Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

あたまのなか

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

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あたまのなか

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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あたまのなか

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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あたまのなか

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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あたまのなか

赦せないまま死ぬ

「許してあげなよ」と、誰かが軽々しく言う。まるで赦しが道徳的な義務であるかのように。まるでそれが簡単で、正しくて、誰にでもできることであるかのように。 でも、許せないものは許せない。それだけのことなのに、なぜかこの社会では、許せない側が責められる。許さない人間は心が狭い。許さない人間は前に進めていない。許さない人間は、どこか壊れている。 本当にそうだろうか。 そもそも、赦しとは何か。この問いに、哲学は驚くほど不穏な答えを用意している。いや、正確に言えば、答えなど用意していない。ただ、問いの底が抜けているということを、丁寧に証明してみせただけだ。 許すべきだという呪い 私たちは「許すこと」を美徳だと教えられて育つ。宗教は赦しを説き、道徳は寛容を称え、自己啓発本は「手放すこと」を勧める。許すことは成長であり、許さないことは停滞だと。 だが、この「許すべきだ」という圧力そのものが、ひとつの暴力ではないか。 傷ついた人間に向かって「許しなさい」と言うとき、それは傷の深さを無視している。許すかどうかは、傷ついた当人だけが決められることのはずだ。それなのに、

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あたまのなか

お金がなくなっても何も解決しない

「もしお金がなかったら、何をして生きる?」 飲み会で誰かがこの問いを放り投げると、場はにわかに活気づく。旅をする、絵を描く、田舎に引っ込む、カフェを開く。返ってくる答えはいつも美しくて、いつも少し嘘くさい。まるでお金だけが、僕たちと「本当の自分」のあいだに立ちはだかる唯一の壁であるかのように。 しかし、もう少し意地悪に考えてみたい。本当にお金が消えたら、あなたはその美しい答えどおりに生きるだろうか。 たぶん、生きない。 欲望は通貨を選ばない お金を「概念ごと」消すという思考実験は、見た目ほど簡単ではない。 お金そのものは、交換を効率化するための道具にすぎない。それが消えたところで、人が何かを欲しがるという事実は変わらない。通貨がなくなれば、別の何かが通貨の役割を担う。時間、信用、労力、あるいはもっと原始的な力関係。歴史を遡れば、貨幣が登場する以前から人間は交換し、蓄積し、奪い合ってきた。 だから「お金がなかったら」という仮定は、少し的を外している。問いの核はもっと奥にある。 いかなる制約もなかったとしたら、あなたは何をしますか。 これに即答できる人を、僕はあまり信用

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あたまのなか

現実を生きる感覚

今朝、目を覚ました。足が床に触れた。冷たかった。コーヒーを淹れた。湯気が立った。ここまで、何ひとつ疑わなかった。 それは正しい態度だ。疑う理由がないからではない。疑ったところで、何も変わらないからだ。 覚めたつもりの夢 夢の中で「これは現実だ」と確信していたことがあるだろう。 あの確信は、今のこの確信と、何が違うのか。構造的には何も違わない。夢の中にいるとき、あなたはそれが夢だと知らない。知らないまま、完璧に現実だと思っている。起きてから「あれは夢だった」とわかる。つまり、「現実である」という判断が正しかったかどうかは、常に事後的にしか確認できない。 今この瞬間が夢ではないという保証は、今この瞬間の中にはない。 「でも、夢にはどこか違和感がある」と思うかもしれない。色が曖昧だったり、場面が唐突に切り替わったり。しかし、その「違和感」に気づいたのは起きてからだ。夢の中では、どれほど奇妙な展開も完全に自然に受け入れていた。空を飛んでいても、死んだ人と話していても、何も疑わなかった。 現実が現実であるという感覚は、それ自体では何の証拠にもならない。夢がまさにそれを証明している

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あたまのなか

世界にあなたひとり、ぽつんと。

ある日、目が覚めたら、世界から自分以外の人間がすべて消えていた。 よくある思考実験だ。飲み会の余興にもなる。「好きなことをする」、「世界中を旅する」、「何もしない」。大抵はそんな答えが返ってくる。楽しそうだ。少なくとも最初の数日は。 でも考えてみてほしい。その「好きなこと」の大半は、他者がいてこそ成り立っていたのではないか。旅先の話を聞いてくれる誰か。おいしいものを一緒に食べる誰か。仕事を辞められる開放感だって、仕事という拘束があってこそ感じられる。他者が消えた瞬間、あなたの欲望のほとんどは行き場を失う。 この問いの核心は「何をするか」ではない。「あなたは、自分の生活のうち、どれだけを他者の存在に依存していたか」だ。 「好きなことをする」という幻想 最初の1週間はおそらく楽しい。誰の目も気にしなくていい。どこにでも入れる。何でも手に入る。でも2週目あたりから、奇妙な空虚がしのび寄ってくるはずだ。 やりたいことリストを全部消化した後に、何が残るだろう。 ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)の中で、人間の根本的な条件のひとつとして「複数性(plurality)」

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あたまのなか

何も確かではない

あなたは今、何かを「知っている」と思っている。そして昨日のことを「覚えている」と思っている。 残念だが、どちらもおそらく嘘だ。 知識と呼んでいるものの定義は、六十年以上前に壊れたまま誰にも修復されていない。記憶と呼んでいるものは、脳が毎回つくり直す即興のフィクションだ。あなたが「自分」だと思っているものは、その壊れた知識と捏造された記憶の上に建てられた、土台のない建物だ。 この先に救いはない。安心できる結論もない。あるのは、あなたがすでに薄々気づいていたかもしれない、いくつかの不愉快な事実だけだ。 再生という幻想 記憶は録画ではない。 1932年、イギリスの心理学者フレデリック・バートレットは著書 Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology のなかで、記憶が過去の忠実な「再生(reproduction)」ではなく「再構成(reconstruction)」であることを実験的に示した。北米先住民の民話を被験者に読ませ、時間を置いてから語り直させたところ、被験者たちは物語を自分の文化的枠組みに合わせて変形

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あたまのなか

苦しみは何も教えない

「あの苦しみがあったから今の自分がある」。誰もが一度は口にし、一度は信じようとした言葉だ。美しい。感動的ですらある。そして、おそらく嘘だ。 少なくとも、嘘でないという保証はどこにもない。苦しみがあなたを「成長させた」のか、それとも苦しんだという事実をあとから意味のある物語に仕立て上げただけなのか。その区別を、あなたは本当につけられるだろうか。 正当化と合理化の見分けがつかない 「あの経験があったから強くなれた」。 心理学にはポスト・トラウマティック・グロース(Post-Traumatic Growth, PTG)という概念がある。逆境を経験した人間がその後に心理的な成長を遂げるという現象で、1990年代にテデスキとカルフーンによって提唱された。困難のあとに人が変わりうることは、実証的にも確認されている。 だが、ここで少し立ち止まりたい。 PTGは、「苦しみそのものに意味があった」とは言っていない。苦しみのあとに人が変化しうると言っているだけだ。つまり、成長は苦しみの結果であって、苦しみの目的ではない。この区別はささやかに見えて、実はとても大きい。 苦しんだ過去を振り返り

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あたまのなか

あなたは死ねない

目を閉じて、自分がいない世界を思い浮かべてほしい。 たぶん真っ暗な空間が見えている。何もない。音もない。ただ暗い。でも、その暗闇を「見ている」のは誰だ。自分がいないはずの世界を想像しているとき、そこにはまだ、想像している自分がいる。 自分の不在を想像することは、原理的にできない。想像という行為が、想像する主体を前提にしているからだ。あなたは自分の不在を、自分の存在を通じてしか思い描けない。矛盾というほど大げさなものではない。ただ、構造的に不可能だというだけの話だ。 紀元前3世紀、エピクロスは『メノイケウス宛書簡』の中でこの直観をごく簡潔に定式化した。「死はわれわれにとって何でもない。なぜなら、われわれが存在するとき死は現前せず、死が現前するときわれわれはもはや存在しないから」。善も悪も感覚の中にあり、死とは感覚の剥奪である以上、死はわれわれに関係しない。二千年以上経った今もなお、死の恐怖に対する最も端的な回答のひとつとされている。 理屈としては完璧だ。死は経験されない。経験されないものを恐れる合理的な根拠はない。 なのに怖い。 理性は納得している。感情は拒否している。このギ

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あたまのなか

それでも明日の朝また幸せを冀う

幸福になりたい。たぶん、地球上のほぼすべての人間がそう思っている。少なくとも、そう思っていると思っている。 「幸福とは何か」と聞き返されると、言葉が詰まる。定義できないものを人生の目的に据えて、その達成に日々を費やしている。定義のないゴールに向かって走る競技を、ふつうは徒労と呼ぶ。 それでも走ることをやめられない。やめたら何が残るのかを知るのが怖いから。あるいは、走ること以外にやることがないから。 幸福を売る装置 1974年、哲学者ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、ある思考実験を提示した。脳に電極をつなぎ、あらゆる望みどおりの経験を完璧にシミュレーションする機械がある。傑作小説を書き上げる体験。深い友情を築く体験。あなたが望むものは何でも、主観的にはまったく本物と区別がつかない形で体験できる。一生この機械に接続するか、それとも現実に留まるか。 ノージックの直感、そしておそらく多くの人の直感は「接続しない」だった。 奇妙な話だ。幸福が人生の目的なら、完璧な幸福を保証する装置を拒む理由がない。にもかかわらず、多くの人が拒む。シミュレーションの中で

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