誰も見ていない花壇
花を植えた。誰にも見えない場所に。咲くかどうかは分からないし、咲いたところで見届ける人もいない。それでも土を掘って、種をまいて、水をやった。なぜかと聞かれても困る。意味があるかと聞かれたら、もっと困る。
たぶん、ない。
でも「たぶん、ない」と言い切れてしまうことのほうが、よほど不思議ではないだろうか。意味がないと分かっていて、なぜ手が動くのか。
咲いても誰も来ない
日記を書いたことがある人は多いと思う。では、その日記を読み返したことは?
書いたきり二度と開かないノートが引き出しの奥にある。それは、書かなかったのと同じだろうか。書いた瞬間には確かに何かがあった。考えが言葉になっていくあの感覚。頭の中の曖昧な塊がインクの線になる、あの過程。でも読み返さないなら、そこに残ったものは何だろう。
花も同じだ。誰にも見られない花壇の花は、咲いた事実だけをこの世に残して枯れる。美しかったかどうかを判定する目がない。美しさは、見る人がいなくても存在するだろうか。
哲学にはこの手の問いが昔からある。「森の中で木が倒れて、誰もその音を聞かなかったら、音はしたのか」。でも花壇の問いはもう少し厄介だ。木が倒れたときの空気の振動は、聞く人がいなくても物理的に起きている。でも「美しさ」や「意味」は、空気の振動のようには測定できない。
つまり問われているのは、こういうことだ。意味は、誰かがそれを認めなくても、存在しうるのか。
完成しなかったものは存在しない
途中でやめた小説。描きかけの絵。作りかけのプログラム。
世の中には「未完成の傑作」と呼ばれるものがある。シューベルトの交響曲第7番は「未完成」という名前で愛されているし、カフカの長編小説はほとんどが未完のまま世に出た。でもそれらは、誰かが原稿を見つけて、価値を認めたからこそ「傑作」になった。誰にも発見されなかった未完の作品は、存在しなかったのと区別がつかない。
ここで一つ気になることがある。「完成した」とはどういう状態だろう。最後の一文字を書いた瞬間か。出版された瞬間か。誰かが読んだ瞬間か。完成の定義が曖昧なら、未完成の定義も同じくらい曖昧だ。そうなると「途中でやめたから無意味だ」という判断は、何を根拠にしているのか分からなくなる。
ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、人間の営みを「労働」「仕事」「活動」の三つに分けた。このうち「活動(action)」は、何かを生産するための手段ではなく、行為そのものに固有の価値があるような営みだ。活動は成果に還元できない。結果がどうであれ、活動した事実そのものが意味を持つ、と彼女は考えた。
この理屈に乗るなら、途中でやめた小説にも価値はあったことになる。書いているあいだの没頭、あの時間は、成果物がなくても確かに起きていた。
でも、それで本当に救われるだろうか。(書く行為そのものに宿る価値については「なぜ私たちは書くのか」で考えた。)
幸福だと想像しろ
アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』の最後をこう結んだ。
シーシュポスは幸福であると想像しなければならない。
シーシュポスは神々に罰を与えられた男だ。巨大な岩を山の頂上まで押し上げると、岩は自重で転がり落ちる。彼はまた麓に降りて、押し始める。永遠に。終わりがない。成果がない。進歩がない。
カミュはこの姿に人間の条件を見た。人生に本質的な意味はない。にもかかわらず人間は意味を求め続ける。この埋めようのない溝を、カミュは「不条理」と呼んだ。彼の提案は、不条理から目をそらさず、それでも生き続けること。
ただ、この有名な一文にはよく見落とされるニュアンスがある。「幸福である」とは言っていない。「幸福であると想像しなければならない」と言っている。
原文の "il faut" は、英語の must に近い。義務、あるいは命令だ。つまりカミュは、シーシュポスが幸福だと断言したわけではない。幸福だと想像せよ、と命じている。想像を必要とするのは、そのままでは幸福に見えないからだ。汗まみれで岩を押す男の顔から、笑みを読み取るのは難しい。
これは慰めではない。挑発だ。意味のない労働を永遠に繰り返す男を前にして、「それでも幸福でありうる」と言い切る覚悟があるかと問うている。(カミュの不条理と意味への問いは「意味という病」でも正面から扱った。)
届いたことを知れない手紙
自分が作ったものが百年後に誰かの役に立ったとする。でも、自分はもうこの世にいない。それを知ることは絶対にできない。それでも「意味があった」と言えるだろうか。
言えるとしたら、それは誰にとっての意味だろう。百年後の誰かにとっての意味であって、作った本人にとっての意味ではない。本人は消えている。意味を感じる主体がいないのに、意味だけが宙に浮いている。
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でこう書いた。「世界の意味は、世界の外になければならない」。世界の内側で起きることは、ただ起きているだけだ。「なぜ」とか「何のために」という問いは、世界の中から発することはできても、世界の中では答えられない。
この理屈に従えば、意味は世界の「中」にある何かではない。百年後の誰かの頭の中にあるものでもない。頭も世界の一部だからだ。では意味はどこにあるのか。ヴィトゲンシュタインの答えはこうだ。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。
百年後に届く手紙の話に戻ろう。意味がどこにあるか分からないまま、人はものを作り、言葉を書き、花を植える。忘れられるとしても、届くかどうかも分からない手紙を、ずっと書き続けているようなものだ。(すべてが消えていく中で何かを残すことについては「どうせ全部消える」でも書いた。)
善いことがしたいのか、そう思われたいだけか
善いことをしたいのか、善いことをしたと感じたいのか。
普段はこの二つの区別がつかない。困っている人を助ければ、助けた事実と、助けたことで得られる満足感が同時に生まれる。では、善いことをしても何も感じなくなったら? 感謝もされず、達成感もなく、ただ「善い行い」という事実だけが残る。それでも続けるだろうか。
逆もある。実際には何もしていないのに「自分は善い人間だ」と確信している状態。本人は穏やかかもしれない。でもそれは善さとは別の何かだ。
カントは『道徳形而上学の基礎づけ』で、行為の道徳的価値は結果にも感情にもなく、義務に基づいて行為すること自体にあると論じた。気持ちいいから善いことをするのではなく、正しいから正しいことをする。それが道徳だ、と。筋は通っている。ただ、人間にそれを純粋にできるかは、また別の問いだ。
善いことをするとき、純粋な動機と自己満足を完全に分離するのは、たぶん不可能に近い。それは汚いことではない。ただ、正直に認めるのが少し怖いだけだ。
だから何だ
ここまで読んで、何か分かっただろうか。僕は何も分かっていない。
誰にも見られない花壇に意味はあるのか。途中でやめた作品は存在するのか。シーシュポスは幸福なのか。百年後に届く手紙に意味はあるのか。善い行いの動機は純粋でありうるのか。
分からない。どれも分からない。
禅の世界に「一期一会」という言葉がある。茶の湯の心構えから生まれた考え方で、核心は単純だ。この瞬間は二度と来ない。意味があるかどうかは分からなくても、この一回が最初で最後であることだけは確かだ。
花壇の花は明日には枯れるかもしれない。日記は読み返されない。岩は転がり落ちる。手紙は届かない。善意の裏には何かが張りついている。
でも、それがどうしたのだろう。
意味がないなら、意味がないことにすら意味がない。だったら好きにすればいい。植えたければ植えればいい。やめたければやめればいい。誰も見ていない。誰も気にしていない。
その、誰も気にしていない場所で、それでもなぜか手が動いてしまうこと。それを何と呼ぶのかは知らない。知らなくても、手は止まらない。