自販機の前

自販機の前に立つ。30本ほどの飲み物が並んでいる。数秒、迷う。結局、いつもと同じものを買う。

この数秒間に、何が起きているのか。たかが飲み物の選択にすぎない。しかし、その「たかが」の中に、意思決定の構造がそのまま映し出されている。

二つのシステム

ダニエル・カーネマンは2011年の著書『ファスト&スロー』で、人間の思考を二つのシステムに分けた。システム1は直感的で高速な処理。システム2は論理的で低速な処理。日常の大半の判断はシステム1が担っている。

自販機の前での選択は、典型的なシステム1の領域だ。ボタンを押すまでに、価格、味の好み、気温、喉の渇き具合、前回の経験といった変数が、意識にのぼることなく統合されている。「なんとなくこれ」という直感は、怠惰ではなく、高速な情報処理の結果だ。

ただし、新商品が並んでいるときは事情が変わる。見たことのないパッケージが視界に入った瞬間、システム2が起動する。「これは何だろう」「おいしいだろうか」「値段は」。処理速度が落ち、選択に時間がかかる。自販機の前で立ち止まる時間が長い人は、優柔不断なのではなく、新しい情報を処理しているだけかもしれない。

探索か搾取か

いつものお茶を買うか、新商品を試すか。この二択は、意思決定理論でいう「探索と搾取のトレードオフ」そのものだ。

搾取(exploitation)は、過去の経験から最も良いとわかっている選択肢を繰り返すこと。探索(exploration)は、より良い選択肢がないかを試すこと。搾取は安定したリターンを保証するが、より良い選択肢を見逃すリスクがある。探索は新しい発見の可能性を開くが、外れを引くリスクがある。

自販機の前で「いつもの」を押すのは搾取だ。新商品に手を伸ばすのは探索だ。そして多くの場合、人は搾取を選ぶ。理由は単純で、外れを引いたときの損失(まずい飲み物に150円を払う)が、当たりを引いたときの利得(おいしい飲み物を発見する)よりも心理的に大きく感じられるからだ。行動経済学でいう損失回避がここでも働いている。

あなたは昨日と同じことをするで論じたように、習慣は選択のコストを削減する装置だ。「いつものお茶」は、探索と搾取の葛藤を回避するための最適な戦略でもある。

選択肢は多いほうがいいのか

自販機には通常、25本から30本ほどの飲み物が並んでいる。この数は、多すぎるのだろうか。

コロンビア大学のシーナ・アイエンガーは、2000年の実験でこの問いに一つの答えを出した。スーパーマーケットのジャム売り場で、24種類を並べた場合と6種類を並べた場合を比較したところ、多い方が試食する客を引きつけたが、実際に購入に至った割合は6種類の方が10倍近く高かった。選択肢が多すぎると、選ぶこと自体が負担になり、最終的に何も選ばないという結果を招く。

ただし、この実験はその後の追試で結果が安定しないことも指摘されている。選択肢の多さが常に意思決定を阻害するわけではなく、選択肢間の違いが明確かどうか、選ぶ人の事前知識がどれくらいあるか、といった条件によって効果は変わる。

自販機の場合、選択肢の違いは比較的明確だ。お茶、コーヒー、炭酸、水。カテゴリで大まかに絞り込み、そこから好みで選ぶ。全30本を一つずつ比較する人はいない。無意識のうちにカテゴリでフィルタリングし、候補を3本程度に絞り込んでから最終判断を下す。この二段階の処理が、選択肢過多の罠を回避させている。

「水でいいや」の合理性

「水でいいや」。この言葉には、諦めのニュアンスが含まれることが多い。本当は何か味のあるものが飲みたいが、選ぶのが面倒で、最も無難な選択肢に逃げる。

しかし、これは意思決定の観点から見れば、きわめて合理的な戦略だ。

バリー・シュワルツは2004年の著書 The Paradox of Choice で、意思決定者を「最大化者(maximizer)」と「満足化者(satisficer)」に分けた。最大化者は常に最善の選択をしようとする。満足化者は「十分に良い」選択で満足する。研究によれば、最大化者のほうが客観的には良い選択をすることが多いが、主観的な満足度は満足化者のほうが高い。最善を求め続ける行為自体が、ストレスと後悔を生むからだ。

「水でいいや」は、満足化の極致だ。水は外れがない。期待も裏切られない。選択に費やすエネルギーをゼロにできる。決断できない状態の構造で書いたように、選択の自由は選択の苦痛でもある。「水でいいや」は、その苦痛からの意図的な離脱だ。

隠れた変数

自販機の前での選択には、意識されにくい変数がいくつも影響している。

気温。夏は冷たいもの、冬は温かいもの。これは当然だが、微妙な気温差でも選択は変わる。20度と25度では、選ぶ飲み物のカテゴリが変わる人は少なくないだろう。

時間帯。朝はコーヒー、午後はお茶、夕方は炭酸。体内時計とカフェイン摂取のリズムが、無意識に選択を方向づけている。

直前の活動。講義の後と体育の後では、欲しいものが違う。疲労の種類が異なれば、身体が求めるものも異なる。集中力が最も高い時間帯の錯覚で触れたように、私たちの認知状態は時間帯や活動によって常に変動している。その変動が、自販機の前での小さな選択にも反映されている。

自販機の配列も影響する。目線の高さに置かれた商品は、上段や下段の商品より選ばれやすい。自販機のメーカーはこれを知っていて、売りたい商品を目線の高さに配置する。あなたが「自分で選んだ」と思っている飲み物は、実は選ばされているのかもしれない。

小さな選択の集積

自販機の前での数秒間は、意思決定の縮図だ。直感と分析、習慣と冒険、損失回避と好奇心。日常の中で最も些細に見える選択の中に、人間の認知の仕組みがそのまま表れている。

大学生活は、こうした小さな選択の集積でできている。何を食べるか、どの席に座るか、空きコマをどう過ごすか。一つひとつは取るに足らない選択だが、その積み重ねが、あなたの行動パターンを形作っている。

明日、自販機の前に立ったとき、少しだけ自分を観察してみるといい。何秒迷うか。何を基準に選んでいるか。いつもと同じものを買うか、違うものを試すか。その数秒間に、あなたの意思決定の癖が、驚くほど正直に表れている。

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