講義室に降る小さな棘が論文になるまで

講義中、教授の話を聞いていて、ふと「あ、これ論文になりそうだ」と感じる瞬間がある。その感覚の正体は何か。

それは知識の蓄積から来るのではない。違和感から来る。

研究の種は違和感にある

研究は「たくさん知っているから始められる」のではない。「何かおかしい」「これは本当か」という違和感が、研究の出発点になる。

教授が「一般にXである」と言ったとき、「でも自分の経験ではYだったけど」と感じる。その瞬間、一般論と個別の経験の間にズレが生じている。このズレに気づけることが、研究の種を見つける力だ。

種が見つかる4つのパターン

違和感にはいくつかの典型的なパターンがある。

ズレ。 通説と自分の実感が合わない。教科書には「Aである」と書いてあるが、実際に観察するとAでないケースがある。このズレは「本当にAなのか。どういう条件ではAが成り立たないのか」という問いになる。

例外。 一般論に当てはまらないケースが見つかる。理論が「すべてのBはCである」と主張しているとき、CでないBを一つ見つければ、理論の修正が必要になる。例外は理論の弱点を示す。

矛盾。 AもBも正しいように見えるが、AとBが両立しない。たとえば「自由は望ましい」と「秩序は必要だ」は、どちらも直感的に正しいが、自由を最大化すれば秩序は崩れうる。この種の矛盾は、二つの概念の関係を掘り下げる問いにつながる。決断できない状態の構造にも通じるが、矛盾は思考停止の原因ではなく、思考の起動スイッチになる。

未定義。 みんなが使っているのに、正確に定義されていない概念がある。「主体性」「コミュニケーション力」「教養」。これらの言葉は、定義が曖昧なまま議論に使われている。定義の不在を指摘し、自分なりの定義を提案することは、それだけで一本の論文になりうる。誰も学びを測れないで書いた「学び」という概念も、まさにこの未定義の典型だ。

ネタ帳を作る

違和感は、記録しなければ消える。講義が終わって食堂に行き、午後の授業を受けているうちに、朝のあの違和感は跡形もなくなる。

だから、ネタ帳が必要だ。形式はシンプルでいい。5項目を書き留めるだけでいい。

  • 日付: いつ感じたか
  • 授業名: どの講義で感じたか
  • 発言の要約: 何がきっかけだったか
  • 自分の違和感: 何が引っかかったか
  • 仮の問い: もし研究にするなら、どう問うか

精密である必要はない。「何かおかしい」を忘れないための記録だ。

たとえばこうなる。

  • 日付: 4月15日
  • 授業名: 社会学概論
  • 発言の要約: 「近代化とともに共同体は解体された」
  • 自分の違和感: SNSのコミュニティは共同体ではないのか。解体されたのではなく形を変えただけでは
  • 仮の問い: オンラインコミュニティは近代以前の共同体とどこが同じでどこが違うか

違和感の記録が持つ実用的な価値

ネタ帳は、直接的に3つの場面で役立つ。

レポートのテーマ探し。 毎学期、レポートのテーマに悩む学生は多い。ネタ帳があれば、そこから選ぶだけだ。大学生、初めてのレポートで書いたように、レポートの最初の壁は「何を書くか」であり、ネタ帳はその壁を事前に低くしてくれる。

卒論の方向性決め。 3年生、4年生になって急に卒論のテーマを探し始めるのは遅い。1年生からネタ帳をつけていれば、数十の「仮の問い」がストックされている。そこから卒論の方向性を絞り込む方が、ゼロから考えるよりはるかに楽だ。大学の専攻というかゼミの選び方でも書いたが、ゼミや専攻を選ぶときにも、自分の興味の方向性が可視化されていると判断がしやすくなる。

知的好奇心の維持。 大学にいると、授業が「単位のための作業」になりやすい。授業の空きコマはなぜ無に溶けるのかにも書いたが、時間はあっても使い方を間違えると何も残らない。ネタ帳は、知的好奇心を「形に残す」習慣だ。

「セレンディピティ」ではなく「構造化された偶然」

偶然いいテーマが見つかることはある。だが、偶然に頼っていては再現性がない。

ネタ帳は、偶然を構造化する仕組みだ。講義を聞く、違和感を記録する、問いに変換する。この習慣があれば、「いいテーマが降ってくる」のを待たずに済む。研究者がテーマを見つけるプロセスも、多くの場合このパターンに沿っている。ひらめきのように見えるものの裏には、日常的な違和感の蓄積がある。

まとめ

研究の種は、知識の蓄積からではなく、違和感から生まれる。ズレ、例外、矛盾、未定義。この4つのパターンを意識して講義を聞くだけで、研究の種に気づく確率が上がる。気づいたら、ネタ帳に5項目を書き留める。それだけで、レポートや卒論のテーマ探しは格段に楽になる。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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