私という凡庸
あなたの代わりはいる。それも、かなりたくさん。人間にも機械にも。
これは侮辱ではない。観察だ。深い穴を何十年もかけて掘り続けてきた専門家がいて、あらゆる穴の構造を瞬時に把握できるAIがいて、あなたはシャベルすら持たずにその傍らに立っている。素人として。
ある企業のインターンシップに参加したとき、期待されたのは「哲学を学んでいる人間ならではの視点」だった。だが哲学を学んでいるからといって、人を唸らせるような洞察が自動的に湧いてくるわけではない。当然だ。哲学は知識の自動販売機ではないし、「ならではの視点」はボタンを押して出てくるものではない。
深さも広さも足りないとき、残っているのは何だろう。たぶん、何も残っていない。だがその「何もなさ」のほうに、少しだけ面白い問いがある。
以下は、そのあたりのことを真夜中に考えていたら、いつのまにか遠くまで漂流してしまった思索の記録だ。答えは用意していない。答えがないことが答えだ、とすら言うつもりはない。ただ、考えてしまった。深夜の、誰にも頼まれていない時間に。
代替可能
すべては交換可能である
産業革命は肉体を機械に置き換えた。AIは認知を置き換えつつある。この先に何が残るかについて楽観的な予測は山ほどあるが、どれも確かなことは言っていない。
「置き換え」という言葉は、人間を機能として見る視点を前提にしている。ある機能を果たす部品は、同じ機能を果たす別の部品に差し替えることができる。ネジはネジで置き換えられる。コードを書く人間はコードを書くAIで置き換えられる。論理としては破綻していない。
ハイデガーは『存在と時間』(1927)で「各自性」(Jemeinigkeit)という概念を提示した。存在は常に「私の」存在であり、誰も私の代わりに死ぬことはできない。これは形而上学の領域の話であって、オフィスの人事配置の話ではない。だが、朝の通勤電車で「自分の代わりはいくらでもいる」と感じたとき、この二つの次元は予告なく交差する。
誰かがあなたとまったく同じ成果を出せるとする。そのとき、あなたがそれをやる理由は何か。成果物が同一であるなら主体は交換可能だ。だが「私がこれをやっている」という事実は、成果物の外側にしか存在しない。そしてその「外側」には値段がつかない。
交換可能性は経済の論理であって、存在の論理ではない。だが私たちが実際に生きているのは経済の論理のほうだ。存在の論理は、深夜にひとりで抱えるもので、朝になると出勤する。給与明細には「各自性」の欄がない。
「あなたがやらなくても誰かがやる」。事実であるがゆえに反論の余地がなく、反論の余地がないがゆえに残酷だ。事実はいつもそうやって人を黙らせる。
無能
わかっていることと、できることの間にある溝
水泳の理論を完全に理解している人間が溺れる。倫理学を何年も研究した人間が嘘をつく。知識は能力を保証しない。これは日常的に経験することだが、よく考えるとかなり不穏な事実だ。
プラトンの『プロタゴラス』や『メノン』に描かれるソクラテスは、「徳は知識である」と考えていた。悪をなす人間は無知であって、善が何であるかを本当に知っていれば善を行うはずだ、と。これに対してアリストテレスは『ニコマコス倫理学』第7巻で、アクラシア(意志の弱さ)という概念を正面から論じた。何が正しいかを知りながら、なお正しくないことをしてしまう人間がいる。知と行為の間にある溝は、古代ギリシアからすでに哲学が格闘してきた問題だ。
素人にとって、この溝は特殊な形で現れる。学べば学ぶほど、自分がいかにできていないかが鮮明になっていく。知れば知るほど暗くなる。知識が増えるほど無能の輪郭がくっきりする。ソクラテスの「無知の知」は、知らないことを知ることだった。ここで起きているのはそれとは別の種類の絶望で、「知っているのにできない」ことを知ること。泳ぎ方を完璧に説明できるが泳げない人間と、泳げるが説明できない人間の間にある距離は、言語で測れない。
AIはこの溝をさらに複雑にする。AIは「わかっている」のか、それとも「できている」のか。膨大なデータからパターンを抽出し、適切な出力を生成する過程は、「理解」なのか「模倣」なのか。この問いの厄介なところは、人間の認知にも同じ疑念を向けられるという点にある。私たちが「わかっている」と感じているものも、結局は脳内のパターン認識ではないのか。
溝は閉じない。学ぶほどに広がる。そしてその溝の底は見えない。
模倣
すべての創造は盗用である
T.S.エリオットは1920年のエッセイ「フィリップ・マシンジャー」(『聖なる森』所収)でこう書いた。「未熟な詩人は模倣し、成熟した詩人は盗む」。ここでの「盗む」とは、影響を受けたものを自分の中で完全に消化し、もはや引用元がわからなくなるほどに自分のものとするという意味だ。だが「完全に消化した」かどうかを決めるのは誰なのか。本人か、読者か、時代か。
ハロルド・ブルームは『影響の不安』(1973)で、すべての詩人は先行する詩人の影のもとで書いていると論じた。創造とは先行者との格闘であり、その影響を誤読し、ずらし、乗り越えようとする営みだ。完全に独立した創造は存在しない。あらゆる表現は応答であって、まっさらな地面の上に建つ建築物ではない。
生物学的にも、ゼロからの創造は存在しない。DNAは組み換えだ。進化は既存の形質の再配置と変異によって進む。新しい形態は無から生じるのではなく、既存の形態の変形として現れる。
音楽の歴史はこのことをわかりやすく示す。ロックンロールはリズム・アンド・ブルースから生まれ、ブルースはアフリカ音楽とヨーロッパの和声が出会う中で形成された。どの時点で音楽は「オリジナル」になるのか。その線引きは恣意的であって、論理的な根拠は希薄だ。
独創性がゼロからの創造ではなく既存の要素の特定の配置であるならば、AIがパターンを再配置していることと、人間がパターンを再配置していることの間に、原理的な差異はあるのだろうか。もし差異があるとすれば、それは過程の違いか、結果の違いか、主体の違いか。同じ文章、同じ旋律を、人間とAIがそれぞれ独立に生み出したとしよう。その二つの間に価値の差があるとすれば、それは内容ではなく作者に帰属する差だ。私たちが評価しているのは作品なのか、作品の背後に想定される意図や苦労や人格なのか。
日本語の「学ぶ」と「真似ぶ(真似る)」が同根であるという説は広く語られるが、語源的には確定していない。ただ、仮にこの語源説が正しいとすれば、学ぶことは真似ることであり、教育とは模倣を体系化する制度だということになる。独創性を称揚しながら模倣によって教育する。この矛盾は解消されないまま、すべての教室で毎日繰り返されている。
盗めなかった者は「模倣者」と呼ばれ、盗みおおせた者は「創造者」と呼ばれる。違いは出来栄えだけだ。
退屈
何もしたくないという誠実さ
ブレーズ・パスカルは『パンセ』にこう書いた。「人間の不幸はすべて、部屋の中に静かに座っていられないことから生じる」。数世紀を経ても、この一文の前に付け加えるべき言葉はほとんどない。
ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』(1929/30年冬学期講義)で退屈を三つの形式に分類した。第一の形式は何かを待っているときの退屈だ。駅で電車を待つ。これは対象がある。第二の形式は、特定の対象がないにもかかわらず退屈である状態。パーティーの最中にふと感じる空虚。第三の、最も深い形式は「深い退屈」(tiefe Langeweile)と呼ばれ、存在者の全体が無関心になる。何もかもがどうでもよくなる。
だがハイデガーにとって、この第三の退屈は否定的なだけのものではなかった。すべてがどうでもよくなったその瞬間に、「何かが重要でありうる」という可能性そのものが裸で浮かび上がる。退屈は意味の不在を通じて、意味の可能性を暴露する。退屈の底で、私たちは自分にとって本当は何が大切なのかに不意に出会う。
現代の注意経済は退屈を根絶しようとしている。無限スクロール、プッシュ通知、おすすめアルゴリズム。退屈する暇がない。暇が怖いだけなのだ。だが退屈を回避し続けることは、ハイデガーが言う意味の可能性の暴露をも回避することだ。SNSは退屈を殺したのか、それとも退屈を感じる能力そのものを殺したのか。
退屈と怠惰は違う。怠惰は行動の欠如であり、退屈は意味の欠如だ。怠惰な人は何もしないことを選んでいるが、退屈な人は何をしてもつまらない。子供はよく退屈する。そしてその退屈の底から、大人には思いつかない遊びを発明する。大人が退屈しなくなったのは、成熟したからではなく、退屈を埋めるツールが増えただけかもしれない。
「何もしたくない」と正直に言える人は、かなり誠実だと思う。やりたいことがあるふりをしなくていい。意味を捏造しなくていい。空虚を空虚として眺められること。それは怠惰ではなく、ひとつの正直さだ。
私たちが逃げているのは退屈ではない。退屈の先にあるもの、つまり「本当は何が大切か」を見てしまうことだ。
偶然
あなたは誰でもよかった
あなたが今ここにいることに理由はない。
両親が出会ったこと、その国に生まれたこと、この時代に生きていること。すべてが偶然の連鎖だ。ほんの少し条件がずれていたら、あなたはあなたではなかった。あるいは、存在すらしていなかった。
ジャン=ポール・サルトルは1945年の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」で「実存は本質に先立つ」と述べた。人間にはあらかじめ定められた設計図がない。まず存在し、そのあとで自分が何であるかを選び取っていく。あなたが何者であるかは、事後的にしか決まらない。ペーパーナイフには製造者の意図(本質)が先にあるが、人間にはそれがない。
ハイデガーはこの事態を「被投性」(Geworfenheit)と呼んだ(『存在と時間』1927年)。われわれは「投げ込まれた」。自分で選んだのではない状況の中に。生まれる場所も時代も親も選べない。にもかかわらず、投げ込まれたその場所から出発するしかない。
ジョン・ロールズは『正義論』(1971)で「無知のヴェール」という思考実験を提示した。社会の基本原理を決めるとき、自分がどの立場に生まれるか知らない状態で考えよ、と。この思考実験の前提は、生まれの偶然性だ。社会的地位、才能、健康、その多くは努力ではなく偶然の結果として配分されている。
トマス・ネーゲルは「道徳的運」(1979)で、私たちが人を道徳的に評価する基準の多くが、当人の制御の及ばない偶然に左右されていることを指摘した。同じ性格の人間が、置かれた状況の違いだけで英雄にもなれば犯罪者にもなりうる。道徳的評価が運に依存しているとすれば、道徳的責任という概念そのものが揺らぐ。人生に筋書きはない。
素人であることもまた偶然の産物だ。たまたまその分野に遅く来た。たまたま別のことに時間を費やしていた。「もしもっと早く始めていたら」という仮定は、厳密に考えれば無意味だ。別の経験を積んだ「あなた」は、もはやあなたではない。「私」とは特定の経験の総体であって、経験を差し替えれば「私」も消える。
「もしも」の先にいる人間はあなたではない。あなたは、この偶然の、一回きりの、交換不可能な配列の結果だ。それを「運命」と呼ぶのは甘すぎる。ただの偶然だ。
反復
同じ一日を無限に生きること
起きる。仕事をする。食べる。眠る。起きる。仕事をする。食べる。眠る。何も起きなかった日が積み重なっていく。
セーレン・キェルケゴールは『反復』(1843)で、反復を「前方に向かう想起」と呼んだ。想起(回想)が過去へ向かうのに対して、反復は未来へ向かう。同じ経験をもう一度しようとする試みは過去の再現ではなく、新しい意味の発見になりうる、と。
フリードリヒ・ニーチェはこの反復を極限まで押し進めた。「永遠回帰」(Die ewige Wiederkehr)。この人生を、一切の変更なく、永遠に繰り返さなければならないとしたら、あなたはそれを望むか。ニーチェにとってこれは単なる思考実験ではなく、実存を測る試金石だった。「はい」と答えられること、この人生をもう一度望むことができること。それが生の肯定の最高形態だと彼は考えた(『悦ばしき知識』第341番、1882年)。
アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』(1942)で別の答えを提示した。シーシュポスは岩を山頂へ押し上げ、岩はまた転がり落ち、また押し上げる。永遠に。この不条理のただ中でカミュは書いた。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。反復が不条理であることを認めた上で、なお肯定するということ。ニーチェの肯定が歓喜に近いとすれば、カミュの肯定は静かな反抗に近い。
映画『恋はデジャ・ブ』(1993、ハロルド・レイミス監督)はこの哲学的主題を描いた作品だ。主人公は同じ一日を何百回と繰り返す中で、最初は快楽に走り、やがて絶望し、最後に他者への配慮にたどり着く。反復が人格を変える。同じ一日でも、その中にいる人間は同じではない。
日常の反復はこれほど劇的ではないが、反復は厳密には不可能だ。昨日と今日は「同じ」ではない。微細な差異がある。光の角度が違う。気温が0.3度違う。あなたは昨日より12時間分だけ老いている。ジル・ドゥルーズは『差異と反復』(1968)で、反復は同一性の再現ではなく差異の生産であると論じた。繰り返しの中にこそ差異が生まれ、差異こそが新しさの源泉になる。
反復の中に安心を見出す人がいる。同じルーティン、同じ朝食、同じ通勤路。その人にとって反復は秩序だ。反復の中に窒息を感じる人もいる。同じルーティン、同じ朝食、同じ通勤路。その人にとって反復は牢獄だ。同じ事実が、ある人には秩序で、別の人には牢獄。違いは事実にではなく、受け取る側にある。
もし明日が今日とまったく同じだったとして、あなたはそれに気づけるだろうか。たぶん気づけない。同じだと気づくためには、二つを比較する視点が必要だが、完全に同じ一日を生きている人間は、前の一日を「前の一日」として認識することすらできない。
沈黙
語れないものは存在しないのか
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921)の最後の命題、命題7でこう書いた。
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen)。
有名な一文だ。だがこの命題は、『論考』全体との関係で見ると、ある種の自己矛盾を含んでいる。この本全体が、語りえるものと語りえないものの境界を語ろうとする試みだからだ。ヴィトゲンシュタイン自身、この本を「登ったあとに投げ捨てるべき梯子」と呼んだ(命題6.54)。梯子を使って登ったあと、梯子が無意味であることに気づく。だが梯子なしには登れなかった。
「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」(命題5.6)。語れないことは考えることもできないのか。あるいは考えることはできるが表現できないだけなのか。この問いは言語哲学の中心にあり続けている。
ジョン・ケージは『4分33秒』(1952年初演)で、演奏者が一音も出さないことで「沈黙」を作品にした。だが実際に聴衆が経験したのは沈黙ではなかった。聴衆の咳払い、椅子のきしみ、換気音、外の車の音。「沈黙」を作ろうとしたとき、沈黙が存在しないことが露呈した。ケージ自身、ハーヴァード大学の無響室に入ったとき、自分の血液の循環音と神経系の高音を聞いたと述べている。完全な沈黙は物理的に経験不可能だ。
音楽は命題を述べない。「世界は球体である」とか「正義は公正さを要求する」とか、そういうことを音楽は言わない。だが音楽は何かを伝える。その「何か」は言語で捉え直すことができない。仮に捉え直せるのなら、音楽は不要であり、解説文で十分だということになる。音楽が存在するという事実そのものが、言語の限界の証拠だ。
ブログを書くとは沈黙の反対のことをしている。言葉にすること。しかし、書くことによって何が失われるかは、書いた瞬間に検証できない。言葉にした瞬間に経験はその豊かさの一部を失う。写真のフレームに収めた瞬間、フレームの外側が消える。名指すことは掬い取ることであり、同時にこぼすことだ。
プログラミング言語と自然言語は対照的だ。プログラミング言語は曖昧さを排除する。コンパイラは曖昧な命令を拒絶する。自然言語は曖昧さを必要とする。詩が成立するのは言葉が複数の意味を同時に帯びることができるからだ。厳密に語ることが多く語ることとは限らない。哲学は文学的表現を必要とするかという問いは、ここに根ざしている。
語りえないことについて沈黙するのは正しい。だがこの文章は、語りえないことについて語っている。そしてヴィトゲンシュタインもそうした。沈黙について書くことは、沈黙を破ることだ。だが沈黙を破らなければ、沈黙の価値を伝えることもできない。
消耗
努力と意味は無関係である
全力を尽くしても何の成果も出ないとき、その努力に意味はあったのか。
「プロセスに意味がある」と人は言う。だが正直なところ、プロセスに意味があるのは、たいてい最終的にどこかで成果が出る場合だ。永遠に成果が出ないプロセスを心の底から愛せるだろうか。カミュのシーシュポスを「幸福」と想像することはできる。だが自分がシーシュポスであることを「幸福」と感じられるかは、まったく別の話だ。
ビョンチョル・ハンは『疲労社会』(Müdigkeitsgesellschaft, 2010)で、現代社会が規律社会から成果社会(Leistungsgesellschaft)へ移行したと論じた。かつては外部からの規律、つまり禁止と命令が人間を支配していた。現在ではそれが内面化され、自分自身が自分を駆り立てている。「すべき」(sollen)が「できる」(können)に取って代わった。「あなたならできる」「可能性は無限だ」「夢を追え」。肯定的な言葉が、否定的な命令よりもはるかに効果的に人間を搾取する。搾取者と被搾取者が同一人物になった。燃え尽きるまで。
燃え尽き症候群は単なる肉体的疲労ではない。意味の枯渇だ。「なぜこれをやっているのか」という問いに答えられなくなること。専門家にはまだ蓄積がある。蓄積は「ここまでやってきた」という自己正当化の根拠になる。素人にはそれがない。だから消耗が早い。投じた時間が短い分だけ、「やめる」ことへの心理的障壁が低い。逃げやすい。だが「逃げやすい」ことは楽なことではない。いつでも逃げられるという事実が、留まっている理由を問い続ける。
古代ギリシア語のσχολή(スコレー)は「暇」「余暇」を意味し、英語の school の語源にあたる。学びはもともと暇な人間の贅沢だった。生活の必要に追われない自由市民だけが哲学を学べた。現代では学びは投資だ。リターンが求められる。スキルアップ、キャリア形成、市場価値の向上。学びが自己搾取の一部になったとき、学びは消耗になる。かつて暇の産物だったものが、忙しさの燃料になっている。
「意味のない努力」と「まだ意味が見えていない努力」の区別は、それを行っている最中にはつかない。事後的にしか判断できない。つまり、努力しているその瞬間にそれが無駄かどうかは原理的に不明だ。にもかかわらず、私たちは今日も努力する。明日わかるかもしれない意味のために。あるいは、明日もわからないまま。
「がんばれ」は、すでにがんばっている人間にとっては呪いに近い。苦しみは何も教えないのだから。
忘却
忘れなければ生きられない
フリードリヒ・ニーチェは「反時代的考察」第二編「生にとっての歴史の利害について」(1874)で、動物の幸福を描写した。動物は非歴史的に生きる。一瞬一瞬を忘却の中で生きるからこそ苦しまない。牧草地の牛は昨日を覚えていない。昨日の苦しみも昨日の喜びもなく、ただ今がある。人間は記憶を持つがゆえに、過去という重荷を引きずりながら歩かなければならない。
ニーチェは『道徳の系譜学』(1887)第二論文でも「能動的忘却」(aktive Vergesslichkeit)を論じた。忘却は単なる受動的な記憶の減衰ではなく、精神の健康を維持するための積極的な抑制能力だ、と。すべてを記憶し続ける人間は消化不良に陥る。食べたものを消化するように、経験を忘れなければ、次の経験を受け入れる余地がなくなる。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「記憶の人フネス」(1942)は、この洞察の文学的な変奏だ。主人公フネスは落馬事故の後、一切を忘れることができなくなる。あらゆる知覚が完全な鮮明さで保存される。その結果、フネスは抽象的思考ができなくなる。一枚一枚の葉の形、色、光の当たり方がすべて異なるものとして見えるために、「木」という概念を形成できない。概念とは細部を捨てることであり、思考とは忘却の別名だ。完全な記憶は思考を不可能にする。
デジタル時代はニーチェの言う能動的忘却を困難にしている。インターネットは忘れない。10年前のSNS投稿、削除したはずの写真、不用意なコメント。すべてがどこかに残っている。EUの一般データ保護規則(GDPR)第17条が定める消去権、いわゆる「忘れられる権利」は、この問題に法的な枠組みで対処しようとする試みだ。忘却を法律で保障しなければならない時代が来ている。
写真を撮ることは記憶の外部化だが、心理学者リンダ・ヘンケルの研究(Psychological Science, 2014)は、写真を撮ることで逆に記憶が弱まることを示した。博物館の展示物を写真に収めた被験者は、肉眼だけで観察した被験者よりも展示物の詳細を記憶していなかった。記録が記憶を代替し、代替したことで記憶が形成されなくなる。カメラがシャッターを切ったとき、脳は「もう覚えなくていい」と判断する。
だが忘却が生に必要だとしても、忘却は選択的に働いてはくれない。消したい記憶だけを消すことはできない。大切な人の笑顔も、どうでもいい広告のコピーも、等しく風化する。そしてもっと静かに恐ろしいのは、忘れたことを忘れること。かつて何かを覚えていたという事実すら消えてしまうこと。存在していたはずの記憶の跡形すらない空白。
人間関係にも忘却は不可欠だ。相手のすべての失言、すべての約束違反を完璧に記憶し続けていたら、どんな関係も維持できない。許すとは、ある程度忘れることだ。だが完全に忘れることは許すこととも違う。
忘れるから生きられる。忘れられるとしても。だが忘れるたびに、何かを失っている。そしてその「何か」が何だったかは、もう思い出せない。
不要
世界はあなたを必要としていない
あなたがいなくても世界は回る。あなたが生まれる前も回っていたし、あなたが死んだあとも何事もなかったかのように回り続ける。これは侮辱ではない。地球の自転と同じくらい淡白な事実だ。
トマス・ネーゲルは「不条理」(The Absurd, 1971)で、人間の生の不条理さについて論じた。私たちは自分の生を限りなく真剣に受け取る。今日の会議、来月の締切、五年後のキャリア。だが同時に、ほんの少し視点を引いてみれば、そのすべてが宇宙的な規模では徹底的に取るに足らないことも知っている。真剣さと無意味さ、二つの視点が同時に成り立ってしまうことが不条理の正体だ。ネーゲルはこの不条理を悲劇としてではなく、アイロニーをもって受け止めるべきだと述べた。
カミュは『シーシュポスの神話』(1942)の冒頭でこう書いた。「真に深刻な哲学的問題はひとつしかない。自殺である」。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それは哲学の根本問題に答えることだ、と。カミュの答えは不条理を全面的に認めた上で、それでもなお生きよ、というものだった。不条理からの逃走(自殺や信仰への飛躍)ではなく、不条理と共に生きること。この不条理こそが意味という病の正体でもある。
ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』(1984)で「軽さ」と「重さ」を対比した。ニーチェの永遠回帰がすべてに無限の重さを与えるとすれば、一回きりの人生はすべてを限りなく軽くする。必然性のない存在は羽のように軽い。だがその軽さが耐えがたい。重さ(必然性、運命、義務、使命)がないと、存在は支えを失う。何にも縛られないことは自由であると同時に、何にも支えられないことだ。
素人はこの「不要さ」を先鋭に経験する。専門家は「自分は必要な人間だ」という物語を持つことができる。少なくとも特定のコミュニティの中では。素人にはその物語がない。だが不要であることには裏面がある。必要でないということは、どこにも縛られていないということだ。必要な人間はその場所を離れられない。不要な人間はどこにでも行ける。
ただし、どこに行っても不要であることは変わらない。
宇宙は意識を必要としない。物理法則は観察者がいなくても成り立つ。重力は人間がいなくても林檎を落とす。であれば意識は宇宙にとっての余剰だ。だが余剰であるがゆえに、意識には宇宙の法則に還元できない特異な位置がある。必要なものは代替可能だ。水素を使い果たせばヘリウムは生まれない。だが不要なものの不在は、何にも影響を与えない。不要なものが存在しているという事実には、必要性とは別の種類の意味がある。それが何かは、まだ誰にもわかっていない。
脆さ
すべては壊れるためにある
すべてのものは壊れる。建物は崩れ、関係は終わり、身体は老いる。
熱力学第二法則は、孤立系においてエントロピー(乱雑さの度合い)は増大する、と述べる。秩序を維持するにはエネルギーが必要だ。何もしなければ、すべてはほどけていく。部屋は散らかり、機械は錆び、組織は形骸化する。秩序のほうが例外であり、無秩序が宇宙のデフォルトだ。
本居宣長が『源氏物語玉の小櫛』(1796)などを通じて体系化した「もののあはれ」は、この脆さへの感受性を含む美学だ。移ろいゆくものへの共感、桜が美しいのは散るからだという感覚。ただし、桜の散り際を愛でることと、自分の手の中で何かが壊れていくのを引き受けることは、まるで別の経験だ。脆さの美しさを語れるのは、今まさに壊れていない人間だけだ。
ナシーム・ニコラス・タレブは『反脆弱性』(2012)で、脆さの反対は「頑健さ」(robust)ではなく「反脆弱性」(antifragile)だと論じた。頑健なものは衝撃に耐えるが変わらない。反脆弱なものは衝撃を受けることでかえって強くなる。人間の骨は適度な負荷によって密度を増す。免疫系は病原体との接触を通じて強化される。失敗から学ぶ人間は反脆弱的だ。だが反脆弱的に振る舞えるのは、壊れてもまだ存続できるものに限られる。壊れきったものは学ばない。
ソフトウェアにもエントロピーは働く。完璧に設計されたコードも、依存ライブラリの更新、言語仕様の変更、実行環境の変化によって、数年後には動かなくなる。技術的負債は蓄積する。コードベースは放置すれば腐敗する。メンテナンスとは、エントロピーと戦い続けることだ。
日本の陶芸には「金継ぎ」という修復技法がある。壊れた器を漆で接合し、継ぎ目を金で装飾する。壊れた跡を隠すのではなく、むしろ強調する。壊れた歴史が器の一部になる。壊れる前より美しくなることすらある。だがこれは器の話であって、信頼の話ではない。人間関係における信頼は、一度壊れて修復されたとしても、それは「元の信頼」ではなく「修復された信頼」だ。金が見える。継ぎ目は消えない。赦せないまま死ぬこともある。
すべては壊れる。壊れないものがあるとしたら、それはまだ十分な時間が経っていないだけだ。
遅延
永遠に準備中の人生
いつか本を書く。いつか旅に出る。いつか本気を出す。その「いつか」は永遠に未来の側にあって、現在に到着することがない。今日ではなく明日、明日ではなく来月、来月ではなく来年。「いつか」は時間の中を逃げ続ける蜃気楼だ。
ジャック・デリダは「差延」(différance)という概念を提示した(1968年の講演「差延」ほか)。この造語はフランス語で「異なること」(différer)と「遅延させること」(différer)の二重の意味を担っている。意味は常に遅延される。ある言葉は別の言葉を参照し、その言葉もまた別の言葉を参照する。最終的な意味への到達は永遠に引き延ばされる。辞書で言葉を引くと別の言葉で説明されていて、その言葉を引くとさらに別の言葉が現れる。意味の最終地点はない。
これは学びにも当てはまる。「十分に学んだ」と感じる瞬間は訪れない。常に「まだ足りない」。ある領域を深く学ぶほど、その先にある未知の広大さが見えてくる。素人は永遠に素人だ。「十分に知った」と感じられるのは、知らないことの大きさをまだ知らない人間だけだ。
完璧主義は遅延の制度化だ。完璧になるまで出さないという態度は、永遠に出さないことのほぼ同義語として機能する。ソフトウェア開発におけるアジャイルの方法論は、この遅延の問題への実践的な応答だった。完璧を待たずに出す。フィードバックを得て改善する。だが「不完全なまま世に出す」ことへの不安は消えない。
「準備ができたら始める」は、永遠に始まらないことの婉曲表現かもしれない。準備の完了基準は、始めてみなければわからない。泳げるかどうかは水に入らなければ確認できないのに、泳げることを確認してから水に入ろうとしている。
「今やらなくていつやるの」は正論だ。だが「今やらなくても大丈夫」もまた、同じ頻度で正しい。問題は、その二つの区別がリアルタイムにはつかないということだ。事後的にしかわからない。あのとき始めるべきだった、あるいは、あのとき待つべきだった。判断の正しさは常に遅れてやってくる。判断そのものと同じように。
余剰
なくてもいいけど、ある
ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』(La Part maudite, 1949)で、経済の根本原理は希少性ではなく過剰であると論じた。太陽はエネルギーを惜しみなく地表に注ぐ。生命はこの過剰の上に成立している。問題は「足りないこと」ではなく「余ったエネルギーをどう使い果たすか」だ。バタイユはこの処理しきれない余剰を「呪われた部分」と呼んだ。蕩尽されなかった余剰は、戦争や破壊という形で噴出する、と。
芸術は余剰の産物だ。生存には必要ない。絵画がなくても食事はできる。音楽がなくても眠れる。小説がなくても朝は来る。だが人間は、生存が確保された後にも(あるいは確保される前から)、芸術を作り続けてきた。ラスコーの洞窟壁画を描いた人間は、絵を描かなくても生きられた。にもかかわらず描いた。
進化生物学には「ハンディキャップ原理」(アモツ・ザハヴィ、1975)という仮説がある。クジャクの尾羽は生存にとって明らかに不利だ。重く、目立ち、捕食者に見つかりやすい。にもかかわらず発達したのは、まさにそのコスト(ハンディキャップ)が「自分はこれだけの無駄を許容できるほど優れている」というシグナルになるからだ。余剰はシグナルになりうる。無駄であることそのものが、情報を持つ。
資本主義は余剰を忌避する。効率化し、最適化し、無駄を削ぐ。だが人間のもっとも人間的な活動、つまり芸術、遊び、哲学は、すべて経済的には「無駄」のカテゴリに分類される。「コストパフォーマンス」という概念が適用できない活動にこそ、本当に大切なものがあるという直観は根強い。だがこの直観は、余剰を許容できる特権的な立場からの贅沢として批判されることもある。余暇がなければ哲学はできない。古代ギリシアの哲学者たちが思索に耽ることができたのは、奴隷制度が日常労働を肩代わりしていたからでもある。
ブログを書くことも余剰の行為だ。誰に頼まれたわけでもない。書かなくても生きていける。読む人がいるかどうかすらわからない。だが書く。この「書かなくてもいいのに書く」という行為の中に、人間の本質的な何かが宿っているのかもしれない。
あるいは何も宿っていない。それでも書いている。誰も見ていない花壇に水をやるように。
錯覚
あなたが見ているものは存在しない
色は物体の性質ではない。物体が特定の波長の電磁波を反射し、それが網膜の錐体細胞を刺激し、その信号を脳が「赤」や「青」として構成する。色は脳の産物であって、外界にあるのは波長だけだ。あなたには何も見えていない。
ジョン・ロックは『人間知性論』(1689)で、性質を「第一性質」と「第二性質」に区分した。形、大きさ、運動といった第一性質は物体そのものに属するが、色、音、味、匂いといった第二性質は物体と知覚者との関係から生じるものであり、物体そのものには属さない。リンゴの「赤さ」はリンゴの中にはない。
イマヌエル・カントはこの区別を徹底した。私たちは「物自体」(Ding an sich)に決してアクセスできず、常に感性の形式(空間と時間)と悟性のカテゴリーによって構成された「現象」(Erscheinung)のみを認識する(『純粋理性批判』1781/1787)。世界をあるがままに知覚することは、原理的に不可能だ。私たちが「現実」と呼んでいるものは、すでに人間の認識装置によってフィルタリングされた加工品にすぎない。
デカルトは『省察』(1641)で方法的懐疑を徹底した。夢と覚醒の区別がつかない以上、すべての感覚的知覚は疑いうる。だが、疑っているまさにその瞬間に、疑っている「私」の存在は疑えない。「コギト・エルゴ・スム」(我思う、ゆえに我あり)。この確実性は知覚の確実性ではなく、思考する主体の確実性だ。見えているものが正しいかはわからない。だが、何かを見ている(あるいは疑っている)私がいることは確かだ。
だが不思議なことに、この認識論的な不確実性にもかかわらず、私たちは日常的に世界と折り合いをつけて生きている。信号が青く見えたら渡り、リンゴが赤く見えたら食べる。錯覚の上に実用を構築し、その実用は大抵の場合うまく機能する。
機械学習のいわゆる「ハルシネーション」は、人間の錯覚と構造的に似ている。存在しないパターンを「見出す」。AIが生成する事実に見える虚偽と、人間の脳が知覚において日常的に行っている補完や推測は、同じカテゴリの現象かもしれない。私たちの知覚もまた、不完全な入力データからもっともらしい世界像を構成する、一種の推論だ。
VRの哲学的含意もここにある。もし知覚がそもそも脳による構成物であるなら、VRは「偽の現実」ではなく「別の入力に基づく別の構成」にすぎない。現実とVRの間に質的な差があるのかという問いには、カントに従えば、答えは「ない」になる。どちらも現象であって、物自体ではないのだから。
私たちは錯覚の上に帝国を築き、その帝国はちゃんと機能している。それがいちばん不思議なことかもしれない。
名前
名前をつけた瞬間に何かが死ぬ
ものに名前をつけることは、それを固定することだ。流動していた何かに輪郭を与え、カテゴリに収め、ラベルを貼る。「友人」と呼んだ瞬間、その関係は「友人」の枠の中に閉じ込められる。「成功」と名づけた瞬間、それ以外のすべてが「失敗」の領域に押しやられる。
言語は世界を分節する。分節しなければ認識できない。だが分節することで、本来連続的な世界を離散的なカテゴリに切り分けてしまう。虹は連続的なスペクトルだが、言語は「赤」「橙」「黄」と区切る。言語が異なれば区切り方も異なる。日本語の「青」はかつて緑を含む広い範囲を指していた。信号機の進行灯が実際には緑色であるのに「青信号」と呼ばれるのは、その言語的な慣習の名残だ。名前が知覚を形作り、知覚がさらに名前を補強する。
フェルディナン・ド・ソシュールは『一般言語学講義』(1916)で、言語記号は「差異の体系」であると論じた。「犬」という語が意味を持つのは、それが「猫」や「馬」や「鳥」と異なるからだ。意味は語そのものに内在するのではなく、他の語との差異から生じる。犬の「犬らしさ」は、犬でないものとの対比の中にしかない。
老子は『道徳経』第一章で「名可名、非常名」と書いた。名づけることのできる名は、恒常の名ではない。名づけることの限界を、東洋思想は古くから直観していた。名前は対象を捉えると同時に、対象から何かを奪う。
プログラミングにおいて命名は決定的に重要だ。変数名が悪ければコードは読めなくなる。だが名前は抽象化の手段であると同時に、思考を制約する枠でもある。user と名づけた瞬間に、そのオブジェクトは「ユーザー」として扱われ始め、「人間」や「顧客」や「訪問者」としての側面が後退する。名前が実装を方向づけ、実装が名前をさらに固定する。
感情もまた名前によって形を与えられる。「悲しい」という言葉を知る前と知った後で、悲しみの経験は変わるだろうか。言語が感情に先行するのか、感情が言語に先行するのか。ヴィトゲンシュタインは後期の『哲学探究』(1953)で「私的言語」の可能性を否定した。純粋に私的な感覚に名前をつけることはできない、と。言語は本質的に公共的なものだからだ。だとすれば、まだ名前を持たない感情は、語ることも共有することもできない。存在はしているが、言葉の世界からは追放されている。世界はそこで終わっている。言葉の届かない場所で。
診断名はこの問題を鋭く示す。「うつ病」と名前がつくことで治療の入口が開く。同時に、その名前に本人が縛られることもある。「私はうつ病だ」という自己認識が、経験そのものを変容させる。名前は解放であり、束縛でもある。
名づけることなしに認識はできない。だが名づけた瞬間に、名前の外にあったものが消える。名前にならなかったものたちの居場所は、どこにもない。
所有
あなたのものは何ひとつない
あなたが「持っている」と思っているものは、すべて一時的な管理権にすぎない。家は朽ち、金は使い果たされ、身体すら最終的には返却される。到着時の手荷物はゼロ、出発時の手荷物もゼロ。その間にある時間で「自分のもの」だと信じていたものは、すべて貸し出し品だ。
ジョン・ロックは『統治二論』(1689)で、所有権の根拠を労働に求めた。共有状態にある自然物に対して人間が自分の労働を混入させることで、それが「自分のもの」になる、と。木の実を拾い上げる行為がそれをあなたのものにする。だがこの論理は身体の所有を前提にしている。労働は身体を通じて行われ、身体はあなたのものだから、身体を通じて加工されたものもあなたのものになる、と。だが身体そのものの所有権の根拠は何だろう。身体は選んで手に入れたものではない。与えられた(あるいは投げ込まれた)ものだ。
仏教はこの問題を根本から扱う。パーリ語で「無常」(anicca)と呼ばれる概念は、すべての現象は恒常ではなく変化し続けるという教えだ。執着(upādāna)が苦の原因だと仏教は説く。所有は執着のもっとも身近な形だろう。手に入れたものを手放したくないという衝動。だが手に入れたものはすべて変化し、最終的には失われる。執着の対象そのものが恒常ではないのだから、執着は構造的に苦を生む。
デジタル時代において、所有はさらに曖昧になっている。音楽のサブスクリプションは所有ではなくアクセス権だ。電子書籍のライセンスはプラットフォームの存続に依存し、サービスが終了すれば消滅する。私たちは所有しているのではなく、使用許諾を得ているにすぎない。物理的な本棚の本は出版社が倒産しても手元に残るが、電子書籍にはその保証がない。
「自分の考え」は本当に自分のものだろうか。読んだ本、聞いた話、受けた教育、出会った人間、すべてが混ざり合って形成された思考を「自分のもの」と呼ぶことは、どこまで正確か。知的所有権という概念は、アイデアに所有者を設定しようとする試みだ。だが特許には期限がある。著作権にも期限がある。十分な時間が経てば、すべてのアイデアはパブリックドメインに帰る。長期的には、すべての思考は共有財産になる。
ミニマリズムは所有の放棄ではなく、所有の厳選だ。「少なく持つ」と「持たない」はまったく異なる態度だ。少なく持つ人間は、何を持つかについての判断力を誇示している。持たない人間は、判断そのものを放棄している。あるいは、判断を強いられなかった。
あなたが死んだあとも「あなたのもの」であり続けるものが何かあるだろうか。一体なにがのこるんだっていうんだ。墓石にはあなたの名前が刻まれるが、墓石はあなたのものではない。それは石だ。
正解
正しい答えなどどこにもない
試験には正解がある。数学の証明には正解がある。クイズにも正解がある。だが人生の問いには正解がない、と人は言う。これは慰めのように聞こえるが、三秒ほど考えると恐ろしくなる。
正解がないということは、間違いもないということではない。明らかに間違った選択は存在する。だが「正解」は存在しない。間違いは回避できるが、正しさには到達できない。この非対称は不穏だ。間違いを避け続けた先に正解があるわけではない。間違いを全部避けても、残るのは「間違いではない何か」であって「正解」ではない。
道徳哲学は二千年以上にわたって「正しさ」の基準を探してきた。功利主義(ジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル)は「最大多数の最大幸福」を基準とする。義務論(カント)は行為の動機と、その行為の格率が普遍化可能かどうかを基準とする。徳倫理学(アリストテレス)は行為の正しさではなく行為者の性格的卓越(アレテー)を基準とする。三つのアプローチは互いに矛盾する結論を導くことがしばしばある。ひとつの具体的な状況に対して、功利主義は「嘘をつけ」と言い、義務論は「嘘をつくな」と言い、徳倫理学は「有徳な人間ならどうするかを考えよ」と言う。
この三者がそれぞれに説得力を持ち、それぞれに批判可能であり、二千年以上議論が続いて決着がつかないという事実は、おそらくこれが決着のつく種類の問題ではないことを示唆している。善も正義もないのかもしれない。正解がまだ見つかっていないのではなく、「正解」という概念がこの領域には適用できないのかもしれない。
科学は「まだ正解がわかっていない」という立場をとる。原理的には正解が存在し、探究を続ければ近づける、と。哲学は「正解が存在しない可能性」を真剣に検討する。この二つの態度の間には深い溝がある。
AIは「正解」を出しているのか、それとも「もっともらしい回答」を出しているのか。統計的にもっとも確からしい出力は、正解とは異なる概念だ。正解は正当化を伴う。なぜそれが正しいのかを説明できなければ、たまたま合っていただけかもしれない。AIが正しい答えを出力し、その理由を尋ねるともっともらしい説明を返す場合、それは「知っている」のか「知っているように振る舞っている」のか。この問いは、先ほどの「知ることとできることの溝」と同じ場所に帰ってくる。
素人が専門家と異なる答えを出したとき、それは「間違い」なのか「別の視点」なのか。この区別は、往々にして内容ではなく権力関係によって決定される。「間違い」と分類する権限を持つのは、たいてい専門家の側だ。
二千年探して見つからなかったものを、あと何年探せばいいのだろう。
これらの問いには答えがない。あるいは、答えがあったとしても、それは別の問いを生むだけだ。
深夜にひとりで考え事をしていると、思考は勝手にこういう場所まで歩いていく。誰にも頼まれていない。何の役にも立たない。書かなくても生きていけた。読まなくても何も困らなかったはずだ。
それでも書いてしまった。そしてあなたはここまで読んでしまった。
この余剰に意味があるのかどうかは、たぶんどちらでもいい。夜が明ける。コーヒーはとっくに冷めている。