大学生がレポートでどう引用すればいいか迷ったら

結論から言う。特に指定がないなら、シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル(The Chicago Manual of Style)に従え。

教員から引用スタイルの指定がある場合は、そもそもこの記事を読む必要はない。指定どおりに書けばいい。この記事が対象としているのは、「特に指示がなくて、何をどう書けばいいかわからない」という人だ。

なぜシカゴ・マニュアルなのか

シカゴ・マニュアルは、人文科学系で最も広く使われている引用スタイルだ。歴史学、文学、哲学、芸術などの分野で国際的に採用されている。

人文社会系のレポートを書く場合、シカゴ・マニュアルに従っておけば、形式面で問題になることはまずない。汎用性が高く、書籍、論文、Webサイトのいずれにも対応している。

二つの方式がある

シカゴ・マニュアルには、二つの引用方式がある。

脚注・参考文献方式(Notes-Bibliography) は、引用箇所に脚注番号を振り、ページの下部または文書の末尾に文献情報を記載する方式だ。歴史学、文学、哲学の分野でよく使われる。

著者名・日付方式(Author-Date) は、本文中に(著者名 出版年, ページ)の形で参照を示し、文末に参考文献一覧を置く方式だ。社会科学系で使われることが多い。

人文系のレポートであれば、脚注・参考文献方式が一般的だ。どちらを使うか迷ったら、その科目の教科書や参考文献がどちらの方式で書かれているかを見ると手がかりになる。

他の引用スタイル

シカゴ・マニュアル以外にも、分野ごとに標準とされるスタイルがある。

APA(American Psychological Association) は、心理学、教育学、社会科学系で標準的なスタイルだ。著者名・日付方式を使い、参考文献リストの書式がシカゴとは異なる。

MLA(Modern Language Association) は、英語圏の文学・言語学で広く使われる。著者名・ページ方式を基本とし、出版年を強調しない点が特徴だ。

SIST 02 は、日本の科学技術情報流通技術基準として策定されたスタイルで、理工系の日本語論文で使われることがある。

どれが正しいという問題ではなく、分野によって慣習が異なるだけだ。指定がなければシカゴを使い、指定があればそれに従う。それでいい。

引用と剽窃の境界線

引用と剽窃(ひょうせつ)の違いは単純だ。出典を明示しているかどうか。

他者の文章や考えをレポートに取り込むこと自体は、学術的にまったく問題ない。むしろ、先行研究を踏まえることは求められている。ただし、出典を示さずに他者の文章を使えば、それは剽窃にあたる。最悪の場合、単位の取り消しや懲戒の対象になりうる。

直接引用(原文をそのまま使う場合)は、引用符で囲み出典を明記する。間接引用(自分の言葉で要約する場合)も、出典の明記が必要だ。

どこまでが一般常識で、どこからが引用を要するかの判断は、慣れるまで難しい。迷ったら引用しておく方が安全だ。引用が多すぎて減点されることはめったにないが、引用が足りずに剽窃とみなされれば失うものは大きい。

引用管理ツールを使う

レポートの本数が増えてくると、参考文献の管理が面倒になる。ZoteroやMendeleyといった無料の文献管理ツールを使えば、引用情報の収集と参考文献リストの自動生成ができる。

特にZoteroはブラウザ拡張と連携し、Webページや論文データベースから書誌情報をワンクリックで保存できる。Word用のプラグインもあり、レポート執筆中に引用を挿入すれば、指定したスタイルで参考文献リストが自動生成される。大学生になったら使うことを検討すべきアプリのひとつとして、早い段階で入れておくと卒業論文でも助かる。

まとめ

引用の形式は、一度覚えてしまえば難しくない。指定がなければシカゴ・マニュアルに従い、指定があればそれに従う。出典を明記する習慣さえつけておけば、形式の細部はツールが補ってくれる。

レポートの基本構成を押さえ、フォントフォントサイズを整え、引用を正しく示す。この基礎が揃えば、あとは中身に全力を注げばいい。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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