それでも明日の朝また幸せを冀う
幸福になりたい。たぶん、地球上のほぼすべての人間がそう思っている。少なくとも、そう思っていると思っている。
「幸福とは何か」と聞き返されると、言葉が詰まる。定義できないものを人生の目的に据えて、その達成に日々を費やしている。定義のないゴールに向かって走る競技を、ふつうは徒労と呼ぶ。
それでも走ることをやめられない。やめたら何が残るのかを知るのが怖いから。あるいは、走ること以外にやることがないから。
幸福を売る装置
1974年、哲学者ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、ある思考実験を提示した。脳に電極をつなぎ、あらゆる望みどおりの経験を完璧にシミュレーションする機械がある。傑作小説を書き上げる体験。深い友情を築く体験。あなたが望むものは何でも、主観的にはまったく本物と区別がつかない形で体験できる。一生この機械に接続するか、それとも現実に留まるか。
ノージックの直感、そしておそらく多くの人の直感は「接続しない」だった。
奇妙な話だ。幸福が人生の目的なら、完璧な幸福を保証する装置を拒む理由がない。にもかかわらず、多くの人が拒む。シミュレーションの中でどれほど幸せでも、それは「本当の」経験ではないと。
しかし「本当の経験」とは何なのか。機械の中の自分は、自分が機械の中にいることを知らない。主観的にはすべてが本物だ。それでも拒むなら、人は幸福そのものではなく、幸福の出どころを気にしていることになる。
幸福であるだけでは、足りないらしい。その時点で「幸福が人生の目的だ」という命題は、すでにどこか壊れている。(幸福の前提を別の角度から崩したのが「あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだった」だ。)
選べるという病
2000年、心理学者シーナ・アイエンガーとマーク・レッパーが発表した実験がある。スーパーマーケットの試食コーナーに、ある日は6種類のジャムを、別の日は24種類のジャムを並べた。24種類のほうが人は足を止めたが、実際に購入した割合は6種類のほうが圧倒的に高かった。
選択肢が増えると、人は選べなくなる。
バリー・シュワルツは2004年の著書『選択のパラドックス』で、この種の現象をより広い射程で描いた。選択肢の増加は期待値を引き上げ、「もっと良い選択があったかもしれない」という機会費用の感覚を膨張させ、どの選択にも満足できなくなる構造を生む。
自由が増えるほど幸福になる。現代社会はその信仰の上に建っている。だが、選択肢が3つしかなかった時代の人間のほうが、自分の選んだものに満足していた可能性は十分にある。
Netflixを開いて30分迷い、結局何も観ずに閉じたことがある人なら、この構造を身体で知っている。(選択肢に囲まれた息苦しさについては「鎖のない牢獄」でも書いた。)
義務になった幸福
もうひとつ厄介な層がある。
SNSを流れてくるのは、慎重に編集された他人の幸福だ。旅行先の写真、成功の報告、充実した日常。それらを浴び続けるうちに、自分も幸福であるべきだという圧力が、音もなく積もっていく。
「幸せにならなきゃ」という思考は、一見すると前向きに聞こえる。しかしその裏側には「今の自分は幸せではない」という前提が貼りついている。幸福を義務にした瞬間、幸福でない状態は怠慢か、無能か、あるいは故障になる。
幸福の追求が、幸福でない自分を罰する装置に変わる。しかも追いついた瞬間に幸福は蒸発する。
これは個人の弱さではなく、構造の問題だ。幸福を商品のように並べ、選び取るべきものとして提示する社会のなかで、「選ばない」という選択肢は棚に置かれていない。
自由のめまい
1844年、キルケゴールは仮名ヴィギリウス・ハウフニエンシスの名で『不安の概念』を著し、こう書いた。不安とは自由のめまいである、と。
選べるということは、選ばなければならないということだ。選んだ瞬間、選ばなかったすべての可能性が消える。何者にもなれる自由は、まだ何者にもなっていないという不安と表裏一体だ。
キルケゴールの時代に比べれば、現代人の手元にある選択肢は桁違いに多い。住む場所、職業、生き方、信仰すら選べる。そのすべてにおいて「正しい選択」をしなければならないという感覚が、めまいを加速させている。
幸福のために選べ、と世界は言う。しかし選ぶたびに、捨てた可能性が背後に積み上がる。選択の数だけ後悔の種が増える。後悔を避けるために選択を先延ばしにする。先延ばしにしている間にも、時間だけが黙って過ぎていく。
自由は、とても長い拘束に似ている。(選択と後悔の構造については「どう選んでも間違う」でさらに掘り下げた。)
離せない手
仏教の第二聖諦は、苦の原因を渇愛に求める。欲しいものへの執着。失いたくないものへの執着。ある状態であり続けたいという執着。
幸福への執着もまた、苦を生む。
ここで思考が奇妙な場所にたどり着く。幸福になりたいと願うことそのものが、幸福を遠ざける原因になりうる。渇望が苦を生む構造のなかで、幸福を渇望することは、苦を自ら招き寄せる行為に等しい。(この「求めること自体が苦を生む」という構造は幸福に限らない。意味もまた同じ病を患っている。)
では求めなければいいのか。しかし「幸福を求めない」ことを意図的に行った時点で、それは「幸福を求めないこと」への執着になる。どこまで手を開いても、何かを握っている。
手を離せ、と言われる。しかし手を離そうとする動作そのものが、まだ手を使っている。(苦しみに意味を見出す試みの危うさについては「苦しみは何も教えない」で書いた。)
売り切れた商品
ここまで来て、振り返る。
ノージックの機械は、幸福の中身が空洞かもしれないことを暴いた。アイエンガーとレッパーの実験は、選べることが選べないことを生む構造を示した。シュワルツは、自由が満足を蝕む過程を描いた。キルケゴールは、選択の自由そのものが不安の根であることを見抜いた。仏教は、求めること自体が苦の原因だと説いた。
どの方向から照らしても、幸福の追求は幸福にたどり着かない。追いかければ逃げ、掴めば崩れ、手を離せば離したことに執着する。何度押し上げても岩はまた転がり落ちる。
それでも明日の朝、あなたはたぶん「幸福になりたい」と思いながら目を覚ます。それは意志ではない。発作のようなものだ。そしてその発作が止まらない限り、この問いに出口はない。
もし今あなたが「でも、幸福を追い求めない生き方もあるのでは」と思ったのなら、それ自体がすでに幸福の追求の変奏であることに、いずれ気づく。考えなければよかったのに、もう手遅れだ。あるいは、気づかないまま生きていく。どちらにしても、あなたは楽にはならない。