おぼえ

Something was studied, and this is what it left behind — not the lesson itself, but the marks it left on the way through.

おぼえ

デカルトにおける表象的実在性と形相的実在性

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 デカルトは『省察』第三省察において、「表象的実在性」(realitas objectiva)と「形相的実在性」(realitas formalis)という区別を導入する。この概念装置は、観念の分析から神の存在証明へと至る議論の鍵となるものである。 第三省察の文脈 デカルトは第一省察で方法的懐疑を遂行し、第二省察で「私は考える、ゆえに私は存在する」(コギト)を確立した。しかし、この段階ではデカルトは独我論の立場にとどまっている。確実なのは自分の存在と思惟作用だけであり、外的世界の存在はいまだ保証されていない。 デカルトが次に取り組むのは、「欺く神」の想定によって数学的真理までも疑わしくなった事態において、「神は存在するかどうか」、「存在するとするならば欺瞞者ではないかどうか」を検討することである(小林道夫『哲学の歴史 第5巻』、217頁)。この検討のためにデカルトが展開するのが「結果からの(ア・ポステリオリな)証明」と呼ばれる神の存在証明であり、その核心に表象的実在性と形相的実在性の区別が

By Sakashita Yasunobu

おぼえ

カントにおける分析的判断と総合的判断

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 カントは『プロレゴーメナ』§2において、「綜合的判断と分析的判断の一般的区別」を論じている。この区別はカント哲学の出発点をなす概念装置であり、近代認識論の理論的基盤となっている。 分析的判断 分析的判断とは、述語が主語の概念の中にすでに含まれている判断のことである。カントは次のように定義する。 分析的判断は述語において、主語の概念のうちでそれほど明瞭に等しく意識されてではないにせよ、実際にすでに考えられていたもの以外のことは何も述べない。(『プロレゴーメナ』、25頁) たとえば、「すべての物体は延長している」という判断において、「私は物体の概念を少しも拡張したのではなく、ただこの概念を分解しただけである。延長ということははっきりと述べられてはいないが、その物体という概念によってすでに判断より以前に実際上考えられていたのだからである」(同上、25頁)。物体という概念そのものに空間的な広がりという意味が含まれており、新しい情報は何も付け加えられていない。日常的に言い換えれば、「独身者は結婚

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おぼえ

ラッセル『哲学入門』第1章 現象と実在

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 バートランド・ラッセル『哲学入門』(The Problems of Philosophy, 1912)は、哲学の基本問題を平易に論じた古典的入門書である。本稿ではその第1章「現象と実在」の議論を追い、ラッセルが提起する問題の構造を整理する。 本稿での引用は、バートランド・ラッセル『哲学入門』(高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2005年)に拠る。ページ番号は本文中に丸括弧で示す。 1. テーブルは実在するのか 日常的に目にするテーブルの色や形は、状況によって変化する。この「見かけ」と、変化しない「実在」としてのテーブルは同じものなのだろうか。ラッセルは方法的懐疑からこの問いを立てる。 一見すると、テーブルは見たり触ったり叩いて音を聞いたりすることで、その存在を確かめられるように思える。しかしラッセルは次のように指摘する。 もし本当にテーブルが存在するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり、触ったり聞いたりできないことが明らかにある。実在のテーブルが存在したとしても、そ

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哲学は文学的表現を必要とするか

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と述べ、哲学における厳密性を重視した。哲学は曖昧さを排し、論理的に明晰な言語で真理を語るべきだという理想がそこにはある。 ところが皮肉なことに、この言葉自体が詩的で暗示的な響きを持っている。翻訳の問題ではない。仮に「語れないことについては語るな」と素っ気なく言い換えたとしても、なお示唆的な含意がそこに入り込んでしまう。こうして考えていくと、メルロ=ポンティが論じるサルトルの洞察、すなわち「最も無味乾燥な散文であっても常に若干の詩を含む」(メルロ=ポンティ『意味と無意味』)という事態が、あらゆる言語表現を覆っていることに気づかざるをえない。 結局のところ、これは哲学と文学的表現の関係という問題に集約される。哲学は本当に文学的表現を排除できるのか。それともむしろ、哲学はそれを必要としているのか。本稿では、哲学と文学の歴史的対立から出発し、哲学者自身の実践における矛盾、言語の本質的限界を経て、哲学における文学的表現の必然性について

By Sakashita Yasunobu

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メルロ=ポンティ『知覚の現象学』と身体の問い

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 はじめに 本稿が検討する問いは「身体は〈物〉なのか」である。 この問いに対する素朴な答えは「然り」であろう。身体は物質から構成されており、物理法則に従う。医学は身体を物質的対象として扱うことで成功を収めてきた。しかし、この素朴な答えに対して、メルロ=ポンティは異議を唱える。 ただし彼の議論を追う前に、問いそのものを吟味する必要がある。「身体は物か」と問うとき、私たちはすでに「物」と「物でないもの(意識)」という区別を前提としている。さらに、フランス語で身体を表す語 corps は同時に「物体」をも意味し、objet は「対象」であると同時に「客観」でもある。「身体は物か」という問いは、言語のレベルですでに物と身体を同一視する構造を含んでいる。メルロ=ポンティによれば、この区別自体が科学的抽象の産物であり、「生きられた世界」の上に構成されたものである。したがって本稿の課題は、「物か否か」

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