生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

日常の構造

満ちることのない器よ問いかけは続く

「足るを知れ」と言われたとき、どこか引っかかるものがある。 正論だ。欲望には際限がない。手に入れても次が欲しくなる。だから今あるもので満足しろ。論理としては明快で、反論の余地がないように聞こえる。それなのに素直にうなずけないのは、なぜだろう。 たぶん、この言葉が「満足しろ」という命令として届いてしまうからだ。しかも、すでに満たされている人の口から出ることが多い。持っている人が「持っているもので十分だ」と言うのと、持っていない人が「持っていなくても十分だ」と言わされるのでは、同じ言葉でも意味がまったく異なる。 「足るを知る」の出典を確認する 「足るを知る」の原典とされるのは、老子の第46章だ。原文には「知足者富」という語がある。足るを知る者は富む、と読める。 ただし、この章の文脈は「現状に満足しなさい」という穏やかな教えではない。第46章の主題は、天下に道が行われていない時代の描写だ。戦争のために軍馬が使われ、欲望が際限なく拡大していく状態への批判がある。「知足」はその過剰な欲望に対する処方箋であって、「今ある暮らしに文句を言うな」という意味では、少なくとも原典においては、な

By Sakashita Yasunobu

生きること

永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。 バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。 上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。 手段が目的を食い殺す アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。 ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。 ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録した

By Sakashita Yasunobu

生きること

「なんとなく嫌」の分解

嫌いなものなら説明できる。辛い食べ物が嫌い。寒い朝が嫌い。理由は明快で、誰に聞かれても答えられる。しかし「なんとなく嫌」は違う。理由がない。理由がないのに避けたい。避けたい理由を聞かれると困る。困るから「なんとなく」と言う。 「なんとなく」は説明の放棄ではなく、正確な記述だ。本当に「なんとなく」なのだから。 「嫌い」と「なんとなく嫌」は別の現象である 「嫌い」には構造がある。対象があり、理由があり、経験がある。犬に噛まれたから犬が嫌い。怒鳴られた記憶があるからあの部屋が嫌い。原因と結果が追跡可能だ。 「なんとなく嫌」には構造がない。あるいは、構造が見えない。特定のUIを触ったときの居心地の悪さ。特定の言い回しに対する微かな反発。特定の場所に入ったときの、帰りたいという衝動。どれも、問い詰められれば答えに窮する。 この二つは質的に異なる。「嫌い」は意識の出来事だ。「なんとなく嫌」は意識の手前の出来事だ。身体が先に反応し、意識が後から「なんとなく嫌だ」

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

永遠にあと半分の距離を走る

あなたはゴールに近づいている。あと半分。あとその半分。あとそのまた半分。残り距離は限りなくゼロに近づく。けれどゼロにはならない。永遠に、あと少し。2500年前のギリシャ人がこの構造に気づいたとき、彼はたぶん笑っていたと思う。あなたの人生が、亀を追いかけるアキレスとまったく同じ構造をしているのだと。 紀元前5世紀、エレアのゼノンは運動が不可能であることを論証しようとした。論証は失敗した。しかしその失敗が2500年間、哲学者と数学者の喉に刺さった小骨のように残り続けている。成功よりも長持ちする失敗というものがある。 亀はまだ先にいる もっとも有名なのは「アキレスと亀」だ。俊足のアキレスが、先にスタートした鈍足の亀を追いかける。アキレスが亀のいた地点に到達すると、亀はわずかに前進している。その新しい地点にアキレスが到達すると、亀はまたわずかに前進している。追いかけっこは無限に続く。論理的には、アキレスは永遠に亀に追いつけない。 現実のアキレスは10秒もあれば亀を追い越す。しかしゼノンの問いは「追いつけるか」ではない。「無限に分割された距離を、有限の時間でどうやって通過するのか」だ。

By Sakashita Yasunobu

生きること

金曜日を消した囚人の朝

あなたは来週死ぬ。ただし、いつ死ぬかは知ることができない。 これは脅しではない。哲学史のなかでもっとも厄介なパラドックスのひとつ、「予期せぬ絞首刑」の宣告文だ。囚人はこの宣告を聞いて、完璧な論理で「処刑は不可能だ」と証明してみせた。そして水曜日に、予告どおり、驚きとともに絞首台に立った。 論理は正しかった。結論は間違っていた。その矛盾のなかに、私たちの「知る」という行為そのものの限界が、静かに横たわっている。 完璧な推論、完璧な誤り パラドックスの骨子はこうだ。 判事が囚人に宣告する。「来週の月曜日から金曜日のいずれかの正午に絞首刑を執行する。ただし、当日の朝まで何曜日に執行されるかはわからない」。 囚人は考える。まず金曜日を検討する。もし木曜の正午まで処刑されていなければ、残りは金曜しかない。そうなれば木曜の夜に「明日だ」とわかってしまう。だから金曜はありえない。 金曜が消えれば、木曜が最終候補になる。水曜の夜には「明日だ」と推論できる。だから木曜もありえない。 同じ論法で水曜が消え、火曜が消え、月曜が消える。 すべての曜日が論理的に不可能になる。囚人は安堵して眠

By Sakashita Yasunobu

生きること

1兆の夜明けを数えた星の沈黙

深夜、ベランダに出て空を見上げる。星が見える。あるいは曇っていて何も見えない。どちらにしても、足元の地面は動いていない。少なくとも、そう感じる。 しかし今この瞬間も、あなたは地球の自転によって時速約1,670km(赤道上の場合)で移動している。新幹線の5倍以上。音速の約1.4倍。それをまったく感じないのは、あなたが地球と同じ慣性系の中にいるからだ。空気も、建物も、コーヒーカップも、すべてが同じ速度で動いている。相対的な差がないから、体感としてはゼロになる。 では、この回転は今まで何回繰り返されたのだろうか。 数えてみる 地球の年齢は約46億年とされている。放射性同位体の崩壊を利用した年代測定(ウラン-鉛法など)によって推定された数値だ。 単純に1日1回転として計算すると、46億年 x 365.25日 = 約1兆6,800億回転。途方もない数だ。しかしこの計算は正確ではない。地球の自転速度は一定ではないからだ。 月の重力が地球の海水を引っ張ることで潮汐が生じる。この潮汐は地球の自転にブレーキをかける。結果として、地球の1日は100年あたり約2.3ミリ秒ずつ長くなっている。わ

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

全員が見ていた

駅のホームで人が倒れた。あなたはそれを見た。周囲には何十人もの人がいた。あなたは足を止めかけて、しかし止めなかった。誰かが助けるだろう、と思った。全員が同じことを思っていた。全員が歩き続けた。 これは冷酷さの話ではない。構造の話だ。 三十八人の神話 1964年3月13日、ニューヨーク・クイーンズ地区で、キティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパートの前で殺害された。二週間後、ニューヨーク・タイムズ紙は衝撃的な記事を掲載した。38人の目撃者が犯行を見聞きしていたにもかかわらず、誰一人として警察に通報しなかった、と。 この記事はアメリカ社会に激震を与えた。都市生活の冷淡さ、人間の無関心、道徳の崩壊。あらゆる角度から語られ、引用され、教科書に載った。 ただし、この報道は嘘だった。 2007年、マニング、レヴァイン、コリンズの研究が、ニューヨーク・タイムズの記事を精査し、38人という数字には根拠がないことを示した。実際に犯行を目撃した人数はそれよりはるかに少なく、何人かは通報を試みていた。事件の全容を把握していた目撃者はほとんどいなかった。 しかし、嘘が正しい問いを生んだ。

By Sakashita Yasunobu

生きること

人が比較でしか幸福を測れない理由

幸福には単位がない。 体重はキログラムで測れる。気温は摂氏で測れる。距離はメートルで測れる。だが、幸福を測る単位は存在しない。「今日の幸福度は73ハッピーです」とは言えない。 だから人は比較する。他の誰かと。昨日の自分と。あるいは、想像上の「あるべき自分」と。それ以外に、自分がどれだけ幸福かを知る方法がない。 隣の芝が永遠に青い理由 レオン・フェスティンガーは1954年に社会的比較理論を提唱した。人間は客観的な基準がないとき、他者との比較によって自分の能力や意見を評価する、という理論だ。 幸福にも同じことが当てはまる。幸福の絶対的な基準がないから、人は周囲を見渡す。友人の昇進。同僚の結婚。SNSに流れてくる誰かの旅行写真。それらと自分の状況を並べて、自分が「まあまあ幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判定する。 問題は、比較の対象が常に上方に偏ることだ。自分より幸せそうに見える人間ばかりが目に入る。これはSNSによって劇的に悪化した。かつての比較対象は近所の人間や職場の同僚に限られていた。今では世界中の「幸せそうな人間」が比較対象になる。 あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚

By Sakashita Yasunobu

生きること

どちらを選んでも振り返る

後悔しない人生を送りたい。たぶん、あなたもそう願ったことがある。 だが残念なことに、その願い自体が罠だ。後悔を避けようとする行動は、慎重すぎる選択を生み、決断の先延ばしを招き、安全な道ばかりを選ばせる。そして数年後、あなたはこう思う。もっと大胆にすればよかった、と。後悔を避けたはずの人生が、後悔で満ちている。 後悔は追い払おうとすると寄ってくる。受け入れようとすると姿を変える。見て見ぬふりをすると、忘れた頃に刺す。 逃げた先で待っている 行動経済学には「後悔回避バイアス」という概念がある。人は将来の後悔を予測し、それを回避するように意思決定を歪める傾向があるという知見だ。損失を恐れて株を持ち続ける。告白が怖くて距離を置く。転職のリスクに怯えて不満を飲み込む。どれも、後悔したくないがゆえの行動だ。 問題は、この予測がほとんど当たらないことにある。 ダニエル・ギルバートらの2004年の研究 Looking Forward to Looking Backward は、この不一致を実証した。「あと少しで勝てた」場面と「明らかに負けた」場面を比較したとき、人は前者のほうがはるかに強

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生きること

決断できない状態の構造

どちらにするか決められない、と言ったとき、周囲の人間は「どっちでもいいから早く決めろ」と言う。たぶん、その通りだ。どちらでもいい。だからこそ決められない。 似すぎた選択肢 選択肢が二つある。どちらも同じくらい魅力的で、どちらも同じくらい不安がある。AにはAの利点があり、BにはBの利点がある。Aを選べばBの利点を失い、Bを選べばAの利点を失う。 心理学者バリー・シュワルツは『選択のパラドックス』の中で、選択肢が多すぎると人は決断できなくなり、たとえ決断しても満足度が下がると論じた。だが、選択肢が二つしかなくても決断できないことがある。問題は量ではない。選択肢の間の差が小さすぎることだ。 ふたつの選択肢が似ていれば似ているほど、どちらかを選ぶ理由が見つからなくなる。中世の思考実験に、ビュリダンのロバがある。等距離に置かれた二つの干し草の束の間で、どちらに行くか決められずに餓死するロバ。何でもいいと思えるほどに選択肢が拮抗しているとき、「何でもいい」は「何も選べない」に変わる。 正解があるという呪い 決断を阻むもうひとつの構造は、「正解がある」という思い込みだ。 就職先を選

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

波の上で誰を見捨てるか選ぶ

あなたは今、ボートの上にいる。海にはまだ人がいる。手を伸ばせば届く。でも、伸ばした瞬間にボートが傾いて、あなたも沈む。だから手を引っ込める。そしてその夜、ぐっすり眠る。 これは比喩ではない。あなたの今日そのものだ。 ボートの定員 1974年、生態学者ギャレット・ハーディンはPsychology Today誌にひとつの論考を発表した。「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor」。 比喩はこうだ。定員50人の救命ボートに、すでに50人が乗っている。余裕はあと10人分。海には100人が浮かんでいる。10人を選んで乗せるか。全員を乗せようとしてボートごと沈むか。誰も乗せないか。 ハーディンの答えは明快だった。誰も乗せるな。 ボートの定員は物理的制約であり、善意では拡張できない。全員を救おうとすれば全員が死ぬ。この残酷な算術は、道徳とは無関係に成立する。ハーディンにとって、これは冷酷な主張ではなく、現実の記述だった。 少なくとも、彼はそう信じていた。 共有される海、排他されるボート ハーディンにはもうひとつの有名な

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生きること

いいねの海に沈めなかった眼

SNSで「いいね」がたくさん付く写真を見て、何かが引っかかる。美しいのはわかる。技術的にも優れている。でも、好きになれない。この感情を「嫉妬でしょ」の一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も分からないままになる。 「嫌い」の中身は一枚岩ではない SNSで伸びる写真に対する不快感は、少なくとも4つの異なる感情が混在している。 均質化への嫌悪。 タイムラインを流れる写真の多くは、驚くほど似ている。高彩度、シンメトリー、ゴールデンアワーの逆光、同じ観光地の同じ構図。アルゴリズムが「伸びる」写真を選別し、それを見た人が同じような写真を撮り、さらにアルゴリズムが強化する。結果として、個々の写真に罪はなくても、全体として均質な風景が広がる。嫌悪の対象は個別の写真ではなく、この構造そのものである。 演出への違和感。 「映え」のために食べ物を並べ直す。行ったことのない場所で撮ったかのように見せる。被写体が「写真のために」存在している瞬間。そこに感じる不自然さは、「撮るために生きる」と「生きた結果を撮る」の違いに対する感覚的な反応である。 嫉妬。 自分の写真が伸びないのに、似たような写真が数

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