誰も決めていないのに決まっている席についての考察

教室に入る。席は空いている。どこに座ってもいい。

その「どこでもいい」はずの選択に、妙な緊張が走ることがある。前列に座れば真面目だと思われるかもしれない。最後列に座れば、やる気がないと思われるかもしれない。中段のやや端、誰の視界にも入りにくい場所に、気がつけば足が向いている。

意識しているかどうかにかかわらず、教室には座席をめぐる暗黙の秩序がある。

前列の重力

教室の最前列に座る学生には、ある傾向が見られる。教員の声がよく聞こえる。板書が見やすい。質問がしやすい。物理的な距離の近さが、授業への関与度を高める。

座席位置と学業成績の間に正の相関があることは、複数の研究で示されている。前方に座る学生ほどGPAが高い傾向がある。しかし、ここで因果関係を読み取るのは早い。

前に座るから成績が上がるのか。成績が高い学生が前に座る傾向があるのか。この区別は重要だ。ベネディクトとホーキンスの2010年の研究では、座席をランダムに割り当てた場合、座席位置と成績の相関は大幅に弱まった。つまり、前列に座ること自体が成績を押し上げるのではなく、前列を選ぶ学生と高い成績を出す学生が、もともと同じ特性を共有している可能性が高い。

「前に座れ」というアドバイスは、因果の方向を取り違えている。

後列の自由

最後列に座る学生は、怠惰なのだろうか。一概には言えない。後列を選ぶ動機は一つではない。授業への関心が低い場合もあるが、単に人目を避けたい場合もある。教室全体を見渡せるという安心感もある。遅刻しても目立たないという実用的な判断もある。

エドワード・ホールが1966年に体系化した「プロクセミクス」(対人距離論)によれば、人は無意識のうちに他者との物理的な距離を調整し、心理的な快適さを保とうとする。教室の後列は、教員との距離を確保することで、一種の心理的な緩衝地帯として機能する。

後列に座ることが消極性を意味するとは限らない。むしろ、環境を自分に合わせて調整しているという意味では、能動的な選択だとも言える。

「いつもの席」が生まれる理由

面白いのは、自由席の教室で何回か授業が行われると、ほとんどの学生が毎回同じ席に座り始めることだ。誰も指定していないのに、暗黙の「指定席」が出来上がる。

これは環境心理学でいう「場所への愛着」や「なわばり行動」に近い。自分が過去に座った席には、心理的な所有感が生じる。先週も座った。その前の週も座った。その蓄積が、席と自分の間に緩い絆を作る。

もう一つの要因は、不確実性の回避だ。決断できない状態の構造で書いたように、選択肢が開かれているということは、そのたびに選ばなければならないということでもある。毎回の授業で「今日はどこに座ろう」と考えるのは、小さいがゼロではないコストだ。同じ席に座り続ければ、そのコストを消せる。

あなたは昨日と同じことをするで論じたように、習慣は意思決定の省略装置だ。座席の固定化は、教室という空間における日常の自動化にすぎない。

教室のサイズが変えるもの

座席の意味は、教室の規模によって大きく変わる。

300人が入る大教室では、前列と後列の間に物理的にも心理的にも大きな距離がある。最前列の学生は教員との対話が可能だが、最後列の学生はスクリーンの文字すら見えるかどうか怪しい。ここでは座席の選択が、授業体験の質を直接左右する。

一方、20人程度の少人数教室では、どこに座っても教員の声は聞こえるし、指名される可能性もほとんど変わらない。座席位置による体験の差は小さくなり、前列の「真面目さ」も後列の「自由さ」も、大教室ほどの意味を持たない。

つまり、座席の「階層」は教室が大きくなるほど明確になり、小さくなるほど曖昧になる。階層は座る人間が作り出しているのではなく、空間の構造が生み出している。

教室の外にも

この構造は、教室に限った話ではない。

電車に乗れば、ドア付近に立つ人と奥に詰める人がいる。映画館では中央の席から埋まる。会議室では、上座と下座の意識が今も機能している。「なんとなく嫌」の分解で触れたように、人は空間の中での自分の位置取りに、言語化されない感情を投影する。教室での座席選択は、その最も日常的な形態にすぎない。

次に教室に入ったとき、一瞬だけ立ち止まってみるといい。自分の足がどこに向かおうとしているか、観察してみる。それは習慣かもしれないし、気分かもしれないし、隣に座る人への配慮かもしれない。

理由は何であれ、その一歩には、あなたの日常が凝縮されている。

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