Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

誰もまだ死んでいない

あなたは自分が死ぬところを想像できるだろうか。試してみるといい。目を閉じて、呼吸が止まり、意識が途切れ、世界から自分という存在が消え去る、その瞬間を。 できない。想像しようとするたびに、「想像している自分」がそこに居座っている。自分の不在を描くには、不在を見届ける自分が必要になる。これは論理の欠陥ではなく、意識の構造そのものだ。 誰もまだ、本当の意味では死を知らない。死んだ人間は語らないし、生きている人間は死を知らない。つまりこの文章も、死について何かを語っているようでいて、たぶん何も語っていない。 届かない手紙 紀元前3世紀、ギリシアの哲学者エピクロスは友人メノイケウスへの手紙のなかで、こう述べた。死はわれわれにとって何ものでもない。善悪はすべて感覚のうちにあるが、死とは感覚の剥奪そのものだからだ、と。われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもう存在しない。だから死は、生者にも死者にも関わりがない。 明快な論理だ。反論の余地がないほどに。 しかし、この完璧な議論を読み終えたあなたは、たぶん少しも安心していないだろう。エピクロスの論理は死の恐怖を

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

幸福という自殺

あなたの幸福が、すべて嘘だったとする。安らぎも、達成感も、誰かに愛されているという確信も、一つ残らず精巧に設計された幻だったとする。 あなたはその幻を壊した者に感謝するだろうか。それとも「余計なことをするな」と言うだろうか。 この問いに即座に答えられる人を、少し疑ったほうがいい。50年以上、哲学者たちはこの問いの前で立ち往生している。答えが出ないのではない。問いのほうが、底なしに深くなっていく。 影の中は暖かい プラトンは『国家』の第七巻で、ひとつの寓話を描いた。地下の洞窟に生まれ落ち、一度も外の光を知らない人々。彼らは壁に映る影を現実のすべてだと信じ、影の名前を覚え、影の動きを読む技術を競い合い、それなりに充実した日々を送っている。 ある日、一人が鎖を解かれて外に出る。太陽の光に目を灼かれ、やがて世界の本当の姿を知る。影は影にすぎなかった。 ここまではよく語られる。だが、あまり語られない部分がある。 洞窟に残った人々は、不幸だっただろうか。 彼らは何も失っていない。外の世界を知らないということは、欠落を感じようがないということだ。影を現実だと信じることに苦痛はない。

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

何でもいい

あなたが最後に「何でもいい」と言ったのは、いつだっただろう。 レストランで。カフェで。Netflixの画面の前で。誰かに「どっちがいい?」と聞かれて、少し考えて、考えることをやめて、「何でもいい」と言った。 あれは怠惰だっただろうか。無関心だっただろうか。 もしかすると、あれが一番正直な答えだったのかもしれない。 ロバは正しかった 600年以上語り継がれている思考実験がある。 完全に同じ量の、完全に同じ質の干し草の山が、完全に等しい距離に二つ置かれている。その真ん中に一頭のロバが立っている。ロバは空腹だ。どちらの干し草を食べてもいい。だが、どちらを選ぶ理由もない。条件がまったく同じだからだ。 ロバは選べない。そして、餓死する。 「ビュリダンのロバ」と呼ばれるこの寓話は、14世紀フランスの哲学者ジャン・ビュリダンの名を冠しているが、ビュリダン本人がロバについて書いたわけではない。似た着想はアリストテレスの『天体論』にまで遡ることができる。哲学の世界では、考えを生んだ人と名前を残した人は、しばしば別人だ。 それはさておき、このロバはばかげているように見える。どちらでもい

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

知れば知るほど暗くなるのに誰も懐中電灯を置けない

「知は力なり」とフランシス・ベーコンは書いたということになっている。四百年が過ぎた。人類はかつてないほど多くのことを知っている。それで何か解決したかと聞かれると、少し困る。 知ることは、普通、良いこととされている。教育を受けろ、本を読め、世界を知れ。そう言われて育つ。誰も「知るな」とは言わない。けれど、何かを知ってしまった後の、あの取り返しのつかなさについては、誰も教えてくれない。 この文章は答えを出すためのものではない。知ることがなぜこんなにも厄介なのか、その厄介さの輪郭をなぞってみるだけだ。なぞったところで何かがわかるわけでもない。それすらも、知っている。 ググれば済む世界で何も知らない ひとつ試してみてほしい。スマートフォンを置いて、友人の電話番号を何人分言えるか数えてみる。 おそらく、片手で足りる。あるいはゼロだ。十年前には覚えていたはずの番号が、今は連絡先アプリの中にだけ存在している。それでも日常は困らない。知らなくても、アクセスできればいい。現代の「知っている」は、多くの場合「検索できる」と同義になりつつある。 しかし、検索できることは本当に「知っている」と言

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

あなたはもうボタンを押している

ある朝、目を覚ますと、枕元にボタンがある。 押せば100万ドルが手に入る。ただし、世界のどこかで、あなたの知らない誰かがひとり、死ぬ。 押すか。押さないか。 これはSF作家リチャード・マシスンが1970年に発表した短編「Button, Button」の設定だ。2009年にはリチャード・ケリー監督の映画『運命のボタン』(原題: The Box)としても知られるようになった。SFの皮をかぶった、残酷なほどシンプルな道徳実験。 でも、この話の本当に気味が悪いところは、押すか押さないかじゃない。 あなたがもう押しているかもしれない、というところだ。 善人は距離でできている 目の前で人が倒れたら、たいていの人は駆け寄る。隣の家の子どもが飢えていたら、何かせずにはいられない。 でも、「地球の裏側で誰かが飢えている」と聞いたとき、あなたの胸はどれくらい痛むだろう。 哲学者ピーター・シンガーは1972年の論文「Famine, Affluence, and Morality」で、ひとつの思考実験を示した。通勤途中、浅い池で子どもが溺れているのを見かけたとする。高価なスーツが台無しにな

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

あぁ、さようなら

最後に誰かと会ったとき、「もう二度と会えない」と思っただろうか。 思わなかったはずだ。最後はいつもそうだ。「じゃあまた」が最後の言葉になることを、事前に知ることはできない。そしてある朝、「また」が永遠に来ないことを知る。それはニュースのように不意に届くこともあれば、長い沈黙のあとに、静かに気づくこともある。 この文章には答えがない。もしあなたが今、誰かを失って苦しんでいるなら、ここに処方箋はない。あなたの悲しみをやわらげる言葉を、僕は持っていない。持っていたら自分に使っている。ただ、同じように途方に暮れた人間の、まとまらない思考の断片がここにあるだけだ。 最後はいつも静かに過ぎる 「最後に会ったとき、これが最後だとは思わなかった」 おそらく、人類史上もっとも多くの人が、もっとも多くの言語で、もっとも多くの夜に呟いてきた言葉だ。そしてそのたびに、誰もが同じことに気づく。別れは、別れの瞬間には姿を見せない。 考えてみれば当然だ。もし「これが最後だ」と分かっていたら、僕たちはきっと別の言葉を選ぶ。もっと丁寧に、もっと慎重に、もっと正直に。しかしそれは「最後だと知っている別れ」で

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

鎖のない牢獄

あなたは自由だと思っている。そう思っていること自体が、もう手遅れだという証拠なのだけれど。 「自由になりたい」と口にするとき、人はたいてい、何かから逃げたいだけだ。仕事から。人間関係から。退屈から。けれど、すべてから逃げ切った先に何があるか、想像したことはあるだろうか。おそらく、何もない。文字通り、何もない。そしてその「何もなさ」は、あなたが逃げてきたどの苦痛よりも、ずっと耐えがたい。 何もしなくていい地獄 長い休暇の最初の3日間は楽園だ。4日目から、楽園は少しずつ腐り始める。 目覚まし時計を止める必要がない朝。どこへ行ってもいい午後。何をしてもいい夜。それは自由の完成形のはずだった。けれど1週間もすれば、あなたはスマートフォンを無意味にスクロールしながら、なぜか以前より疲れている自分に気づく。 完全な自由は、無限の選択肢を意味する。そして無限の選択肢の前で、人は何も選べなくなる。レストランのメニューが300ページあったら、あなたは注文できるだろうか。おそらく店を出る。人生も同じだ。なおも自由という夢を見る人間だけが、選ぶたびに静かに壊れていく。「何にでもなれる」という祝福

By Sakashita Yasunobu

生きること

うらやましいなあ

もし誰か他の人間になれるとしたら、なりたいか。 「なる」の正体 「誰かになれる」という言葉は、考えれば考えるほど意味がわからなくなる。 ある人の体に自分の意識が入ること? その人の人生を最初からやり直すこと? その人の記憶と性格をまるごと引き受けること? どれを選ぶかで、問いの意味そのものが変わってしまう。 自分の意識が残るなら、それは「他人の体を借りた自分」であって、他人になったことにはならない。記憶も性格もすべて書き換えるなら、「自分」はもうどこにもいない。 トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、こう論じた。人間がコウモリの行動を想像することはできても、コウモリにとってコウモリであることがどのようなものかを知ることは、原理的に不可能だ、と。主観的な経験には、外から観察しただけでは絶対にたどり着けない何かがある。 これは人間同士でも変わらない。他人の人生を外側から眺めて「なりたい」と思うことはできる。でも、その人の内側から世界を見ることは、どこまでいっても想像の域を出ない。 「なる」という言葉が約束しているものは、たぶん誰にも届け

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

全知の退屈

もしあらゆることを知れるとしたら、あなたは知りたいだろうか。ほとんどの人は、反射的に「知りたい」と答える。知識は善いものだと、私たちはずっと教わってきた。知は力であり、光であり、自由だと。けれど、それは「まだ何も知らない」側にいる者の感想にすぎない。すべてを知った先に何があるのかを、誰も見たことがない。 おそらく、見ないほうがいい。 知るなと言われていた 人類がもっとも古くから語り継いできた物語のひとつは、知ることへの警告だった。 旧約聖書の創世記には、エデンの園に「善悪の知識の木」が立っていたとある。食べてはならない、と神は言った。しかしアダムとイヴはそれを食べた。手に入れたのは知識だった。失ったのは楽園だった。 ギリシア神話のプロメテウスは、神々から火を盗み、人間に与えた。火は技術であり、文明であり、知の象徴として読まれてきた。その代償として彼は岩山に鎖で繋がれ、鷲に肝臓を啄まれ続けた。ゲーテの『ファウスト』では、あらゆる学問を修め尽くした博士が、それでも満たされず、悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ。 文化も時代も違うのに、この構図は繰り返される。知への渇望が破滅を

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

何人殺せば正しくなるのか

ある思考実験がある。 暴走するトロッコの前に、あなたは立っている。このまま放っておけば5人が死ぬ。レバーを引けばトロッコは別の線路に逸れ、5人は助かる。ただし、そちらの線路にいる1人が死ぬ。 あなたはレバーを引くか。 多くの人は「引く」と答える。5つの命と1つの命。どちらが重いかは明らかだ、と。算数としてはこれ以上ないほど簡単な問題に見える。 でも、少しだけ立ち止まってほしい。あなたは今、「人を殺すことが正しい」と言ったのだ。 善意の算数 この思考実験は1967年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提唱したものだ。のちにジュディス・ジャーヴィス・トムソンがこれを「トロッコ問題」と名づけ、倫理学における定番の思考実験になった。 問いの核はシンプルだ。「より多くの人を救うために、より少ない人を犠牲にすることは許されるか」。功利主義の立場からすれば、答えは明快に思える。全体の幸福を最大化する選択が正しい。5人の命は1人の命より重い。引け。 ところが問題は、この計算がどこまで通用するかだ。 1人を犠牲にして5人を救う。では、1人を犠牲にして100人を救うのは? 1,000

By Sakashita Yasunobu

生きること

4000週間の暇つぶし

あなたが平均寿命まで生きるとして、残りの夏はあと何回来るだろう。仮に60回としよう。60回しかない、と思っただろうか。60回もある、と思っただろうか。 どちらでもいい。その感想は、どうせ何も変えない。 明日も同じ時間に目が覚めて、同じように一日が始まり、同じように終わる。残りの夏が60回だろうと600回だろうと、月曜日の朝の憂鬱さは1ミリも変わらない。 それなのに、なぜ人はこういう数字を知りたがるのだろう。 永遠だったはずの夏 覚えているだろうか。子どもの頃の夏休みが、どれほど長かったか。毎日が途方もなく広くて、退屈すら贅沢品だった。プールの水面に跳ねる光、アスファルトの陽炎、夕暮れの蜩。あの夏は確かに永遠だった。 ところが今はどうか。一年が一瞬で終わる。気がつけば春が来て、気がつけば年末で、気がつけばまた一つ歳を取っている。カレンダーの上では同じ365日なのに。 19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネは、この感覚にひとつの仮説を残した。主観的に感じる時間の長さは、その人の年齢に反比例するというものだ。10歳にとっての1年は人生の10分の1。50歳にとっての1年は50

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

良い人生なんてない

「良い人生とは何か」と問うとき、ほとんどの人はすでに間違えている。 「良い」という形容詞を使った瞬間、何かしらの尺度を前提にしている。幸福か。意味か。道徳か。生産性か。どれを選んでも、選ばなかった残りが影のように後をついてくる。しかも、問うている本人は今まさに生きている最中だ。完成していない小説を批評するようなもので、原理的に公正な評価はできない。 それでも人は問い続ける。だから、ここでもその問いに付き合ってみたい。ただし、答えは用意しない。 幸福は最近できた 現代の「幸福」は、意外と歴史が浅い。 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「エウダイモニア(εὐδαιμονία)」について長大な考察を展開した。この言葉はしばしば「幸福」と訳されるが、今の私たちが使う「幸福」とはかなり違う。アリストテレスにとって、エウダイモニアとは徳に基づいた魂の活動のことだ。「気分がいい」とか「欲しいものが手に入った」という状態ではなく、人間としての機能を卓越した仕方で発揮し続けるという、動的な営みを指していた。 「幸せになる」のではなく、「よく生きる」。状態ではなく、

By Sakashita Yasunobu