赦せないまま死ぬ
「許してあげなよ」と、誰かが軽々しく言う。まるで赦しが道徳的な義務であるかのように。まるでそれが簡単で、正しくて、誰にでもできることであるかのように。
でも、許せないものは許せない。それだけのことなのに、なぜかこの社会では、許せない側が責められる。許さない人間は心が狭い。許さない人間は前に進めていない。許さない人間は、どこか壊れている。
本当にそうだろうか。
そもそも、赦しとは何か。この問いに、哲学は驚くほど不穏な答えを用意している。いや、正確に言えば、答えなど用意していない。ただ、問いの底が抜けているということを、丁寧に証明してみせただけだ。
許すべきだという呪い
私たちは「許すこと」を美徳だと教えられて育つ。宗教は赦しを説き、道徳は寛容を称え、自己啓発本は「手放すこと」を勧める。許すことは成長であり、許さないことは停滞だと。
だが、この「許すべきだ」という圧力そのものが、ひとつの暴力ではないか。
傷ついた人間に向かって「許しなさい」と言うとき、それは傷の深さを無視している。許すかどうかは、傷ついた当人だけが決められることのはずだ。それなのに、周囲は、社会は、あるいは自分自身のなかの「善良でありたい」という声が、許しを強要する。
「許さない権利」というものがあるとすれば、それは侵害されるべきではない。しかし同時に、許さないことを選んだ人間は、その怒りや憎しみとともに生きていかなければならない。許さないことの代償は、自分自身の心に刻まれる。その傷から何かを学べるという保証はない。
どちらを選んでも、傷は消えない。
赦しは不可能にしか宿らない
ジャック・デリダは、赦しについて、ほとんど残酷なことを言った。
デリダによれば、真の赦しとは「赦しがたいもの」を赦すことであり、それ以外は赦しの名に値しない。条件つきの赦し、つまり相手が反省したから、償ったから、時間が経ったから許す、というのは、デリダの視点からすれば赦しではなく「交換の論理」にすぎない。取引だ。
「赦しとは、不可能なものとして自らを告げなければならない」とデリダは書いた。赦しは、可能であるかぎり、赦しではない。赦しがたいものに直面したとき、それでもなお赦すという、あの不可能な跳躍のなかにだけ、赦しは存在する。
これは慰めではない。むしろ絶望に近い。私たちが日常的に「許す」と口にしていること、それは本当は赦しでも何でもなく、ただの妥協であり、忘却であり、疲弊の末の諦めなのかもしれない。本当の赦しがもし存在するとしたら、それは狂気の領域にしかない。デリダ自身がそう言っている。赦しは「狂気の圏域」に属すると。
そして私たちのほとんどは、その狂気に手が届かない。(道徳的な選択がどこまで合理的でありうるかについては「何人殺せば正しくなるのか」でも考えた。)
取り返しはつかない
ハンナ・アーレントは『人間の条件』のなかで、人間の行為がもつ二つの根本的な性質について論じた。ひとつは「予測不可能性」、もうひとつは「不可逆性」。私たちは自分の行為がどんな結果をもたらすかを完全には予測できず、そして一度おこなった行為を取り消すことは決してできない。
この不可逆性に対する唯一の救済が、アーレントによれば「赦し」である。赦しは、過去の行為の連鎖を断ち切り、行為者をその帰結から解放する。アーレントはイエス・キリストを、人間の営みにおける赦しの役割を発見した人物として、宗教的な文脈を超えた世俗的な意味においても位置づけた。
だが、ここで立ち止まって考えたい。アーレントの言う「赦し」が不可逆性を断ち切る唯一の手段だとするなら、赦しが与えられないとき、人間はどうなるのか。
取り返しがつかない。永遠に。
赦しが不在であれば、過去の行為の重みは際限なく積み重なっていく。人は変わったと主張するかもしれない。十年前の自分と今の自分は違うと。だが、赦しがなければ、過去の行為は現在にまで影を落とし続ける。変わったかどうかを判定する権限は、傷つけた側にはない。まして、行為の結末を分けたのが本人の意志ではなく偶然だったのだとすれば、なおさらだ。
罰でも修復でもない
赦しとは少し異なる角度から考えてみたい。
修復的正義(Restorative Justice)という考え方がある。従来の応報的正義、すなわち「罪には罰を」という枠組みに対して、修復的正義は被害者と加害者の関係を修復することに主眼を置く。罰することが目的ではなく、壊れた関係を繕い、共同体を再構築することが目的だ。
一見すると、これは赦しに近い。だが、修復的正義は必ずしも赦しを前提としない。被害者が加害者を赦す必要はない。求められるのは、何が起きたかを直視し、その影響を認め、可能な範囲で修復を試みるということだ。
しかし、修復的正義にも限界はある。修復しようのない傷は存在する。殺された人間は戻ってこない。奪われた時間は返ってこない。修復とは、せいぜい「これ以上壊さない」という最低限の約束にすぎないのかもしれない。
応報的正義は、罰を与えることで帳尻を合わせようとする。だが、罰は傷を癒さない。修復的正義は、関係を繕おうとする。だが、繕えないものは繕えない。
どちらのアプローチも、取り返しのつかなさの前では、結局、無力だ。(この「取り返しのつかなさ」と道徳的距離の関係は「あなたはもうボタンを押している」でも扱った。)
自分だけは赦せない
他者を赦すことが困難であるなら、自分を赦すことはさらに困難かもしれない。
他者に対しては「あの人にも事情があったのだろう」と想像する余地がある。だが、自分に対しては、そうした言い訳が通用しないことを自分自身がいちばんよく知っている。あのとき別の選択ができたことを。あのとき口にすべき言葉があったことを。あのとき立ち止まるべきだったことを。自分だけが知っている。
自分を赦すとは、その事実を知りながら、それでも生き続けることを選ぶということだ。それは強さなのか。それとも都合のいい自己欺瞞なのか。
「謝罪は誰のためにあるのか」という問いも、ここにつながる。謝ることが謝る側の罪悪感の解消のためだとしたら、それは赦しの要求であり、ひとつの暴力だ。謝ることが傷ついた側の癒やしのためだとしたら、しかし、謝罪で癒える傷がいったいどれほどあるだろうか。
死者に赦しは届かない
もっと根源的な問いがある。
死んだ人間を赦すことはできるのか。死んだ人間に謝ることに、意味はあるのか。
赦しが関係のなかで生じるものだとすれば、一方がもう存在しないとき、赦しという行為は成立しえない。墓前で「許すよ」と呟いたとして、それは誰に向かって言っているのか。死者に向かってか。それとも、自分自身に向かってか。
死者に謝ることもまた、同じ困難を抱えている。受け取る人がいない言葉は、どこにも届かない。それでも人は墓前で頭を下げ、心のなかで何度も何度も謝り続ける。それは無意味なのか。あるいは、無意味であっても、そうせずにはいられないということ自体が、人間の、どうしようもなさなのか。(死と喪失の不可逆性については「どうせ全部消える」でも書いた。)
赦しのない世界はもう来ている
キャンセルカルチャーという言葉が日常語になった。過去の発言が掘り起こされ、文脈を剥がされ、現在の基準で裁かれる。変わったと主張しても、証明のしようがない。そもそも、変わったことを証明する責任は、変わったと主張する側にあるのか、それを認定する側にあるのか。
赦しのない社会は、全員を過去に縛りつける。誰もが過ちを犯し、誰もが赦されない。それは正義だろうか。あるいは、正義を追い求めた末のディストピアだろうか。そもそも誰のせいでもなかったのだとしたら、この裁きには被告人すらいない。
だから誰も赦されない
答えはない。最初からなかった。
許すことが強さなのか、弱さなのか。許さないことが正しいのか、間違っているのか。人は変われるのか。謝罪には意味があるのか。赦しは本当に存在するのか。
これらの問いに答えは出ない。哲学もまた、答えを出せなかった。デリダは赦しを不可能性のなかに追いやり、アーレントは赦しを人間の条件に織り込みながらも、赦されないケースについては沈黙した。
あなたには、許せない誰かがいるだろうか。あるいは、許してほしい誰かが。
その問いを抱えたまま、それでも明日は来る。赦しがなくても、朝は来る。取り返しがつかないまま、それでも時間だけは流れていく。
それが、たぶん、いちばん残酷なことだ。