なおも自由という夢を見る
あなたは今日、何回選んだだろうか。
朝食に何を食べるか。どの服を着るか。どの道を通るか。どのメッセージに返信し、どれを無視するか。そのひとつひとつが「自由」の証だとされている。選べることが人間の尊厳であり、幸福の条件であると。
ではなぜ、こんなにも自由なはずの私たちは、こんなにも後悔しているのだろう。
自由という名の病
心理学者バリー・シュワルツは2004年の著書 The Paradox of Choice: Why More Is Less で、現代社会の奇妙な構造を描き出した。選択肢が増えるほど、人はより自由になるのではなく、より不幸になる。
話は単純な観察から始まる。スーパーマーケットの棚に並ぶ何十種類もの商品。何百ものチャンネル。無限に広がる情報。現代人はかつてないほど多くの選択肢を手にしている。しかしその結果として起きたのは幸福の増大ではなく、決断の麻痺と、選んだあとに残る果てしない後悔だった。
選択肢が少なければ、「まあこんなものか」と納得できる。しかし選択肢が膨大になった瞬間、「もっと良いものがあったのではないか」という疑念が芽生える。そしてその疑念は、どれだけ良い選択をしても消えない。
シュワルツはこの傾向が特に強い人を「最大化者(maximizer)」と呼んだ。最大化者は常に最善を求める。あらゆる選択肢を比較し、最高のものを手に入れようとする。一方「満足者(satisficer)」は「十分に良い」もので満足できる。そして研究が繰り返し示しているのは、最大化者のほうが客観的には良い結果を得やすいにもかかわらず、主観的にはより不幸だという事実だ。
最善を選んだはずなのに満足できない。そこにあるのは個人の問題ではなく、「選ぶ」という行為そのものに組み込まれた構造的な欠陥ではないだろうか。(等しい選択肢の前で動けなくなるロバの話は「何でもよかった、あるいは何もよくなかった」に書いた。)
不安のないところに自由はない
選択がもたらす苦しみは、現代心理学の発見ではない。19世紀の哲学者セーレン・キルケゴールは、すでにその核心を見抜いていた。
1844年の著作『不安の概念(Begrebet Angest)』で、キルケゴールは不安を人間の自由そのものと結びつけた。不安とは、外部の脅威に対する反応ではない。それはキルケゴールの言葉では「恐怖」と呼ぶべきものだ。不安とは、自分自身の可能性に直面したときに立ち現れる、めまいのような感覚である。
高い崖の縁に立ったときのことを想像してほしい。落ちることへの恐怖とは別に、「自分が飛び降りるかもしれない」という可能性そのものが引き起こす、あの奇妙な吸引力がある。キルケゴールはこの不安をめまいにたとえた。自由の前に立つ人間が感じるめまい。選べるという事実が生む、足元の崩れるような感覚。
つまり不安は、自由の副産物ではない。自由そのものの感触だ。
選べるということは、間違える可能性を永遠に引き受けるということだ。何かを選べるという事実そのものが、選ばなかった無数の可能性の亡霊を呼び出す。キルケゴールにとって、不安から逃れる道はなかった。不安から逃れることは自由から逃れることに等しく、自由を手放すことは人間であることをやめることに等しいからだ。
私たちは自由であることを選んだのではない。自由のなかに投げ込まれたのだ。そしてその自由の味は、不安と区別がつかない。(この不安と幸福の追求との関係は「それでも明日の朝また幸せになりたいと思ってしまう」で書いた。)
忘れられるのは選んだ後悔だけ
選択の苦しみは、選ぶ瞬間で終わらない。後悔にはどうやら時間的な構造があるらしい。心理学者トーマス・ギロヴィッチとヴィクトリア・メドヴェクの1990年代の一連の研究は、その不愉快な輪郭を明らかにしている。
短期的には、行動した結果の後悔のほうが鮮烈だ。衝動的な発言。失敗した挑戦。まずい告白。それらの痛みは具体的で、鋭い。しかし時間が経つにつれて、この種の後悔は和らいでいく。人は自分の行動を正当化する術を覚え、「あれも経験だった」と折り合いをつけることができるからだ。
問題は、行動しなかったことへの後悔だ。
応募しなかった仕事。伝えなかった言葉。行かなかった場所。この種の後悔は時間が経っても薄れない。むしろ膨らんでいく。行動しなかった場合、そこには反省すべき具体的な結果がない。あるのはただ「もし〜していたら」という仮定法の空白だ。そしてその空白を、想像力はいくらでも美しく塗りつぶすことができる。
実際にはうまくいかなかっただろう。おそらくそうだ。しかしそれを確かめる手段は、もう永久にない。「やらなかった後悔」は検証不可能な、理想化された並行世界として心のなかに住みつく。過去の自分に「あのとき別の道を」と伝えたくなる衝動はここから生まれるが、その手紙は届かない。
行動すれば具体的に後悔し、行動しなければ永遠に後悔する。この非対称から、私たちは逃れられない。(先延ばしと後悔の構造については「「いつか」は来ない」でも掘り下げた。)
あなたが嫉妬する人生は存在しない
「あのとき別の選択をしていたら」。おそらく人類がもっとも頻繁に行う思考実験だろう。
しかし冷静に考えれば、この問いは成立すらしていない。
「あのときの自分」が別の選択をするためには、同じ知識、同じ感情、同じ状況にいながら、なぜか異なる判断を下す必要がある。しかし条件がすべて同一ならば、結果も同一のはずだ。異なる選択が生まれるためには、何かが異なっていなければならない。そして何かが異なっていたなら、それはもう「あのときの自分」ではない。
「あのとき別の選択をしていたら」が本当に意味しているのは、「自分が別の人間だったら」ということにほかならない。
私たちが心のなかで思い描く「選ばなかった人生」とは、自分ではない誰かの人生だ。存在しない人間の、存在しない物語。私たちはそれに嫉妬している。そもそも自分でいる理由なんてないのだとすれば、嫉妬の相手すら幻だ。(「もう一度、最初から」では、人生をやり直せたらという仮定そのものの空虚さについて書いた。)
正解は最初からなかった
もうひとつ、厄介な問題がある。
仮に後悔しない選択が可能だとして、それは「正しい選択」だったのだろうか。後悔しないのは、その選択が正しかったからではなく、単に別の可能性を想像する能力や余裕がなかっただけかもしれない。鈍感さは後悔を遠ざける。しかし鈍感であることを「正しい」とは言いがたい。
逆に、どれほど合理的で、どれほど慎重に検討された選択であっても、結果が悪ければ後悔する。私たちは結果から遡って原因を裁く生き物だ。プロセスが完璧でも結果が裏目に出れば「判断を誤った」と感じるし、いい加減な選択が偶然うまくいけば「直感を信じてよかった」と自分を褒める。
後悔の有無は、選択の正しさとまったく相関しない。正しい選択をしても後悔し、間違った選択に満足することがありうる。後悔は道徳的な指標ではなく、心理的な反応にすぎない。
だとすれば、「後悔しない選択をしよう」という助言はいったい何なのだろう。「運の良い結果を引く選択をしよう」と言っているのと大差ないのではないか。
人生に「分岐点」があるという考え方自体も、ひとつの幻想かもしれない。私たちは自分の人生を振り返るとき、いくつかの決定的な瞬間を選び出し、「あそこが分かれ道だった」と意味づける。しかし実際には、どの瞬間も無数の微小な選択と偶然の重なりであり、特定の一点だけを「分岐点」として切り取ることは恣意的だ。因果の連鎖を遡れば、「決定的な瞬間」はどこまでも後退し、やがてあなたが生まれた瞬間にたどり着く。そこに筋書きなどなかった。
そしてそれは、あなたが選んだものではない。
逃げ場はない
ここまで読んで、どこかに救いが用意されていると思っただろうか。
選択肢が増えれば苦しみ、減れば窮屈だと嘆く。自由を欲しがり、手に入れた瞬間にその重さに潰される。行動すれば後悔し、しなくても後悔する。「正しい選択」なるものは事後的にしか判定できず、その判定基準すら信用に値しない。人生の「分岐点」は振り返ったときにだけ見える蜃気楼だ。
それでも明日、あなたは目を覚ます。何を食べるか選び、何を着るか選び、どこへ行くか選ぶ。選ばないという選択肢はない。選ばないこと自体がひとつの選択だからだ。もっとも、誰も何も選んでいないのだとしたら、この苦しみすら幻かもしれないが。
だから最後に、答えのない問いだけを置いていく。
もし人生のある時点に戻れるとしたら、あなたは本当に別の選択をするだろうか。するとして、その先の人生が今より良いと、なぜ言えるのだろうか。
それとも、戻っても何も変えないだろうか。何も変えない自分に、あなたは耐えられるだろうか。
あるいは、こう考えてみてほしい。もし今この瞬間、あなたの人生からすべての選択権が奪われたとしたら。朝食も、服も、仕事も、言葉も、全部誰かが決めてくれる世界。
あなたはそれを地獄と呼ぶだろうか。それとも、少しだけ楽だと感じてしまうだろうか。もし楽だと感じるなら、あなたはもう鎖を愛した動物と同じ場所にいる。
その答えが怖いなら、きっとあなたはもう気づいている。