なにかをしよう!(何のために?)
人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。
献血にいこう
献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。
この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。
カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。
だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ちよさがたまたま一致しているだけだ。
心理学には「道徳的免罪符(moral licensing)」という概念がある。ひとつ善いことをすると、次にちょっと悪いことをしても許される気がする、という現象だ。献血のあとにジャンクフードを山ほど食べても罪悪感が薄いのは、おそらくこれだ。善行は、善行そのものとしてではなく、免罪符として機能している。
ピーター・シンガーなら、そんな感触はどうでもいいと言うだろう。シンガーの効果的利他主義は、善意の「手触り」ではなく、実際にどれだけ苦痛を減らせたかだけを問う。献血はその意味で珍しい。実際に命を救い得る行為で、しかもコストがほとんどない。血は勝手に再生する。痛みも一瞬だ。
でも、だからこそ厄介な問いが残る。コストがほぼゼロの善行に、善行としての重みはあるのか。ボタンひとつで誰かが救われるとして、それを押すことは道徳的に立派なのか。それとも、押さないことだけが罪なのか。もっとも、あなたはもうボタンを押しているのかもしれないが。
十分にいい人間であるために、どれだけのコストを払えばいいのか。そもそも、十分なんてものがあるのか。
善人の暴力
「あなたのためを思って」。この言葉が刃物になることに、言った側はたいてい気づかない。善意は、向けられた相手の同意を必要としない。だからこそ暴力になり得る。
ニーチェは同情(Mitleid)を嫌った。『ツァラトゥストラはかく語りき』をはじめ複数の著作で、彼はこれを繰り返し批判している。同情は相手を「かわいそうな人」として固定する。同情する側は自動的に「強い者」「恵む者」の位置に立つ。善意の顔をした権力構造だ。
J.S.ミルは『自由論』(1859年)で危害原理(harm principle)を提示した。他者に対して正当に権力を行使できる唯一の目的は、他者への危害を防ぐことだけである。本人の意に反してであれ「あなたのために」と介入すること、つまりパターナリズムは、この原理に照らせば正当化できない。
「大丈夫だよ」「ポジティブにいこう」。苦しんでいる人間に向けられるこの種の言葉は、相手の苦しみそのものを否認している。あなたの痛みは大したことがない、と暗に宣告している。最近ではこれを「トキシック・ポジティビティ」と呼ぶらしい。
マルセル・モースは『贈与論(Essai sur le don)』(1925年)のなかで、贈与が持つ支配的な力学を分析した。贈り物は受け取った側に返礼の義務を課す。無償の善意は無償ではない。感謝を要求し、関係のなかに非対称を刻み込む。
純粋な善意なんてものは存在するのか。あらゆる親切に自己利益が混入しているとすれば、それは親切の価値を損なうのか。それとも、そういうものだと認めたうえで、なお善くあろうとすることにこそ意味があるのか。
誰かを助けたいと思ったとき、それは本当に相手のためなのか。それとも、「助ける側の自分」でいたいだけなのか。
いい人をやめたい
嫌われたくないから笑う。断れないから引き受ける。譲って、譲って、最後に何も残らない。
ニーチェは『道徳の系譜学(Zur Genealogie der Moral)』(1887年)で、道徳の起源にふたつの類型を見出した。強者が自らの力を肯定する「主人道徳(Herrenmoral)」と、弱者が従順さや自己犠牲を美徳に仕立てることで強者への恨みを道徳的優位に変換する「奴隷道徳(Sklavenmoral)」。ニーチェに言わせれば、「いい人」であることはしばしば後者の産物だ。強くなれないから、弱さを美徳にする。この力学は「貴族道徳と奴隷道徳」の話でもある。
ゴッフマンは『日常生活における自己呈示(The Presentation of Self in Everyday Life)』で、社会生活を演劇の比喩で分析した。人は常に「舞台(front stage)」の上で役割を演じている。「いい人」もひとつの役柄であり、舞台裏に降りる瞬間がなければ、演じるだけで消耗する。
アドラー心理学は「課題の分離」を説く。嫌われることへの恐怖は、他者の課題を自分の課題と取り違えた結果だ。他者がどう思うかは他者の問題であって、自分にはどうしようもない。理屈としてはそうだ。ただ、社会は相互依存の網の目でできていて、課題をそこまで簡潔に分離できるかどうかは、また別の話だ。
「いい人」であることが自分の選択なら、やめることもまた自由の行使のはずだ。でも「やめたい」と思いながらやめられないとき、それは選択なのか、強制なのか。
本当に嫌われてもいいと思えた瞬間、自分には何が残るのか。
正しさが正しくないとき
議論に勝った。論理的には完璧だった。でも相手の表情を見て、何かを間違えた気がした。
正しいことを言って相手を傷つけたとき、正しさの値打ちは揺らぐ。論理的な正しさと倫理的な正しさは、同じ場所にあるとは限らない。
アリストテレスはこのズレを知っていた。彼が「フロネーシス(phronesis)」と呼んだ実践的知恵は、理論的に正しい命題を導くエピステーメーとは性質が違う。具体的な状況のなかで何が善いかを見極める能力だ。正しいことを、正しい相手に、正しいタイミングで、正しい仕方で言うこと。正論をぶつけることではない。
ハーバーマスは理想的発話状況(ideale Sprechsituation)という概念を提出した。すべての参加者が対等で、強制がなく、最善の論証だけが力を持つような対話の場。しかし現実にそんな場は存在しない。権力も感情も、常に対話のなかに居座っている。
キャロル・ギリガンが『もうひとつの声(In a Different Voice)』(1982年)で提唱したケアの倫理は、正義の原理を抽象的に適用するのではなく、具体的な関係性のなかでの応答と配慮を倫理の軸に据えた。正しいかどうかではなく、この人に対して今、何が必要かを問う。
正しさは常に善いのか。もし善くないとすれば、正しくあろうとすることには何の意味があるのか。正しさを数で計量しようとすると、問いはさらに暗くなる。何人殺せば正しくなるのか。
自分が正しいと確信しているとき、その確信自体が間違いである可能性を、いったいどうやって疑えるのか。
午前3時のほうが正直
夜中に書いたメッセージを、朝になって読み返す。恥ずかしくて画面を閉じる。でも考えてみれば、どちらが「本当の自分」なのかは、まったく自明ではない。
ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、気分(Befindlichkeit/Stimmung)を世界の開示様態として位置づけた。気分は単なる主観的な「感じ」ではない。世界がどのように現れるかを規定する、存在の根本構造だ。昼間の安定した気分も、深夜の漠とした不安も、いずれも世界の一側面を開いている。深夜に浮かび上がるのは、日中の忙しさが覆い隠していた、むき出しの実存的不安(Angst)かもしれない。
サルトルなら、日中の社会的な自分のほうが「自己欺瞞(mauvaise foi)」だと言うかもしれない。人は自由であることの重さから逃れるために役割を演じる。ウェイターはウェイターらしく、学生は学生らしく振る舞う。深夜にその演技が疲弊で剥がれるとき、自由のむき出しの重さが戻ってくる。ただし、サルトルが「本来的な自己」のような固定的なものを想定しているわけではない。自由であること自体が人間の条件であり、それを引き受けることが誠実さ(authenticité)だ。
認知科学的に言えば、前頭前皮質の機能は疲労で低下する。普段は抑え込まれている思考や感情が漏れ出す。でもそれは「本音」なのか。それとも、抑制を失った脳がただ暴走しているだけなのか。
トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」(1974年)のなかで、主観的経験の還元不可能性を論じた。第三者の視点からは、意識の内実に到達できない。自分自身についてすら、「どちらの自分がより本当か」を判定するための中立的な視点など存在しない。
「本当の自分」を知りたいという欲望そのものが、すでにひとつの自己欺瞞かもしれない。意識そのものの不確かさについては「灯りと不在」でも書いた。
自分の声が嫌い
自分の声を録音で聞いたことがある人は、たいていあの違和感を知っている。こんな声じゃないはずだ、と思う。でも周囲がずっと聞いているのは、録音のほうの声だ。
理由は物理的にはっきりしている。自分の声は骨伝導を通じて低音が増幅された状態で耳に届く。録音された声は空気伝導のみの音であり、他者が聞いているのはこちらのほうだ。つまり、自分だけが「自分の声」を聞いたことがない。正確に言えば、自分だけが聞いている「自分の声」は、他の誰とも共有されない幻聴だ。
ラカンは「鏡像段階(le stade du miroir)」として知られる論考(1949年)で、幼児が鏡に映った自己像を「自分」として引き受ける過程を分析した。鏡の中の像は、断片的に経験されている自分の身体とは異なる、統一された全体像だ。幼児はこの像に魅了され、同一化する。しかし、その同一化には根本的なズレが刻まれている。鏡の中の自分は、自分であって自分ではない。ラカンはこのズレを「疎外(aliénation)」と呼んだ。
鏡に映る自分の顔は左右反転している。写真の自分は反転していない。他者が見ているのは写真のほうだ。そして人は鏡の中の自分を好み、他者は写真の自分を好む傾向がある。心理学ではこれを単純接触効果(mere exposure effect)で説明する。見慣れた像のほうを好むというだけのことだ。だが、見慣れた自分が「本当の自分」だとは限らない。
メルロ=ポンティにとって、身体は単なる客体ではなく、世界へと開かれた存在の媒体だった。しかし録音で自分の声を聞くとき、身体は客体になる。自分の声が「もの」として外側から戻ってくる。その不快さは、自分が主体であると同時に客体でもあるという存在の二重性に、不意に触れてしまう経験なのかもしれない。
他人が見ている自分と、自分が思い描いている自分。どちらも本当で、どちらも嘘だとすれば、「自分」とは何なのか。
言葉にした瞬間に嘘になる
「悲しい」と口にした瞬間、本当の悲しみは言葉の外に取り残される。言語は感情を整理するが、整理した時点で何かが抜け落ちる。
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921年)の命題5.6で、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と書いた。言語化できないものは、思考の対象にすらならないのか。後期の『哲学探究(Philosophische Untersuchungen)』(1953年、死後出版)では方向を変え、いわゆる「私的言語」の不可能性を論じた。自分だけに通じる内的感覚の言語は成り立たない。言語は本質的に公共的なものだ。だとすれば、私的な体験を公共の道具で表現しようとする試みには、常に構造的な限界がある。その限界を味わいたいなら「赤を知らないし、何もわからない。」を読むといい。
デリダは「差延(différance)」の概念でこの問題をさらに押し進めた。意味は他の記号との差異の体系のなかでしか生じず、しかも常に先送りされ、最終的に確定することがない。言葉は「もの自体」に到達しない。言語は世界を映す鏡ではなく、永遠に焦点の合わないレンズのようなものだ。
でも、だからこそ人は詩を書くのかもしれない。比喩も韻律も物語の構造も、直接的な記述では捉えられないものに迂回路を通じて触れようとする試みだ。文学は言語の不可能性に正面から挑む営みであり、そしてたぶん、負け続ける営みだ。哲学は文学的表現を必要とするか。答えはたぶん、必要とする。
完璧な言語があったなら、詩は不要になるのか。あるいは、言語が不完全だからこそ人は書くのか。
自分の気持ちを完璧に伝えられる言葉が見つからないとき、そもそも自分はその気持ちを理解しているのか。
夜にしか書けないもの
日中に書いた文章には体裁がある。論理の筋道がある。誤字もない。でも読み返すと、どこか他人が書いたもののように感じる。夜中に書いたものは違う。構成は破綻しているし、論理は飛躍している。翌朝に見れば赤面ものだ。でも、何かがある。日中の文章にはない何かが。
プラトンは『イオン』で、詩人は理性的な技術(テクネー)によってではなく、神がかり的な霊感(エンテウシアスモス/enthousiasmos)によって創作すると述べた。理性が退くとき、別の何かが入り込む。それを神の声と呼ぶか無意識と呼ぶかは時代によるが、構造は同じだ。コントロールを手放したとき、何かが書かれる。
ブルトンは『シュルレアリスム宣言(Manifeste du surréalisme)』(1924年)で自動記述(écriture automatique)を提唱した。理性の検閲を排して、無意識の流れをそのまま紙の上に載せる方法だ。夜中にベッドのなかで走り書きする行為は、この自動記述に近いのかもしれない。検閲が疲弊して、何かが通過してしまう。
チクセントミハイのフロー理論によれば、没頭の状態では自己意識が消失する。自分が書いているという意識がなくなり、ただ言葉が流れる。夜は自己検閲が弱まるぶん、その状態に入りやすいのかもしれない。
完成された文章からは、書き手の息遣いが消えている。推敲を重ねるたびに体温が下がる。読者に届くのは情報だけで、その情報がどんな身体から発されたのかは見えなくなる。夜の文章に「何かがある」と感じるのは、そこに書き手が、まだ、残っているからかもしれない。
朝になって削除する文章と、朝になっても残る文章。その差は品質の差なのか、勇気の差なのか。
返事をしない権利
既読をつけたまま返信しない。それだけのことなのに、後ろめたい。
レヴィナスは倫理の原点を「顔(le visage)」との出会いに見た。他者の顔は、問答無用で応答を要求する。殺すな、と。応えよ、と。しかしデジタル空間に「顔」はあるのか。アイコンは顔か。テキストは顔か。既読マークは、不在を告げる顔か。レヴィナスの枠組みをデジタル空間に直接移植するのは無理がある。だが、「応答を要求する何か」がスクリーンの向こうにあるという感覚だけは消えない。
既読機能はもともと送信者の利便性のために設計されたものだった。しかし結果として、受信者に「見たなら返せ」という暗黙の規範を課すことになった。テクノロジーが社会規範を創出する典型例だ。返信する能力があることが、返信する義務に転化する。
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最後にこう書いた。「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」。しかし語り得ないのではなく、ただ語りたくないだけのとき、沈黙はどう位置づけられるのか。沈黙は不作為なのか。それとも、沈黙そのものがひとつの応答なのか。
技術的に「できる」ことが、道徳的に「すべき」ことに変わる。この変換はデジタルコミュニケーションに限った話ではない。見えている困っている人を助けられるのに助けない。声を上げられるのに上げない。能力は義務を生むのか。
返信しなかったことで失われた関係は、そもそも返信で維持できるようなものだったのか。もし世界から他者がすべて消えたら、この問いも消える。「世界にあなたひとり、ぽつんと。」
死者のSNSアカウント
亡くなった人のプロフィールが、まだそこにある。最終ログインの表示が止まったまま。アイコンは笑っている。
ハイデガーは死を「現存在の最も固有な、没交渉的な、追い越し得ない可能性」と規定した。死は誰にも代わってもらえない、どこまでも自分だけのものだ。しかしデジタル空間では、本人が死んだあともアカウントが残り続ける。投稿は消えない。写真は色褪せない。追悼アカウント機能を持つプラットフォームすらある。死者のデジタルな影は、本人とは無関係に存在し続ける。
デリダの「痕跡(trace)」の概念を思い出す。テクストは書いた者がいなくなっても意味を持ち続ける。テクストの意味は著者に依存しない。デジタルデータは、この痕跡の最も純粋な形かもしれない。肉体が消えても、テクストは消えない。いや、テクストは最初から肉体と無関係に存在していた。
死者のデータは誰のものか。EUの一般データ保護規則(GDPR)には「忘れられる権利」の規定があるが、死者のデータの扱いは加盟国の法制度に委ねられ、統一的なルールはない。死者にプライバシーの権利があるのかという問い自体が、まだ答えを持たない。
仏教はすべてが無常(anicca)であると説く。あらゆるものは生じ、変化し、滅びる。デジタルデータの永続性は、この無常に抗う人間の試みなのか。それとも、抗ったつもりで、ただ空虚な痕跡を増やしているだけなのか。
生物学的な死、社会的な死、デジタルな死。それぞれは異なるタイミングで訪れる。最後まで残るのは、たぶん、誰も読まないテキストデータだけだ。「誰もまだ死んでいない」。データが消えるまでは。
自分が死んだあと、誰かが自分のアカウントをスクロールしている。そのとき、自分はまだそこに「いる」のか。
忘れたくても忘れられない
消したい記憶ほど鮮明に残る。思い出したくないのに、ふとした瞬間に甦る。不意打ちのように。
ジョン・ロックは『人間知性論(An Essay Concerning Human Understanding)』(1689年)で、人格の同一性を記憶の連続性に基礎づけた。ある過去の経験を記憶していることが、現在の自分とその経験の主体が同一であることの根拠となる。記憶が自分をつなぎとめている。逆に言えば、記憶がなくなれば、同一性の根拠も崩れる。
デレク・パーフィットは『理由と人格(Reasons and Persons)』(1984年)のなかで、この直観をさらに揺さぶった。転送装置によって完全にコピーされた人間は「同じ人間」なのか。脳が半分に分割されて、それぞれが別の身体に移植されたとき、どちらが「本人」か。パーフィットの結論は、人格の同一性は程度の問題であり、「同じ自分であること」は我々が思うほど重要ではない、というものだった。
ニーチェは『道徳の系譜学』の第二論文で、忘却を積極的な能力として描いた。忘却は記憶の失敗ではなく、精神の衛生を保つための能動的な力(aktive Vergesslichkeit)だ。すべてを記憶し続ける存在は、すべてに苦しみ続ける。忘れられないことは、この能力の故障であり、一種の病だ。
フロイトは抑圧(Verdrängung)のメカニズムを論じた。意識から追い出された記憶は消えるのではなく、無意識に沈み込み、症状として回帰する。忘れようとすればするほど、記憶はより頑固に留まる。
もしすべての記憶を自由に消去できるなら、そのあとに残る自分は、まだ自分なのか。より純粋な自分か、それともまったくの別人か。
忘れたい記憶が自分を形作っているのだとすれば、自分を引き受けるためには、その記憶ごと受け入れるしかないのか。「忘れられるとしても」、なお形は残る。
何もしなかった日
一日中ベッドにいた。何も生産しなかった。食事もとらなかった。それなのに、罪悪感がある。
この罪悪感は、どこから来るのか。
ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で、禁欲的プロテスタンティズムが勤勉を神への奉仕として内面化させた過程を描いた。労働は天職(Beruf)であり、怠惰は罪だ。宗教が力を失っても、この倫理だけが世俗の骨格として残った。働かざる者食うべからず。理由は忘れたが、感覚だけが残っている。
中世キリスト教では「怠惰(acedia)」が大罪のひとつだった。4世紀にエヴァグリオス・ポンティコスが修道士の霊的怠慢として記述し、6世紀に教皇グレゴリウス1世の整理を経て七つの大罪の体系に組み込まれた。何もしないことは、神から与えられた使命を放棄する罪とされた。世俗化してもなお、この構造は無意識のうちに生き延びている。
ハン・ビョンチョルは『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』(2010年)のなかで、現代を「功績社会(Leistungsgesellschaft)」と呼んだ。もはや誰かに強制されているわけではない。自分自身が自分を駆り立てる。休むことが怠惰に感じられるのは、上司の命令ではなく、自分自身が自分の上司だからだ。
しかしアリストテレスは『政治学』で、はっきりとこう述べた。余暇(スコレー/σχολή)こそが人間の目的であり、労働は余暇のための手段にすぎない。現代では、この関係が完全にひっくり返っている。余暇は労働の「息抜き」にすぎず、それ自体が目的であるとは誰も思っていない。
「何もしていない」とは、本当に何もしていないのか。休息は行為ではないのか。考えることは労働ではないのか。
何も生み出さなかった一日を、それでも生きた一日と呼べるのか。たぶん、暇が怖いだけなのだ。
誰のために働いているのか
月曜日の朝、アラームが鳴る。起き上がる理由を考える。見つからないまま、足を床につける。
マルクスは『経済学・哲学草稿』(1844年)で「疎外された労働(Entfremdete Arbeit)」を論じた。労働者は自分が作ったものから引き離され、労働の過程そのものから引き離され、最終的には自分自身から引き離される。労働が自己実現ではなく、自己喪失になる。
グレーバーは2013年のエッセイ(のち2018年に書籍化された『ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs)』)で、社会に実質的な貢献をしていないと当人自身が感じている仕事が膨大に存在すると指摘した。それでもその仕事を辞められない。辞めれば生活が立ち行かなくなるからだ。意味のなさを自覚しながら続けること。これもまた、疎外のひとつの姿だ。
ハンナ・アーレントは『人間の条件(The Human Condition)』(1958年)で、人間の営みを「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の三つに分けた。労働は生命維持のための反復的行為であり、消費されて何も残らない。仕事は耐久性のあるものを作る。活動は、言葉と行為を通じて人間のあいだで何かを始めることだ。現代社会では、大半の時間が「労働」に費やされている。生きるために食べ、食べるために働く。循環から抜け出せない。
シモーヌ・ヴェイユは自ら工場で働いた経験をもとに、労働のなかに注意(attention)と恩寵(grâce)の可能性を見出そうとした。労働が苦痛であっても、その苦痛を通じて世界に触れることはできる。ただ、それは自らの意志で工場に入ったヴェイユの言葉であり、選択の余地なく働いている人間に同じことを言えるかは別の問題だ。
もし明日から一切働かなくてよくなったとして、何をするのか。すぐに答えが出るなら幸運だ。出ないなら、労働の不在は解放ではなく、もうひとつの空虚だ。「お金がなくなっても何も解決しない」のと同じように。
自分の仕事がなくなっても世界は何も変わらないと知ったとき、それでも明日、また同じ場所に向かうのか。
他人の幸せが不愉快なとき
友人の成功を素直に喜べない。祝福の言葉をタイプしながら、腹の底がざわつく。醜い感情だとわかっている。でも消えない。
アリストテレスは『弁論術』で嫉妬(phthonos)を「自分と似た立場にある者の成功に対する苦痛」と定義した。遠い存在の成功には嫉妬しない。嫉妬は親しさの感情だ。近いからこそ、差が痛い。
ルネ・ジラールは「模倣的欲望(désir mimétique)」の理論を展開した。『暴力と聖なるもの(La Violence et le sacré)』(1972年)などで論じたこの概念によれば、人は自発的に欲望するのではなく、他者の欲望を模倣する。友人が何かを手に入れたから、自分もそれが欲しくなる。友人がそれを望んでいなければ、自分もたぶん望まなかった。欲望の起源は、常に他者にある。幸福ですら例外ではない。「あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだった」。
ニーチェのルサンティマン(ressentiment)は、この構造をさらに暗い場所に引きずり込む。自らの無力を直視できないとき、人は成功者への怨恨を道徳的批判にすり替える。「あの人の成功は不当だ」「あの人は本当は大したことがない」。嫉妬が道徳の衣装を着る。
フェスティンガーの社会比較理論(1954年)によれば、人は自分と似た他者と比較する傾向がある。SNSはこの比較対象を際限なく拡大した。しかも他者の人生はハイライトだけが表示される。裏側は見えない。比較の土台が歪んでいると知りながら、比較をやめられない。
比較なしに自分を評価することは可能なのか。他者がいなければ、自分の価値はどうやって測るのか。
もし世界に自分一人だけが残ったら、自分の人生に満足できるのか。
選ばなかった人生
あのとき別の道を選んでいたら、今ごろどうなっていたか。この問いに意味がないことはわかっている。でも頭から離れない。
ライプニッツは、現実世界は可能な世界のうちで最善のもの(le meilleur des mondes possibles)だと論じた。ヴォルテールは『カンディード』(1759年)でこの楽観主義を笑い飛ばした。最善の世界でこの惨状か、と。
デイヴィッド・ルイスは『可能世界の複数性について(On the Plurality of Worlds)』(1986年)で、可能世界は比喩でも思考実験でもなく、文字通り実在すると主張した。様相実在論(modal realism)と呼ばれるこの立場によれば、選ばなかった人生はどこか別の世界で実際に生きられている。慰めになるかどうかは知らない。
キェルケゴールは『不安の概念(Begrebet Angest)』(1844年)で、不安(Angest)の根源を自由に見た。選択肢があること自体が不安を生む。何かを選ぶ瞬間、他のすべての可能性が閉じる。選択は可能性の死だ。
バリー・シュワルツは『選択のパラドックス(The Paradox of Choice)』(2004年)で、選択肢の増加が幸福度の低下を招くことを示した。選ばなかった選択肢が多いほど、選んだものへの満足は薄れる。もっといい道があったかもしれない。この「かもしれない」が、現実を静かに蝕む。
人生は、無数の可能性をひとつずつ閉じていく過程にすぎない。選ぶとは、それ以外のすべてを殺すことだ。そして閉じた可能性は「「いつか」は来ない」まま、静かに腐る。
今の自分が「本当の自分」だという確信は、いつ訪れるのか。それとも、永遠に訪れないのか。
もう読まない本
本棚に、読んでいない本が並んでいる。いつか読む。そう思って買った。でも「いつか」は来ない。
ウンベルト・エーコは約3万冊の蔵書を持ち、その多くを未読のまま保管していた。ナシーム・ニコラス・タレブは『ブラック・スワン(The Black Swan)』(2007年)のなかでこの逸話に触れ、読んでいない本の集合を「反蔵書(antilibrary)」と呼んだ。重要なのは読んだ本ではなく、読んでいない本のほうだ。未読の本は自分の無知の輪郭を描き出す。知れば知るほど、輪郭は広がる。
ベンヤミンは「蔵書の荷解き(Ich packe meine Bibliothek aus)」(1931年)のなかで、蒐集について書いた。蒐集家にとって、本は読むためだけのものではない。棚に並んでいること、所有していること自体に意味がある。未読であっても、そこに在るだけで何かが成立している。
消費社会のなかで、人はモノそのものではなく、モノが約束する可能性を買っている。ジムの会員証は健康になれるかもしれない可能性だし、未読の本は、読んだら少し変われるかもしれない自分の象徴だ。可能性を手元に置いておくこと自体が、一種の希望になる。あるいは、希望の模造品になる。
日本語には「積読(つんどく)」という言葉がある。怠惰ではない。知的欲求と有限な時間の、構造的に避けようのない衝突を、たった一語で表現している。
人生は、経験しなかったもので溢れている。行かなかった場所、会わなかった人、見なかった映画、読まなかった本。「しなかったこと」は「したこと」を常に上回る。
やりたいことを全部やる時間がないとわかっていて、それでもやりたいことを増やし続ける。それは希望なのか、それとも絶望から目を逸らすための仕掛けなのか。なにしろ、与えられた時間は「4000週間の暇つぶし」にすぎないのだから。
何も解決しなかった
答えは、ひとつも出なかった。
最初から知っていた。考えても何も変わらない。問いを立てたところで、世界は1ミリも動かない。明日もアラームは鳴るし、既読はつくし、本棚の本は読まれないまま並んでいる。
でも、問いだけは消えない。
それが人間の、たぶん、いちばんたちの悪い特徴だ。