なぜ物を捨てても満たされないか
部屋がすっきりした。ゴミ袋が三つ。クローゼットには隙間ができた。
達成感がある。しばらくは気分がいい。新しい自分になった気がする。身軽で、自由で、本質的な何かに近づいた気がする。
三日もすれば、その感覚は消えている。部屋はきれいなままなのに、あなたの中の何かが元に戻っている。あるいは、元よりも少し空虚になっている。
「捨てれば楽になる」という信仰
断捨離。ミニマリズム。持たない暮らし。ここ十数年、「物を減らすこと」は一種の救済として語られてきた。物が少なければ心が軽くなる。本当に大切なものだけに囲まれた生活は、豊かで、自由で、本質的だ。そういう物語が広く共有されている。
だが、これはひとつの信仰にすぎない。
物を減らすことが心を軽くするという因果関係は、実はそれほど自明ではない。物を減らした直後の爽快感は確かにある。だがそれは、行動そのものがもたらす達成感であって、物が減ったことの効果ではないかもしれない。何かを「やり遂げた」という感覚。コントロールできたという感覚。それは一時的なものだ。
虚空をつかむが描いたように、幸福の追求はしばしば幸福から遠ざかる運動になる。断捨離もまた、同じ構造を持っているのかもしれない。
捨てているのは過去の自分だ
物を捨てるとき、あなたが捨てているのは物ではない。
読まなくなった本。着なくなった服。使わなくなった道具。それらはすべて、かつての自分が選び、かつての自分が必要としたものだ。それを捨てるということは、かつての自分との決別を意味する。「もうこれは必要ない」と宣言することは、「もうあの頃の自分ではない」と宣言することだ。
これは思ったより痛みを伴う作業だ。物に付着した記憶は、物と一緒には捨てられない。捨てたはずの服のことを、ふとした瞬間に思い出す。あの服を着ていた頃の自分を思い出す。持っていたつもりだったものは、手放してみて初めて、その重さがわかる。
こんまりメソッドは「ときめくかどうか」を判断基準にした。だが、ときめかないけれど手放せないものがある。ときめくという感覚自体が、その瞬間の気分に左右される不安定なものだ。今日ときめかないものが、明日ときめくかもしれない。その不確実性を「ときめき」という直感で切り捨てることに、どれだけの暴力が含まれているのか。
物の量は問題ではなかった
ミニマリズムが「物を減らすこと」を目的化してしまうとき、奇妙な逆説が生まれる。
物を減らすために、どの物を残すべきかを延々と考える。残すべき物のリストを作り、カテゴリーを整理し、最適な持ち物の数を検討する。物を減らすという行為自体が、物への執着を深めているのだ。
満たされなさの根本は、たぶん物の量にはない。クローゼットがいっぱいでも空でも、あなたの中にある空洞の形は変わらない。物を足しても引いても、その空洞にはぴったりはまるものがない。
なぜなら、その空洞は物の形をしていないからだ。
デジタルのゴミ箱
物理的な物だけではない。デジタルの世界でも同じことが起きる。
不要なファイルを削除する。アプリを整理する。サブスクリプションを解約する。ストレージの空き容量は増える。だが、気持ちは変わらない。データを消しても、それが存在していた記憶は消えない。むしろ、消してしまったという事実が、新しい不安を生む。もしかしたら必要だったかもしれない、という。
意味という病は、物の所有にも感染している。物を持つことに意味を求め、物を捨てることにも意味を求める。「本当に必要なもの」という幻想を追いかけ続ける。だが「本当に必要なもの」の判断基準は、結局のところ、未来の自分への予測でしかない。そして未来の自分のことを、あなたは何も知らない。
空っぽの部屋に立つ
物を減らし、部屋を片付け、生活をシンプルにした先に待っているのは、自由ではない。
そこにあるのは、物がなくなった部屋と、それでも消えない空虚だ。物がその空虚を隠していたのだと気づくのは、すべてを取り去ったあとだ。鎖のない牢獄のように、障害物がなくなったところで、あなたはどこにも行けない。
捨てても満たされないのは、あなたのやり方が間違っているからではない。捨てることで満たされるという前提が、そもそも間違っていたのだ。
足りないのは物ではなく、物では埋まらない何かだ。そしてその「何か」の正体を、あなたはたぶん一生かけても言い当てることができない。