波の上で誰を見捨てるか選ぶ

あなたは今、ボートの上にいる。海にはまだ人がいる。手を伸ばせば届く。でも、伸ばした瞬間にボートが傾いて、あなたも沈む。だから手を引っ込める。そしてその夜、ぐっすり眠る。

これは比喩ではない。あなたの今日そのものだ。

ボートの定員

1974年、生態学者ギャレット・ハーディンはPsychology Today誌にひとつの論考を発表した。「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor」。

比喩はこうだ。定員50人の救命ボートに、すでに50人が乗っている。余裕はあと10人分。海には100人が浮かんでいる。10人を選んで乗せるか。全員を乗せようとしてボートごと沈むか。誰も乗せないか。

ハーディンの答えは明快だった。誰も乗せるな。

ボートの定員は物理的制約であり、善意では拡張できない。全員を救おうとすれば全員が死ぬ。この残酷な算術は、道徳とは無関係に成立する。ハーディンにとって、これは冷酷な主張ではなく、現実の記述だった。

少なくとも、彼はそう信じていた。

共有される海、排他されるボート

ハーディンにはもうひとつの有名な論文がある。1968年の「The Tragedy of the Commons」。共有地の悲劇。

共有地は、全員がアクセスできるがゆえに崩壊する資源の物語だ。牧草地を全員が使えば、牧草は枯れる。誰かが制限しなければ、資源は消滅する。各人が合理的に行動した結果、全体が崩壊する。個人の合理性と集団の合理性が一致しないという、身もふたもない構造。

救命ボートはその裏返しにあたる。共有地が「開かれているから壊れる」のだとすれば、ボートは「閉じているから保たれる」。どちらも同じ前提に立っている。資源は有限であり、善意はその有限性を無効にできない。

この前提を否定できる人間は、おそらくいない。否定したいと思う人間は、たくさんいるだろうけれど。

トリアージという名の選別

災害医療にはトリアージという仕組みがある。患者を赤(重症だが救命可能)、黄(中等症)、緑(軽症)、黒(救命不可能)に分類し、限られた医療資源を配分する。

黒タグをつけるということは、この人は助けないと宣言することだ。目の前で息をしている人間に、助けないと決めること。その判断は、「助かる見込み」という一応の客観的基準に支えられている。一応の、と言うしかないのだけれど。基準があることと、その基準が正しいこととは、まったく別の問題だから。

救命ボートの倫理もまた選別を要求する。しかしトリアージと決定的に異なるのは、ボートの乗客を選ぶ基準がどこにも存在しないことだ。国籍か。年齢か。将来の生産性か。先に手を挙げた順番か。どれを選んでも、その基準自体が道徳的審判の対象になる。

何人殺せば正しくなるのかと問うたところで、「正しい数」が返ってくることは永遠にない。基準を作ること自体が、すでにひとつの暴力なのかもしれない。そして基準を作らないことも、また別の暴力だ。

善意の無限負債

ハーディンの論考の2年前、1972年にピーター・シンガーは「Famine, Affluence, and Morality」を発表している。

シンガーの論理はおそろしく単純だ。目の前で子どもが溺れていたら、あなたは助けるだろう。では、1万キロ先で子どもが飢えていたら。距離は道徳的に無関係だとシンガーは言う。助ける力があるのに助けないことは、距離にかかわらず道徳的な誤りだ、と。

この議論はハーディンへの反論として読める。ハーディンが「ボートの外には出るな」と言うのに対して、シンガーは「ボートの中にいながら手を伸ばせ」と言う。

しかしシンガーの論理をまじめに受け取ると、奇妙な帰結にたどり着く。あなたの生活が「ほぼ同等の道徳的重要性を持つ何かを犠牲にしない限り」助ける義務があるのだとすれば、あなたはほとんどすべてを差し出すまで義務から解放されない。善意は、返済不可能な負債になる。

あなたはもうボタンを押している。遠くの悲劇を「知らなかった」とは、もう言えない時代に私たちは生きている。インターネットがその言い訳を永久に封じてしまった。知っていながら何もしないことと、知らずに何もしないことの間に、道徳的な差はあるのだろうか。たぶんある。そして、たぶんその差は、あなたが思っているよりずっと小さい。

歴史が語った答え

1912年4月15日、タイタニック号が沈んだとき、救命ボートの座席数は乗客・乗員の約半数にしか満たなかった。

一等船客の生存率はおよそ62%。三等船客の生存率はおよそ25%。ボートに誰が乗るかは、道徳的な議論の末に決まったわけではなかった。社会構造がすでに決めていた。金を払った者が先に乗る。それだけのことだった。

配られたカードを見ろと言われても、カードを配ったのは誰なのか。そしてカードを配り直す権利は、誰が持っているのか。

ジョン・ロールズは「無知のヴェール」という思考実験を提案した。自分がボートの中にいるか外にいるかを知らない状態で、制度を設計せよ、と。合理的な人間なら、最も不利な立場の人間にとって最も有利な制度を選ぶはずだ、とロールズは考えた。

美しい理論だ。そして、ヴェールを脱いだ瞬間、人間は自分のカードを見て、それに見合った倫理を選び直す。誰も等しくなれない世界で選び続けることの困難は、思考実験では解消されない。思考実験の中でだけ公正でいられるなら、それは公正ではなく想像力の問題だ。

文字通りの比喩

ハーディンの比喩は比喩だった。少なくとも1974年には。

しかし今、それは文字通りの現実になりつつある。ツバルやキリバスといった太平洋の島嶼国は、海面上昇によって国土が水没しつつある。「海の中にいる人々」は、もはや修辞的存在ではない。

そして、その海面を上昇させた原因の大部分は、ボートの中にいる先進国の温室効果ガス排出にある。

ボートが沈む原因を作ったのがボートの中の人間だという構造は、ハーディンの想定にはなかった。彼の比喩では、ボートの中の人間には非がなかった。ボートの中にいるのは単に運がよかったからであり、海の中にいるのは単に運が悪かったからだった。

現実はもっと厄介だ。加害者と被害者が、同じ海に浮かんでいる。ボートの縁を握る手を振り払う権利が、ボートを傾けた側にあるのかどうか。

善も正義もない。あるのは、有限な資源と、それを公平に分け合う方法を持たない人間だけだ。

見捨てることの技術

合格ラインの1点差で人生が変わる。避難所の定員を超えたとき、次の一人を受け入れるかどうかで空気が変わる。臓器移植の待機リストは、誰かの死を別の誰かの生に変換する装置だ。

線はどこにもなかった。にもかかわらず、線を引かなければ何も動かない。線を引いた瞬間、線のこちら側とあちら側に、まったく異なる運命が割り振られる。

ハーディンの比喩が不快なのは、それが間違っているからではない。おそらく、ある部分では正しいからだ。私たちは毎日、誰かを見捨てている。ただ、見捨てていることに気づかないような仕組みの中で生きているだけだ。

優しい人から壊れるのは、その仕組みの外に出てしまったからかもしれない。見捨てていることに気づき、気づいたことに耐えられなくなる。共感は、距離を消す代わりに、痛みを増幅する。

ボートの上で

救命ボートの定員は変わらない。海の水位は上がり続ける。

あなたはボートの上で、オールを握ったまま、何もしない。それが最も合理的な選択だと、誰かが論文で証明してくれたから。

でも合理性は、濡れた手が縁をつかんだときの音を、消してはくれない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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