誰も等しくなれない世界で選び続けること

「公平な社会をつくるべきだ」という主張に反対する人はほとんどいない。しかし「公平とは何か」を定義しようとした瞬間、合意は崩壊する。結果を等しくすることなのか、機会を等しくすることなのか、貢献に応じて分配することなのか、必要に応じて分配することなのか。これらは互いに矛盾し、どれを選ぶかによって社会の設計はまったく異なるものになる。公平は理念としては美しいが、実装しようとすると必ず何かを犠牲にする。その犠牲の中身を見ずに「公平」を語ることはできない。

四つの公平、四つの矛盾

公平の定義は少なくとも四つある。

第一に、結果の平等。全員が同じ量の資源を受け取る。最も直感的だが、最も実現困難な定義である。人間の能力、意欲、環境が異なる以上、同じインプットを与えても同じアウトプットにはならない。結果を揃えようとすれば、アウトプットの段階で強制的な再分配が必要になる。

第二に、機会の平等。全員が同じスタートラインに立つ。しかしスタートラインを揃えること自体が幻想である。生まれた家庭の経済力、遺伝的な知能や体力、育った地域の教育環境。これらを完全に均すことは原理的に不可能であり、配られたカードを見ろで書いたように、配られたカードの格差は本人の選択以前にすでに存在している。

第三に、比例的公正。貢献に応じて分配する。直感的には最も「公平」に見えるが、貢献をどう測定するかという問題が残る。外科医と清掃員のどちらが社会に多く貢献しているか、という問いには客観的な答えがない。市場価格は貢献の近似値としてしばしば使われるが、市場価格は需要と供給で決まるのであって、道徳的な価値とは無関係である。

第四に、必要に応じた分配。必要としている人に多く渡す。福祉国家の思想的基盤だが、「誰が本当に必要としているか」を判定する権限を誰が持つのか、という問題が不可避的に発生する。

これら四つの定義は並立できない。結果の平等を追求すれば比例的公正が犠牲になり、機会の平等を徹底すれば必要に応じた分配と衝突する。「公平」という言葉を使うとき、われわれはこの矛盾を意識的に、あるいは無意識に、どれかひとつに限定している。

不公平が構造的に再生産される理由

仮にどの定義を採用したとしても、公平な状態を維持することは極めて困難である。なぜなら不公平は一度生じると自己増殖する構造を持っているからである。

ピケティが示した r > g(資本収益率が経済成長率を上回る)は、この構造を端的に表している。すでに資産を持つ者の富は複利で増加し、労働で稼ぐ者の所得は経済成長率に制約される。時間が経つほど格差は拡大し、最初の差が小さくても、数世代後には巨大な断層になる。

情報の非対称性も不公平を固定化する。教育、医療、法律、金融。あらゆる領域で、情報を持つ者と持たない者のあいだに構造的な有利不利が生じる。そして情報を得るためにもまた資源が必要であるから、情報格差と経済格差は相互に強化し合う。

さらに、分配を管理する側にも権力が集中する。どれだけ公正な制度を設計しても、その制度を運用する人間は利害を持つ。管理者が公平である保証はどこにもなく、善も正義もないで書いたように、正義そのものが立場によって異なる以上、誰が管理しても完全な中立は成立しない。

公平を追求することの代償

公平の実現が困難であるだけでなく、追求すること自体に副作用がある。

最も明確な副作用は、インセンティブの破壊である。結果を均等にするならば、努力の多寡に関わらず得られるものが同じになる。「頑張っても頑張らなくても同じ」という構造は、長期的に社会全体の生産性を低下させる。ソ連の計画経済が最終的に機能不全に陥った背景には、この構造的なインセンティブの欠如がある。

もうひとつの副作用は、自由の制約である。完全な分配の平等を実現するには、個人の経済活動を強く制限する必要がある。誰がどこで何を売り、何を買うかを管理しなければ、分配は即座に偏る。鎖を愛した動物で書いたように、安全や平等を得るために自由を差し出すという交換は、歴史上何度も繰り返されてきた。そしてその交換は、ほぼ例外なく、差し出した側が予想した以上のものを失う結果に終わる。

文化大革命における知識人の迫害、クメール・ルージュの都市住民強制移住。「平等」の名の下に行われた歴史的実験は、理念の崇高さとは無関係に、実装の段階で暴力に転化した。公平を追求する意志そのものが危険なのではない。公平の追求が権力と結合したとき、反対者を「不公平の加担者」として排除する論理が起動する。その論理に歯止めをかける仕組みがなければ、公平の追求は容易に抑圧に転化する。

無知のヴェールという思考実験

ロールズの「無知のヴェール」は、この袋小路に対するひとつの応答である。

自分がどの家庭に生まれ、どの能力を持ち、どの社会的地位に就くか一切分からない状態で、社会のルールを設計するとしたらどうするか。ロールズの答えは、最も不利な立場にある人の状況を最大限改善する制度を選ぶだろう、というものだった。

この思考実験が優れているのは、「公平とは何か」を直接定義するのではなく、「公平を考えるための条件」を設定した点にある。立場を知らない状態での合意は、少なくとも特定の立場に有利な設計を排除する。

しかし無知のヴェールにも限界がある。現実の人間はすでに自分の立場を知っている。自分が富裕層であることを知っている人間に「知らないふりをしろ」と要求しても、その思考実験は純粋には成立しない。誰のせいでもないで書いたように、自分の立場は自分で選んだわけではないが、その立場から自由に思考することもまた、できないのである。

測定できないものを分配するという矛盾

公平の議論が最も困難になるのは、分配の対象が「測定できないもの」に及ぶときである。

所得や資産は数値化できる。しかし教育の質、人間関係の豊かさ、安全の感覚、自己決定の自由、尊厳。これらを数値化し、等しく分配することはできない。誰も学びを測れないで書いたように、測定可能な代理指標をつくった瞬間、人々はその指標を最適化しはじめ、本来測りたかったものとの乖離が拡大する。

つまり、公平を制度として実装しようとすると、測定可能な次元だけが対象になり、測定できない次元の不公平は放置される。年収の格差は政策の対象になるが、孤独の格差は政策の対象にならない。しかし人間の幸福にとって、後者が前者より重要でないという根拠はどこにもない。

完全でなくても投げ出さないこと

公平は実現できない。定義が複数あり、互いに矛盾し、どれを選んでも副作用が発生し、構造的に不公平は再生産され、測定できないものは分配の対象にすらならない。

それでも「公平を目指すべきではない」という結論にはならない。完全な公平が不可能であることと、不公平を放置してよいことは、まったく別の命題である。

セーフティネット、累進課税、公教育、医療へのアクセス。これらの制度は「完全な公平」を実現するものではない。「許容できない不公平」の下限を引き上げるための装置である。完璧ではないが、ないよりは確実にましであり、そのましさの積み重ねが、社会を辛うじて維持している。

公平という言葉に酔うことも、公平を諦めて冷笑することも、どちらも構造から目を逸らしている点では同じである。必要なのは、公平が原理的に不完全であることを認めたうえで、それでもどの不公平を最も許容できないかを選び続ける態度である。その選択に終わりはない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu