それは自分のものになる。リンゴを木からもいだ瞬間、そのリンゴはあなたの所有物になる。あなたの労働が加わったからだ。 この論理は一見すっきりして

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倫理と思考実験

配られたカードを見ろ

あなたは自分の人生を「自分で切り拓いた」と思っている。 けれど、少しだけ巻き戻してみてほしい。あなたが最初に下した「決断」は何だったか。母語を選んだか。生まれる国を選んだか。親の年収を、達伝子の配列を、生まれた世紀を、選んだか。 何ひとつ選んでいない。そして、その「何ひとつ選んでいない」が、その後のすべてを規定している。あなたの努力も、成功も、価値観も、この記事を読んでいるという事実も、すべてその初期条件の上に立っている。 この記事は「生まれ」という、誰もが経験し、誰もが選ばなかった出来事について書く。答えは出ない。ただ、引き当てたくじの中身を、もう少し丁寧に見ておきたい。 くじを引く手はなかった ハイデガーが「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ構造については、別の記事で書いた。私たちは自分の存在の出発点を選んでいない。それは人間の存在そのものの構造である、と。 ここでは、その被投性の具体的な中身に踏み込みたい。「投げ込まれた」という構造を哲学的に記述することと、投げ込まれた先の中身が人生をどれほど規定するかを見つめることは、似ているようでまったく違う。 被投

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信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

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信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

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倫理と思考実験

あなたは昨日と同じことをする

今朝、あなたは何をしたか。 目が覚めて、スマホを見て、歯を磨いて、服を着た。どれか一つでも「今日初めてやること」だっただろうか。たぶん、ない。明日も同じことをする。明後日も。そしてそのことに、ほとんど意識を向けない。 私たちは習慣の生き物だ。これは殺し文句ではなく、記述だ。一日の行動の大半は習慣であり、その習慣は意識的な決定を経由しない。問題は、それが何を意味するかだ。習慣とは自由の放棄なのか。それとも、自由の条件なのか。 徳は繰り返しから生まれる アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻で、習慣について最も有名な主張を行った。徳(アレテー)は知識ではなく、習慣(ヘクシス)である。 「私たちがあることをする前に学ばなければならないことは、それをすることによって学ぶ」。建築家は建てることによって建築家になり、竪琴弾きは弾くことによって竪琴弾きになる。同様に、正しい行いを繰り返すことによって正しい人になり、勇敢な行いを繰り返すことによって勇敢な人になる。 ここには、プラトンへの明確な反論がある。プラトンは徳を知識の問題とした。「善」とは何かを知れば、人は善く振る舞う。悪とは

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

線はどこにもなかった

あなたは今、何かの「内側」にいる。 部屋の中。国の中。言語の中。「自分」の中。どこを見ても、境界がある。内と外を分ける線がある。しかし、その線を指で触ろうとすると、何も触れない。近づけば近づくほど、線はぼやけていく。 私たちは線を引くことで世界を理解する。昼と夜、善と悪、生と死、自己と他者。分けることが、理解することだと信じている。しかし、分けられないものを分けているのだとしたら、その「理解」は何なのか。 砂の一粒 ギリシアの哲学者エウブリデスが提起したとされるソリテスのパラドクス(砂山の逆理)は、境界の不在を最も明快に示す。 砂山がある。そこから一粒を取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。この推論を繰り返すと、最後の一粒になっても「砂山」であることになる。あるいは逆に、一粒は砂山ではない。二粒も砂山ではない。この推論を繰り返すと、百万粒あっても「砂山ではない」ことになる。

By Sakashita Yasunobu