哲学を学ぶデメリットあるいはメリット

「それって、どういう意味で言ってる?」

友人が「やっぱり努力って大事だよね」と言った。何気ない発言だ。同意すれば会話は流れる。しかし哲学科で二年を過ごした頭が勝手に動く。「努力」とは何を指しているのか。量の問題なのか、質の問題なのか。結果が伴わなければ努力ではないのか。そもそも努力できるかどうかは本人の意志だけの問題なのか

「ねえ、そもそも努力って何?」

こうして、場の空気は死ぬ。

哲学を学ぶと、日常の会話が噛み合わなくなる。哲学が悪いわけでも、友人が悪いわけでもない。哲学的な思考と日常会話には、根本的な速度差と目的の違いがある。その差を自覚しないと、ただ「面倒くさい人」になるだけだ。

前提を確認したくなる

哲学では、議論の前に前提を確認する。

「幸せになりたい」と誰かが言ったとする。哲学の訓練を受けた人間の頭には、即座に疑問が浮かぶ。「幸せ」は主観的な感情のことか、客観的な状態のことか。快楽の多さを指しているのか、人生全体の充実を指しているのか。アリストテレス的なエウダイモニア(徳の実現としての善い生)なのか、功利主義的な快楽計算なのか。

日常会話では、こうした疑問を口にしない。「幸せになりたいよね」「わかる」で会話は成立する。前提が共有されているかどうかは確認しない。確認する必要がない。お互いの「幸せ」が厳密に同じものを指していなくても、会話の目的は達成されるからだ。

日常会話の目的は、多くの場合、情報の正確な伝達ではない。共感の交換だ。「わかる」は「あなたの言葉の意味を正確に理解した」という意味ではなく、「あなたの気持ちに寄り添っている」という合図だ。前提が一致しているかどうかは、この目的にとって重要ではない。

しかし哲学は前提を確認することから始まる。ソクラテスが対話でやっていたのは、まさにこれだ。相手の主張の前提を一つずつ引き出し、吟味し、矛盾があれば指摘する。2500年たった今でもこの方法は哲学の基本動作だ。しかしそれを居酒屋でやれば、当然ながら嫌われる。

哲学書が読めない理由は難しさではない。哲学は結論を知ることではなく、問いを共有することを求める。しかし日常会話は問いの共有を求めていない。結論が出なくてもいい。気持ちが通じればいい。このモードの違いに気づかないまま哲学の作法を持ち込むと、会話は破綻する。

定義を求めたくなる

「正しいことをしよう」

こう言われたとき、多くの人はうなずく。しかし哲学を学んだ人間は立ち止まる。「正しい」とは何か。誰にとって正しいのか。どの基準で正しいのか。義務論的に正しいのか、帰結主義的に正しいのか。この社会で通用する「正しさ」は、別の社会でも正しいのか。

概念の定義を求める癖は、哲学を学ぶ過程で自然に身につく。曖昧な概念を曖昧なまま使うことに、違和感を覚えるようになる。「愛」「自由」「正義」「幸福」。日常で何気なく使われるこれらの言葉が、実は内部に膨大な論争を抱えていることを知ってしまう。知ってしまったら、知る前には戻れない。知れば知るほど暗くなるのに、懐中電灯は置けない

しかし日常会話は、概念の曖昧さを許容することで成り立っている。むしろ曖昧さこそが潤滑油だ。「愛」の定義が人によって違うからこそ、恋愛の話で盛り上がれる。全員が同じ定義を持っていたら、話すことがなくなる。

哲学は概念を裸にする。概念の境界はそもそもどこにもないにもかかわらず、日常ではその境界があるかのように振る舞っている。哲学を学ぶと、その「振る舞い」が見えてしまう。見えてしまうと、「正しいことをしよう」という素朴な発言に対して、素朴にうなずけなくなる。

これは知的な成長であると同時に、社会的な後退でもある。

速度が合わない

哲学の議論は遅い。

一つの概念に30分かける。一つの前提の吟味に1時間かける。カントの「定言命法」を正確に理解するのに何週間もかかる。哲学の時間感覚は、日常の時間感覚とはまるで違う。

日常会話は速い。1分のあいだに話題が三つ変わる。天気の話から仕事の愚痴になり、週末の予定に移り、最近見た動画の話になる。それぞれの話題に深く立ち入ることはない。表面を滑るように進む。それが心地よい。

哲学を学んだ人間は、この速度についていけなくなることがある。「天気がいいね」と言われたとき、反射的にうなずけばいいとわかっている。わかっているのに、頭のどこかが「いい天気とはどのような状態を指すのか」と考え始める。考えているあいだに会話は次の話題に移っている。追いつけない。あるいは追いつこうとしない。一つの話題に沈み込む癖がついてしまっている。

哲学の議論では、拙速に結論を出すことは浅いとみなされる。じっくり考え、慎重に言葉を選び、反論を想定してから発言する。しかし日常会話では、この慎重さは「ノリが悪い」に変換される。飲み会で沈黙は罪だ。考えている時間は、黙っている時間と区別がつかない。

哲学の議論が終わらないのは、この遅さが設計上の仕様だからだ。一つの問いに何時間でもかける。それが哲学にとっては正常な速度であり、日常会話にとっては異常な速度だ。どちらが正しいという話ではない。速度のレンジが違う。

「面倒くさい人」の自覚

哲学を学ぶと、「面倒くさい人」になる。これは避けられない。

「普通に考えて」と言われる。「普通」とは何か、と問い返したくなる。「常識で考えれば」と言われる。「常識」の根拠は何か、と問いたくなる。「みんなそう思ってる」と言われる。「みんな」とは誰か、と確認したくなる。

このように書くと嫌味に聞こえるかもしれない。しかし本人にとっては切実な問題だ。哲学の訓練は、曖昧さを検出するセンサーを研ぎ澄ます。そのセンサーは授業中だけ作動してくれない。飲み会でも、家族との会話でも、SNSのタイムラインでも、常に作動する。オフにするスイッチはない。

ソクラテスは、この「面倒くさい人」の元祖だった。アテナイの市場で人をつかまえては「正義とは何か」「勇気とは何か」と問い詰めた。相手が答えを出すたびに反例を示し、定義を崩した。知識人たちは自分の無知を暴かれ、恥をかかされた。結果、ソクラテスは「国家の認める神々を認めず、青年を堕落させた」という罪状で死刑を言い渡された。

面倒くさい人の末路は、厳しい。

しかしソクラテスが処刑されたのは、彼が間違っていたからではない。彼が正しかったからでもない。彼の問いが、人々の心地よい無自覚を脅かしたからだ。全員が正しいと信じている世界で、「本当に?」と問う人間は、居場所を失う。

二つの言語

では、哲学を学んだ人間はどうすればいいのか。

一つの答えは、使い分けることだ。哲学の言語と日常の言語を、別の言語だと割り切る。

日常会話では、前提を確認しない。定義を求めない。曖昧さを許容する。「幸せになりたいよね」「わかる」。それでいい。共感の交換は、概念の正確さとは別の次元にある価値だ。友人との会話に哲学の作法を持ち込むのは、茶道の席でフォークを使うようなものだ。作法が違う。

哲学の言語は、哲学の場で使う。ゼミで、論文で、哲学書を読みながら、同じ問いを共有できる相手と。そこでは前提の確認は歓迎されるし、定義の吟味は議論を深める。速度は遅くていい。結論が出なくていい。

ただし、この使い分けはそれほど簡単ではない。一度研ぎ澄まされたセンサーは、スイッチで切れるようなものではない。「幸せになりたいよね」と言われて「わかる」と答えながら、頭の中では「幸せの定義は」と考えている。口は日常語を話し、頭は哲学語で動いている。この二重生活は、慣れるまでに時間がかかる。

あるいは、慣れることなどないのかもしれない。哲学を学ぶとは、この居心地の悪さを引き受けることなのかもしれない。日常の会話に完全には戻れず、かといって哲学の議論だけでは生きていけず、その間のどこかに立ち続けること。

噛み合わないまま

哲学を学ぶと会話が噛み合わなくなる。それは事実だ。

しかしそれは、哲学が間違っているからでも、日常会話が劣っているからでもない。両者は目的が違い、速度が違い、前提の扱い方が違う。

日常会話は、人と人をつなぐ。正確さよりも温度を重視する。曖昧さは障害ではなく、人間関係の接着剤だ。

哲学は、概念を明晰にする。温度よりも正確さを重視する。曖昧さは検討すべき対象であり、放置してはいけない課題だ。

どちらも必要だ。どちらかだけでは足りない。

哲学を学んだ人間が「面倒くさい」のは、片方の言語をもう片方の場に持ち込んでしまうからだ。しかしその面倒くささは、世界を丁寧に見ようとする態度の副産物でもある。

会話が噛み合わなくなったとき、それは哲学が壊したのではない。もともと噛み合っていなかったものが、見えるようになっただけだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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