あなたは死ねない

目を閉じて、自分がいない世界を思い浮かべてほしい。

たぶん真っ暗な空間が見えている。何もない。音もない。ただ暗い。でも、その暗闇を「見ている」のは誰だ。自分がいないはずの世界を想像しているとき、そこにはまだ、想像している自分がいる。

自分の不在を想像することは、原理的にできない。想像という行為が、想像する主体を前提にしているからだ。あなたは自分の不在を、自分の存在を通じてしか思い描けない。矛盾というほど大げさなものではない。ただ、構造的に不可能だというだけの話だ。

紀元前3世紀、エピクロスは『メノイケウス宛書簡』の中でこの直観をごく簡潔に定式化した。「死はわれわれにとって何でもない。なぜなら、われわれが存在するとき死は現前せず、死が現前するときわれわれはもはや存在しないから」。善も悪も感覚の中にあり、死とは感覚の剥奪である以上、死はわれわれに関係しない。二千年以上経った今もなお、死の恐怖に対する最も端的な回答のひとつとされている。

理屈としては完璧だ。死は経験されない。経験されないものを恐れる合理的な根拠はない。

なのに怖い。

理性は納得している。感情は拒否している。このギャップは論証で埋まるものではないし、二千年間、誰もこの議論を論駁できていない。同時に、二千年間、誰もこの議論で安心できていない。

死んだ後のタイムライン

もう少し地上に近い話をしよう。

あなたが明日死んだとして、あなたのSNSアカウントはどうなるか。投稿は残る。写真も残る。DMの履歴も、いいねの痕跡も、すべてそのまま残る。サーバーが動いている限り、あなたのプロフィールページは表示され続ける。

それは「あなた」だろうか。デジタルの痕跡が残り続ける限り、ある意味では誰もまだ死んでいない

故人のアカウントに「お誕生日おめでとう」と自動通知が飛ぶ。友人がそれを見て、一瞬止まる。こういうことは今すでに起きている。故人の声や文体を学習して応答を生成するAIサービスも登場している。遺族がそのAIと会話する。画面の向こうに、聞き覚えのある言葉遣いが並ぶ。

そのとき遺族は、誰と話しているのか。画面の向こうに灯りは点いているのか

故人のデータから生成された応答を、故人の言葉と呼べるか。呼べないとしたら、それは何なのか。精巧な録音の再生か。統計的な幻影か。あるいは、生前の本人と話していたときだって、こちらが解釈した像と話していただけなのだから、本質的には変わらないのか。

考えれば考えるほど、境界は溶けていく。それは死後の問題であると同時に、生きている間の「他者の存在とは何か」という問いに、気づけば接続している。

コピーの目覚め

話をもう少し遠くまで飛ばす。

もしあなたの脳の情報をすべてスキャンし、コンピュータ上に完全に再現できたとする。記憶、性格、思考のくせ、すべてが正確にコピーされた。そしてオリジナルの身体は死んだ。

コンピュータ上の「あなた」は、あなたか。

デレク・パーフィットは1984年の著書『理由と人格(Reasons and Persons)』で、いわゆる転送装置の思考実験を提示した。地球で身体を分解し、火星で原子レベルまで正確に再構成する。再構成された人物は、分解前の人物の記憶をすべて持ち、同じ性格で、同じ思考をする。この人物は「同一人物」か。

パーフィットの立場は還元主義と呼ばれる。「自己」とは心理的連続性と結びつき(彼の用語で「関係R」)の束であり、それが保存されていれば、物理的な基盤が異なっていても、重要なものは維持される。パーフィットにとって重要なのは「同一人物かどうか」という問いそのものではなく、心理的なつながりが保たれているかどうかだった。この見方に従えば、コンピュータ上のあなたは、少なくとも「重要な意味で」あなただ。

しかし、ここで不穏な変奏が可能になる。コピーが一つではなく、二つ作られたらどうなるか。どちらも同じ記憶を持ち、同じように「自分こそが本物だ」と主張する。そのとき「あなた」はどこにいるのか。二人とも「あなた」なのか。どちらも「あなた」ではないのか。

コピーの問題は、同一性が一人称の内側からしか保証できないことを突きつける。外側から見れば、オリジナルとコピーは区別がつかない。区別できないものが二つあるとき、「本物」という概念は静かに意味を失う。もし「本物」がどこにもいないなら、あなたは最初からいなかったのかもしれない

薄まる設計図

遺伝子を残すということについて考えてみる。

子どもが生まれる。自分のDNAの半分が、その子どもの中にある。残りの半分は別の人間のものだ。孫になれば、自分の寄与は四分の一。ひ孫で八分の一。五世代も経てば三十二分の一にまで希釈される。

これは「自分を残す」ことだろうか。

生物学的に言えば、遺伝子の機能は種の情報を確率的に次世代に渡すことであって、ある個人の同一性を保存することではない。「自分の遺伝子を残す」という表現は、厳密には科学的記述というよりも比喩に近い。

そしてその比喩に、多くの人が慰めを見出す。子どもの顔に自分の面影を見て、何かが続いていくと感じる。その感覚を否定する理由はない。ただ、それが「自分」の存続であるかどうかは、まったく別の問いだ。一体なにがのこるんだっていうんだと問い始めれば、面影は答えにならない。

仮に、あなたの全遺伝情報がどこかの機関に保存されていて、五百年後にその情報から人間が再構成されたとする。その人物はあなたの遺伝子を100%持っている。あなたの記憶はない。あなたの人生を知らない。名前も知らない。

その人物は、あなたか。

おそらく、ほとんどの人が「違う」と答える。つまり遺伝子だけでは「自分」にならない。では何が足りないのか。記憶か。経験か。人間関係か。それとも、そのどれでもない、言葉にならない何かか。

代わりのきかない終わり

マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927年)の中で、死を独特の仕方で位置づけた。

ハイデガーにとって、死とは「最も自分自身のもの(eigenste)」だ。他のあらゆることは委任できる。仕事も、決断も、責任ですら、誰かに引き渡せる。しかし死だけは、完全に、取り返しのつかないほど、自分だけに属している。誰かが自分の身代わりに命を落とすことはできても、自分が死ぬということそのものを肩代わりしてもらうことはできない。

ハイデガーはこれを「死への存在(Sein zum Tode)」と呼んだ。死は人生の終点として遠くに待っているのではなく、生きている間つねにつきまとう構造として把握される。われわれはすでに、常に、死に向かって存在している。

この見方は、ある種の残酷な自由を提示する。死が自分だけのものであるなら、死と向き合うことも自分だけの行為であり、その向き合い方が生の形を決める。ハイデガーは、死から目を逸らして日常に埋没するあり方を「非本来的(uneigentlich)」と呼び、死を先駆的に引き受ける覚悟の中に「本来性(Eigentlichkeit)」を見た。

ただ、この本来性にはどこか強迫的な響きがある。死を常に意識せよ。自分の有限性から逃げるな。哲学としては美しいかもしれない。しかし毎朝その覚悟で目覚める人がいるとしたら、それは覚悟というより不眠症に近い。招いた覚えのない存在に覚悟を求められたところで、こちらこそ願い下げですと返したくもなる。

ハイデガーの洞察は、おそらく正しい。どうせ死ぬということを直視せよと言われたところで、だからどうしろというのか、という問いが残る。そしてハイデガー自身も、その問いには答えない。

誰も見つけていない核

ここまで来ると、いくつかのことが見えてくる。

自分の不在を想像することはできない。デジタルな痕跡は自分ではない。意識のコピーは同一性の問題を解決しない。遺伝子は自分を保存しない。死は自分だけのものだが、だからといって何かが分かるわけではない。

どの入口から入っても、同じ暗い部屋に出る。「自己」とは何か。何を取り除いたら自分でなくなるのか。何を足しても自分のままでいられるのか。この問いを突き詰めた先に、確固たる核のようなものは、現れない。記憶を削っても、性格を変えても、身体を入れ替えても、「自分」が消えるポイントを正確に指し示すことは、誰にもできていない。

パーフィットはこの結論をほとんど晴れやかに受け入れた。自己という深い事実(deep further fact)は存在しない。それは絶望ではなく解放だ、と彼は書いた。自分という牢獄の壁が幻だと気づけば、壁の外に出ることを恐れる理由もなくなる、と。

しかし、壁が幻だと頭で理解しても、壁にぶつかれば痛い。パーフィットの透徹した論理と、朝起きて鏡を見て「自分だ」と確認するあの安堵感のあいだには、埋めようのない隙間がある。

消灯

結局のところ、死について考えることは、自分について考えることと同じだ。そして自分について考えることの最も困った特徴は、考えている自分がつねに邪魔をするということだ。

自分を対象化しようとする自分。その自分を見ている自分。無限に後退するこの構造の中で、つかまえられるものは何もない。

あなたが死んだ後に残るものは、あなたではない。忘れられるとしても痕跡は残ると人は言うが、その痕跡はもう別の何かだ。あなたの記憶を持ったコピーも、あなたではないかもしれない。あなたの遺伝子を持った子どもも、あなたではない。そして何より、今ここにいるあなたが「あなた」であるという保証も、実のところどこにもない。

探していたものは最初からなかったのかもしれない。あるいは、探しているという行為そのものが、探しているものを永遠に遠ざけているのかもしれない。意味という病の最も厄介な症状は、答えのない問いを手放せないことだ。

どちらにせよ、部屋の電気は消える。あなたがスイッチを切るのか、誰かが切るのか、それとも停電なのか。いずれにしても暗くなる。そして暗くなった後に、暗さを感じる人はいない。

エピクロスはそれでいいと言った。ハイデガーはそれを直視しろと言った。パーフィットはそもそも消える「自分」など存在しないと言った。

三者とも、たぶん正しい。そして三者とも、たぶん何の役にも立たない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

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