倫理と思考実験
余白が語りはじめる
完成した作品など、どこにもない。 何かが書かれるとき、書かれなかったものがある。何かが描かれるとき、描かれなかった部分がある。何かが語られるとき、語られなかった沈黙がある。私たちは書かれたもの、描かれたもの、語られたものに注意を向ける。当然だ。そこに意味があると思っている。だが、意味は本当にそちら側にあるのだろうか。 もしかすると、余白のほうが雄弁なのかもしれない。 塗り残された場所 長谷川等伯の『松林図屏風』を見たことがあるだろうか。六曲一双の屏風に、松林が描かれている。だが「描かれている」という表現はすでに正確ではない。画面の大部分は何も描かれていない。霧か靄か、あるいはただの紙の白さか。松の幹と枝がぼんやりと浮かび上がり、そしてまた霧の中に消えていく。この絵の核心は、松が描かれている部分にはない。描かれていない部分にある。 日本美術には「間」(ま)という概念がある。空間的な隙間、時間的な間隔、あるいはそのどちらでもない何か。建築における柱と柱のあいだ。音楽における音と音のあいだ。能舞台における動きと動きのあいだ。「間」は単なる空白ではない。空白そのものが表現の一部とし