星だけが増えていく沈黙の宇宙

1950年、ロスアラモスの食堂。物理学者エンリコ・フェルミが同僚たちの雑談に割って入った。

"Where is everybody?"

みんなはどこにいるんだ。76年が経った。返事は来ていない。

宇宙には観測可能な範囲だけでおよそ2兆の銀河がある。天の川銀河だけで数千億の恒星がひしめき、そのうち相当数が居住可能領域に惑星を持つ。確率的に考えれば、どこかに知的生命がいてもおかしくない。いてもおかしくないどころか、いないほうが不自然に見える。

なのに、何も見つからない。信号も、痕跡も、残骸すらない。

科学者たちはこの矛盾をフェルミのパラドックスと名づけた。だが、矛盾しているのは宇宙のほうだろうか。それとも「いるはずだ」と期待してしまう、こちらの推論のほうだろうか。

食堂で生まれた問い

フェルミの問いが厄介なのは、それが直感的に正しく聞こえるからだ。

宇宙は約138億年前に始まった。地球は約46億年前に形成され、生命は少なくとも38億年前には出現していたとされる。宇宙の年齢からすれば、地球の生命はかなり早い段階で生まれたことになる。ならば、地球より数十億年早くできた惑星で、もっと早くに知的生命が発生していてもおかしくないのではないか。

仮に、ある文明が地球より100万年早く技術を発展させたとする。宇宙的スケールでは誤差のような時間だ。その文明が光速の1%の速度でも銀河を横断できたなら、数百万年で天の川銀河全体に広がれる計算になる。銀河の年齢は約130億年。広がる時間は十分すぎるほどあった。

にもかかわらず、何の痕跡もない。フェルミはこの不在を指して「どこにいるんだ」と問うた。冗談めかした口調だったかもしれない。しかし、この問いは科学の範囲を超えて、ある構造的な不安を露呈させる。「合理的に期待できるものが現実には存在しない」という事態は、宇宙人に限った話ではないからだ。

努力すれば報われるはずなのに、報われない。人は理解し合えるはずなのに、孤独は治らない。期待の根拠が確率的に正しかろうと、現実がそれに従う保証はどこにもない。

希望の掛け算

フェルミのパラドックスに先立って、1961年に天文学者フランク・ドレイクが一つの方程式を提案している。ドレイク方程式と呼ばれるその式は、銀河系内で人類が交信可能な文明の数Nを推定しようとするものだった。

式の骨格はこうだ。恒星の生成率、惑星を持つ恒星の割合、生命が発生する確率、知的生命に進化する確率、通信技術を開発する確率、そしてその文明が存続する期間。これらのパラメータを掛け合わせれば、理論上は銀河系内の文明数が算出できる。

問題は、ほとんどのパラメータの値がわからないことだ。恒星の生成率や惑星の存在率は天文観測によってある程度の推定が可能になった。しかし「生命が発生する確率」から先は、サンプルが地球一つしかない。サンプルサイズ1で確率を語ること自体が、統計的にはほとんど意味をなさない。

各パラメータの不確実性は掛け算によって増幅される。楽観的な仮定を置けば数千の文明が算出されるし、悲観的な仮定を置けば人類が銀河で唯一の知的生命だという結論にもなる。オックスフォード大学の研究者サンドバーグらが2018年に行った分析では、パラメータの不確実性を真面目に考慮すると「観測可能な宇宙に人類しかいない」確率が決して無視できないことが示された。つまり、ドレイク方程式はほとんど何も教えてくれない。

何も確かではない

しかも、この方程式が科学的に見えてしまうところがまた厄介だ。変数と掛け算という形式を与えられただけで、人はそこに精密さの幻影を見る。根拠の薄い推定を「方程式」と呼ぶことで、無知が知のような顔をし始める。ドレイク方程式は、科学というより、知りたいという欲望の可視化なのかもしれない。宇宙に仲間がいてほしいという祈りを、数式という形式に翻訳しただけなのかもしれない。

不在の重さ

宇宙人が見つからない。この事実の解釈は一通りではない。

第一に、本当にいないのかもしれない。知的生命は地球にしか発生しなかったか、発生してもすぐに滅んだ。宇宙は広大だが、生命が生まれて知性に至る条件はそれ以上に厳しく、人類はたまたま通過した奇跡的な例外にすぎない。

第二に、いるが沈黙しているのかもしれない。劉慈欣のSF小説『三体』が描いた「暗黒森林理論」は、この立場を極限まで推し進める。宇宙は暗い森であり、すべての文明は武装した狩人だ。自分の存在を知られることは、即座に殲滅されるリスクを意味する。だから誰もが黙っている。この仮説の不気味さは、沈黙が無関心の証拠ではなく、恐怖の証拠であるという反転にある。

第三に、信号を出しているが人類がそれを検出できないのかもしれない。人間が電波で宇宙を組織的に探し始めたのは1960年代のことだ。宇宙の歴史から見れば、まばたきの一瞬にも満たない。しかも人間は電磁波という特定の媒体でしか探していない。仮にまったく異なる原理で通信が行われていたら、人類にはそもそもそれを認識する手段がない。

ここに、哲学的に重要な区別がある。「不在の証拠」と「証拠の不在」は同じではない。宇宙人が見つからないことは、宇宙人がいないことの証明にはならない。だが同時に、いないことを証明する手段もまた存在しない。反証不可能な問いの前で、人間は立ち尽くすしかない。

この構造は日常にも繰り返し現れる。反対意見がないことは同意を意味しない。沈黙は了承かもしれないし、無関心かもしれないし、絶望かもしれないし、あるいは、ただ言葉を持たないだけかもしれない。

通過できなかった壁

経済学者ロビン・ハンソンは1998年に「大フィルター」という概念を提唱した。

考え方はこうだ。惑星の形成から宇宙へ進出する文明の出現まで、いくつもの段階がある。無機物から有機物への化学進化、自己複製する分子の出現、単細胞から多細胞への移行、神経系の発達、知能の出現、道具の使用、技術文明の構築。これらの段階のどこかに、ほぼすべての文明が通過できない壁がある。だから銀河は静かなのだ。

問題は、その壁がどこにあるのかわからないことだ。

壁が過去にあったのなら、人類は幸運にもそれを通過済みということになる。単細胞から多細胞生物への進化、あるいは真核細胞の出現そのものが、ほとんどの惑星では起こり得ないほど稀な出来事だったのかもしれない。この解釈は人類の存在を「奇跡」として位置づける。ひとまず安心できそうな話ではある。

しかし、壁が未来にあるとしたら。

知的文明は、必ずどこかの段階で自滅する。核戦争、気候変動、制御不能な技術、あるいは人間にはまだ想像もつかない何かによって。宇宙が静かなのは、どの文明もある段階で消えてしまったからだ。そしてその運命は、人類にも待っている。

哲学者ニック・ボストロムはこの不確実性そのものに注目した。仮に火星で微生物の痕跡が見つかったとしたら、それは人類にとって実はよい知らせではないかもしれない、と。なぜなら、生命の発生が宇宙で珍しくないとすれば、大フィルターが生命の誕生以降のどこかにある可能性が高くなる。つまり、フィルターは人類の過去ではなく、人類の先にある。希望的な発見が絶望的な含意を持つという反転。知れば知るほど状況が悪くなるという、認識論的な罠。

どうせ死ぬ。個人の有限性は、ある程度は受け入れられる。だが、種全体の有限性を受け入れることは、もう一段違う重さを持つ。自分が死ぬことと、自分たちが丸ごと消えることのあいだには、埋められない溝がある。

無限の空間の永遠の沈黙

パスカルは『パンセ』にこう書いた。

この無限の空間の永遠の沈黙が私を恐怖させる。

17世紀の思想家がすでに感じ取っていたものを、現代の天文学は精密な数値で裏づけた。観測可能な宇宙の直径は約930億光年。そのなかに数兆の銀河があり、一つ一つの銀河に数千億の恒星がある。そして、そこから届くのは沈黙だけだ。

1兆の夜明けを数えた星は、その一回一回の夜明けに、誰にも応えていなかった。SETI(地球外知的生命体探査)は60年以上にわたって宇宙に耳を澄ませてきた。1977年、オハイオ州立大学の電波望遠鏡が72秒間の強い信号を捉えた。研究者がプリントアウトの余白に "Wow!" と走り書きしたことから「ワオ!シグナル」と呼ばれるその信号は、二度と繰り返されなかった。一度だけ何かが聞こえて、それきり。

もっと身近なスケールでも、同じ構造は再現される。SNSに投稿して反応を待つ。理論的にはフォロワーの目に触れているはずなのに、何も返ってこない。リーチはしている。でも応答がない。ミクロなフェルミのパラドックスだ。

人間は偶然にここにいる。宇宙138億年のうちのほんの一瞬、銀河の辺縁の小さな惑星の表面に。この偶然性が意味するのは、人類が宇宙にとって特別な存在ではないということだ。しかし同時に、特別でないからこそ他にも誰かがいるはずだという推論も成り立つ。その推論が裏切られたとき、人は二重の孤独に放り出される。特別でもなく、仲間もいない。

パスカルの恐怖は、空間の広さに対する恐怖であると同時に、そこに意味を見出せないことへの恐怖だった。宇宙が有限であれ無限であれ、そこに目的や意図が読み取れない以上、人間の存在は宙吊りのままだ。パスカル自身はこの不安を信仰によって引き受けようとした。だが信仰を持たない者の前では、宇宙の沈黙はさらに容赦がない。

暗闇の中で、それでも誰かの存在を信じようとすること。他者の心が本当に存在するかどうかすら確証がないのに、人は手を伸ばす。宇宙に対しても同じことをしているのかもしれない。誰もいないかもしれない虚空に向かって、電波を送り続けている。


フェルミの問いに答えはない。

あるのは沈黙と、その沈黙を埋めようとする人間の衝動だけだ。ドレイク方程式は祈りを数式に翻訳し、SETIは耳を澄ませ続け、大フィルター仮説は最悪の可能性を理論化した。だが、どれだけ問いを精緻にしても、宇宙は何も返さない。

もしかすると、問い自体が間違っているのかもしれない。「みんなはどこにいるんだ」ではなく、問うべきは「なぜ誰かがいると思ったのか」だったのかもしれない。あるいは、もっと手前。「なぜ自分がここにいるのか」。

だがその問いにも、答えは来ない。時計が止まっても何も変わらない。宇宙は今夜も黙っている。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu