どうせ死ぬ

あなたは死ぬ。べつに脅しているわけではない。ただ、あらゆる自己紹介のなかで最も正確なものを述べただけだ。名前よりも職業よりも、「いずれ死ぬ」という属性のほうがよほど確実で、よほど普遍的で、そしてよほど無視されている。

で、それがどうした、と思っただろうか。それならそれでいい。この話はべつに、あなたの人生を変えようとして書いているのではない。変わらないことのほうが、たぶん誠実だ。

解決済みの恐怖

エピクロスという哲学者がいた。紀元前3世紀のギリシャで快楽主義の学派を率いた人物だ。彼は『メノイケウス宛の手紙』のなかで、死についてこう述べた。

死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもはや存在しないからだ。

理屈は明快だ。私と死は決して同じ場に居合わせない。まだ来ていない嵐を窓の外に探すようなものだ、と。

ローマの詩人ルクレティウスは、これをさらに押し広げた。紀元前1世紀の長編詩『事物の本性について』第三巻で彼が提示したのは、今日「対称性論法」と呼ばれる議論だ。生まれる前、あなたは無限の時間のあいだ存在しなかった。それは怖くなかっただろう。ならば死後にふたたび訪れる無限の非存在を、なぜ恐れるのか。前と後ろは対称なのだから、恐れる理由もまた対称であるはずだ。つまり、ない。

論理としては美しい。だが、夜中にふと目が覚めて天井を見つめているとき、この理屈がどれほどの役に立つかは疑わしい。

たぶん、「生まれる前」と「死んだ後」は、構造としては同じでも、体験の地平からはまるで違う。生まれる前のあなたには失うものがなかった。だが今のあなたには名前があり、記憶があり、好きな音楽があり、会いたい人がいる。対称性論法が見落としているのは、まさにこの非対称性だ。あなたはもう何かを持ってしまった。

2500年前に解決されたはずの問題は、まるで解決されていない。誰もまだ死んでいないのだから、検証のしようもない。

死が怖いのは、「無になること」が怖いのか。それとも「まだやりたいことがあるのに終わること」が怖いのか。

不死という退屈

では逆に考えてみる。死なないとしたら、それは喜ばしいことなのか。

哲学者バーナード・ウィリアムズは、チェコの劇作家カレル・チャペックの戯曲『マクロプロス事件』に登場するエリナ・マクロプロスという女性を手がかりに、この問いを考えた。42歳で不老の秘薬を飲んだ彼女は、300年を生き延びる。しかし342歳を迎えたとき、あらゆることへの関心を失い、生きること自体に倦み果てていた。

ウィリアムズが見つめたのは、単なる退屈ではない。人を「明日も生きたい」と思わせるような根源的な欲望が、果てしない時間のなかでいつか枯渇するのではないか、ということだ。新しい趣味を見つけても、見知らぬ土地を旅しても、その「新しさ」はどこかで底をつく。退屈とは、やることがなくなることではない。何をやっても「もう十分だ」と感じてしまうことだ。それは想像以上に静かで、想像以上に恐ろしい。有限の生においてすら暇が怖いのに、無限の生はどれほどの空洞だろう。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「不死の人」には、さらに徹底した光景が描かれている。不死者の都市を探し求めたローマの軍人が見つけたのは、言葉を持たず、何にも関心を示さない原始的な人々だった。やがて判明するのは、この無気力な人々こそが不死者だということだ。無限の時間のなかであらゆる経験を済ませ、あらゆる思索を尽くし、ついには言葉すら手放していた。その一人は、かのホメロスだったという。

すべてを経験し終えた存在は、もはや何者でもなくなる。無限の時間は人を豊かにするどころか、透明にしてしまうのかもしれない。

永遠に生きられるとしたら、あなたは何年目に沈黙するだろう。

1000年後に誰もいない

仮に永遠に生きるとして、1000年後の自分は「自分」と呼べるのだろうか。

記憶は薄れ、価値観は変わり、かつて好きだったものはとうの昔に忘れている。名前だけが同じ、まったく別の人間がそこに立っているとしたら、それは本当に永遠に「生きている」と言えるのか。

船の部品をひとつずつ取り替えていき、すべてが新しくなったとき、それは同じ船か。テセウスの船と呼ばれる古典的なパラドックスだ。永遠の生にも、これとよく似た影がつきまとう。肉体が残っていても、心がまるごと入れ替わってしまったなら、そこにいるのは誰なのだろう。

不死を望むとき、人は「この自分」が永遠に続くことを想像する。だが永遠に続く「自分」が途中で別の誰かになるのだとしたら、それは死んでいるのと何が違うのか。あなたは最初からいなかったのかもしれないし、千年後にもいないかもしれない。

あなたが守りたい「自分」は、いつからいつまでの自分だろう。

何度でも失う

永遠に生きるあなたの隣で、友人は年をとり、恋人は老い、家族はやがて見知らぬ子孫に代替わりしていく。あなたはそのすべてを見届ける。そしてまた新しい誰かと出会い、また失う。

ハイデガーは『存在と時間』のなかで、自分が死ぬという事実を直視することではじめて本来的な生が可能になると論じた。彼の言う「死への存在(Sein zum Tode)」とは、死を忘れて日常に埋没する「ひと(das Man)」のあり方から離れ、自分の有限性を引き受けることではじめて「自分自身の」生を取り戻す、ということだ。

もしこれが正しいなら、有限だからこそ愛は成立する。「限られた時間のなかで、それでもあなたを選ぶ」という行為の重みは、時間が無限になった瞬間に蒸発する。永遠のなかではすべての選択が暫定的になり、「永遠に愛する」という言葉は、すべてが永遠である世界ではもはや何も意味しない。

一方で、永遠に愛したいという欲求もたしかにある。有限だから愛が成り立つという直感と、永遠に愛したいという願いは、矛盾しているようでどちらも本気だ。ならば愛さなければ傷つかないという結論もまた、ひとつの誠実さではある。

別れを繰り返すなかで、人はむしろ深くなっていくのかもしれない。出会いのたびに少しだけ優しくなれるのだとしたら。でも、そのとき増えていく「優しさ」とは、本当に優しさだろうか。それは痛みに対する麻痺と、どう違うのだろう。優しい人から壊れるのだとしたら、永遠に優しくあり続けることは、永遠に壊れ続けることだ。

何回目の別れで、あなたは泣かなくなるだろう。

あなた抜きの世界

もうひとつ、不愉快だが避けられない事実がある。

あなたが明日いなくなっても、世界はほとんど何も変わらずに回り続ける。電車は定刻に来るし、スーパーの棚には牛乳が並ぶし、天気予報は明日の降水確率を告げる。あなたの不在は、宇宙にとっては誤差にもならない。

アーネスト・ベッカーは1973年の著書『死の拒絶』で、人間の文化的営みの大半は死の恐怖への防衛だと論じた。英雄譚を語り、記念碑を建て、子どもに名前を継がせ、作品を残す。すべては「自分がいなくなった後にも何かが残る」という幻想を支えるためだ、と。しかし一体なにがのこるんだっていうんだと問い返されれば、答えに窮する。この着想はのちに社会心理学における「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」として実証的な研究に引き継がれ、死の意識が人間の行動や価値観にどう影響するかを検証する枠組みへと発展している。

人は自分の非存在を想像できない。鏡のない部屋で自分の顔を確かめようとするようなものだ。想像しようとする主体そのものが消えているのだから、原理的に不可能だ。その意味であなたは死ねない。少なくとも、想像のなかでは。だから間接的な方法で自分の存在を延長しようとする。

ただ、もう少し穏やかに考えることもできる。「自分がいなくても世界は回る」を、重荷を降ろす許可として受け取ること。世界を背負わなくていい。あなたの肩に乗っているのは、あなたの人生だけだ。

それで十分に重い。

あなたがいなくなった翌日の世界が何ひとつ変わらないとして、それは絶望だろうか、安堵だろうか。

気晴らし

死ぬとわかっていて、なお何かを始められるのは、冷静に考えるとかなり奇妙なことだ。

小説を書き始める。木を植える。子どもを育てる。完成を見届けられる保証はどこにもない。それなのに人は始める。始めてしまう。

パスカルは『パンセ』のなかで、人間は気晴らし(divertissement)なしには自分の惨めさに耐えられないと書いた。部屋に静かに座っていられないことが、人間のあらゆる不幸の原因だ、と。だがこれは気晴らしへの非難ではない。人間の条件の記述だ。私たちは気を紛らわせずにいられない生き物だ。それは弱さというよりも、構造のようなものだろう。

もしすべてが終わるなら、今この瞬間に何かをしていることの価値は、むしろ上がるのかもしれない。何も残らないからこそ、今ここにいることだけが、かろうじて確かだ。

もっとも、これすらも気晴らしの一種、あるいは意味という病の症状のひとつなのかもしれないが。

死ぬとわかっていてなお何かを始めるのは、勇気か、それとも忘却か。

何も解決しない

もし大切な人の命を一年延ばす代わりに、自分の寿命が一年縮むとしたら、何回やるだろう。

もし自分の余命があと一年だとわかったら、最初にやめることは何だろう。そしてそれを、なぜ今やめていないのだろう。

もし死後の世界が確実に存在すると証明されたら、人はもっと善く生きるだろうか。それとも、もっとひどく生きるだろうか。

もし人類全員が不死になったら、子どもを生む意味はあるだろうか。誰も退場しない世界に、新しい命を迎え入れる理由があるだろうか。招かれてもいない宴に連れてこられた側は、こちらこそ願い下げですと言うかもしれない。

もし永遠に生きられるが、地球からは出られないとしたら。それでも生きたいと思えるだろうか。

もし「生きたい」と思うことと「死にたくない」と思うことが別のことだとしたら、あなたが本当に求めているのはどちらだろう。

何かに意味があると感じるためには、それが終わらなければならないのだろうか。美しい夕焼けが美しいのは、数分で消えてしまうからなのか。もし同じ夕焼けが永遠に続いたら、あなたはいつかそれを「ただの光」と呼ぶようになるのだろうか。

忘れられるとしても、自分の葬式で何を言ってほしいだろう。そしてそれに値する生き方を、今しているだろうか。

答えはない。あなたが生きているあいだは問いだけが残り、死んだら問う者がいなくなる。どちらにしても、何も解決しない。

で、明日もたぶん、あなたは目を覚ます。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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