思いに耽る

深夜2時にタイムラインを眺めている。誰かが焼いたパンの写真。誰かが訪れた異国の街角。誰かが手に入れた、自分の手には届かない何か。

スクロールする指は止まらない。止める理由がないのか、止められないのか。その区別がつかないまま、夜は更けていく。

ここに書くのは、答えの出ない問いばかりだ。解決する気もない。ただ、こういうことを考えはじめると眠れなくなる種類の問いを並べただけの文章だ。読んでも何ひとつ得られない。それでも読むなら、たぶんあなたも、夜中に天井を見つめながら同じようなことを考えたことがある人なのだろう。


誰かの人生を眺めている

あなたが今日いちばん長く見つめたのは、たぶん自分の人生ではない。

タイムラインには他人の生活が絶え間なく流れてくる。丁寧に盛りつけられた朝食、完璧に切り取られた旅先の風景、充実した日常を演出するキャプション。それらを眺めるたびに胸のどこかがざわつく。うらやましい、と思う。なんてきらびやかなのだろうと思う。でもよく考えると、うらやましいのはあの料理でもあの景色でもない。あの人が「満たされている」ように見えること、それそのものがうらやましいのだ。

ルネ・ジラールは『欲望の現象学』(1961年)で、人間の欲望の本質的な構造を指摘した。私たちは対象を直接に欲するのではなく、他者がそれを欲しているから欲する。欲望は模倣される。ジラールはこれを「模倣欲望」(mimetic desire)と呼んだ。私たちが何かを「欲しい」と感じるとき、その感情は自分の内側から湧き上がったのではなく、誰かの欲望を無意識に写し取っている可能性がある。そうだとすれば、あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだったのかもしれない。

だとすれば、SNSはその模倣の装置として、人類史上もっとも効率的なものかもしれない。ギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会』(1967年)で、近代社会においては「かつて直接に生きられていたものがすべて表象へと遠ざかった」と書いた。写真を撮り、フィルターをかけ、キャプションを添えて投稿する。その瞬間、生活は「生きられるもの」から「見られるもの」に変質する。

プラトンが『国家』第7巻で描いた洞窟の比喩では、囚人たちは壁に映る影を実在だと信じて暮らしている。でもSNSの場合、事態はもう少し複雑だ。影を映している側もまた、別の影を見ながら自分の影を作っている。ボードリヤールの言い方を借りるなら、もはやオリジナルのないコピーが現実を覆っている。加工された写真が現実よりリアルに見え、やがて現実のほうが加工に合わせて修正される。

ジラールが興味深いのは、模倣欲望がやがて暴力や排除を生む仕組みまで射程に入れていることだ。羨望は嫉妬になり、嫉妬は敵意に変わる。タイムラインの炎上もまた、模倣欲望のひとつの帰結なのかもしれない。

羨望とは、結局のところ何を見ているのだろう。あの人の人生なのか。それとも、あの人の人生を外から見ている自分の視点のほうなのか。フィルター越しの他人は美しく、フィルター越しの自分はどこか嘘くさい。どちらのフィルターも同じアプリで作られているのに。


選んでいない

今朝コーヒーを飲むことにした。紅茶でもよかったのに、コーヒーを選んだ。自分で決めた、と思っている。

しかし本当に「選んだ」のだろうか。

ベンジャミン・リベットの実験(1983年)は、この素朴な確信を根底から揺さぶった。被験者が「今、動かそう」と意識的に決断したと報告するより数百ミリ秒も前に、脳ではすでに運動の準備が始まっていた。つまり、「選んだ」と感じるよりも先に、脳はすでに動き始めている。意識的な決定は、すでに起きたことへの事後承認にすぎないのかもしれない。もっとも、この解釈は今も論争が続いている。2012年にアーロン・シュルガーらは、リベットが発見した準備電位は意図の反映ではなく、ニューロンのランダムなゆらぎが閾値を超えたものにすぎない可能性を示した。結論は出ていない。ただ、「自分で決めた」という確信がそのまま信じていいものではないという疑念だけが残った。もしかしたら、誰も何も選んでいないのかもしれない。

スピノザはずっと前にこのことを言い当てていた。『エチカ』(1677年)の中で、人間が自分は自由だと信じるのは、自分の欲望を意識しつつも、その欲望を決定している原因については無知だからにすぎないと述べている。自由は錯覚であり、その正体は無知だ、と。

ショーペンハウアーも似たことを書いている。懸賞論文『意志の自由について』(1839年)の有名な一節。「人は自分の欲することをなしうる。しかし自分が何を欲するかを欲することはできない」。行為の自由はある。でも意志そのものの自由はない。コーヒーを「選ぶ」ことはできる。でも「コーヒーを飲みたい」と感じること自体は、選べない。

もう少し穏やかな立場もある。ハリー・フランクファートは「意志の自由と人の概念」(1971年)で、自由を「二階の欲求」という概念で捉え直した。コーヒーを飲みたいと思う。そしてコーヒーを飲みたいと思っている自分でありたいと思う。この二つが一致しているなら、たとえ欲求そのものが因果的に決定されていても、それは「自由」と呼んでいいのではないか、と。ダーク・ペレブームのような厳格な立場からすれば、この妥協案すら成立しない。自由意志は、どう定義し直しても幻想だ、と。もしそうなら、誰のせいでもない。罪も功績も。

決めた、と思う。でもその「決めた」を誰が決めたのか。その問いの先には底がない。


意味がない、だから

誰もが意味を求めている。でも意味のほうは、誰のことも探していない。もしかすると、それはもう意味という病と呼ぶべきものなのかもしれない。

ニーチェが「神は死んだ」と書いたのは『悦ばしき知識』の第125節(1882年)でのことだ。だがこの一文は、しばしば誤解される。ニーチェは無神論を高らかに宣言したわけではない。これは診断だった。ヨーロッパの文明が長い間その上に立っていた形而上学的な足場が崩壊した、というほとんど恐怖に近い認識だ。そしてニーチェ自身、その崩壊のあとに何が来るのかを、はっきりとは見通せていなかった。

カミュは『シーシュポスの神話』(1942年)でもう少し正面からこの問題に向き合った。あの有名な冒頭の一文。「真に重大な哲学の問題はひとつしかない。それは自殺である」。意味を求めずにはいられない人間と、どこまでも沈黙を返す世界。この両者の衝突をカミュは「不条理」(l'absurde)と呼んだ。そしてそこから導かれる応答は三つしかないとした。自ら命を絶つか、信仰に身を委ねるか(カミュはこれを「哲学的自殺」と呼んだ)、あるいは不条理を見つめたまま反抗し続けるか。

「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。この結語が美しいのは、そこに何の根拠もないからだ。幸福である、とは書いていない。想像しなければならない、と書いたのだ。岩はまた転がり落ちることを知りながら、それでも押し上げる行為のなかにだけ、何かが宿る。

トマス・ネーゲルは「不条理」(1971年)でさらに冷静な分析を加えた。不条理とは、人生を真剣に生きずにはいられないという私たちの性質と、一歩引いてみればその真剣さに何の根拠もないと気づいてしまう知的能力との、内的な衝突だ。ネーゲルによれば、この衝突に絶望する必要はない。不条理に対する適切な反応はアイロニーだ、と。

でもアイロニーで朝のコーヒーが美味しくなるかどうかは、また別の問題だ。


自分が自分である理由なんてない

よく言われる話がある。人体の細胞は数年でほぼすべて入れ替わる、と。厳密にはこの「数年」はかなりの単純化で、細胞の寿命は種類によってまるで違う。腸の上皮細胞は数日で入れ替わるが、赤血球は約120日、骨格の細胞は約10年。そして大脳皮質のニューロンの多くは一生を通じて置き換わらない。

しかし問いの核心は数字にはない。物質的に変化し続けている存在が、なぜ「同じ私」であり続けるのか。あるいは、本当に「同じ」なのか。

ジョン・ロックは『人間知性論』(1689年)の中で、人格の同一性は身体にではなく意識の連続性に、とりわけ記憶にあると論じた。昨日のことを覚えている限り、昨日の私と今日の私は同一人物である。明快で、直感にもかなう。でもデイヴィッド・ヒュームはその前提を疑った。『人間本性論』(1739年)で、自己を内省してみても見つかるのは個々の知覚の束だけであり、それらを統合する不変の「自己」は、どれだけ探しても見当たらないと主張した。

デレク・パーフィットは『理由と人格』(1984年)でこの議論をさらに推し進めた。パーフィットの有名な思考実験がある。テレポーテーション装置があなたの身体を完全にスキャンし、原子レベルで分解し、別の場所でまったく同じ構成を再現する。到着した人間はあなたのすべての記憶を持ち、あなたと同じ性格で、あなたと同じように考える。この人は「あなた」か。パーフィットの答えは、問い自体が間違っている、というものだ。重要なのは「同一人物かどうか」ではなく、心理的な連続性があるかどうかだ。そして心理的連続性は、程度の問題にすぎない。どこが私で、どこからが私でないのか。その境界線は、引こうとした瞬間に消える。

テセウスの船。プルタルコスが伝えるこの古い問いも、まったく同じ不安を突いている。部品を一つずつ取り替えていった船は、最後に元の船と同じものか。取り外した古い部品で別の船を組み立てたら、どちらが「本物」なのか。

仏教の無我(anattā)の教えは、この問いに対してもっとも潔い答えを差し出す。恒常不変の自己など、そもそも存在しない。

10年前の自分を恥ずかしいと感じるとき、その恥ずかしさを感じている「この私」は、10年後にもう一度、今の自分を恥ずかしいと思うのだろうか。「自分探し」という言葉があるけれど、探しはじめる前に「自分」がなかったのだとしたら、いったい何を基準にして「見つけた」と判断するのだろう。


忘れるために覚えている

記憶に救われたことは誰にでもあるだろう。でも記憶に殺されかけた経験も、たぶん同じくらいある。

ニーチェは『道徳の系譜学』(1887年)の第二論文冒頭で、忘却について意外なことを書いた。忘れるとは、記憶が消えていく受動的な過程ではない。むしろ意識の門番のような能動的な抑止の力だ、と。すべてを覚えていたら、新しい経験を受け入れる余地がなくなる。健全に生きるとは、うまく忘れることだ。

ボルヘスの短編「記憶の人、フネス」(1942年)は、その忘却の力を失った男の物語だ。落馬事故のあとフネスはあらゆる知覚を完全に記憶するようになった。一日の記憶を頭の中で再生するのに、まるまる一日かかる。彼は一般概念を理解できなくなった。昨日の三時に斜めから見た犬と、今朝正面から見た犬はまったく別のものであり、「犬」という言葉はそれらを裏切る粗雑な抽象にすぎないからだ。完全な記憶は、思考を不可能にする。

現代の認知心理学は、記憶についてさらに不穏な事実を明かしている。記憶は想起されるたびに不安定な状態に戻り、そのときの文脈によって微妙に書き換えられた上で再び保存される。この過程は再固定化(reconsolidation)と呼ばれる。大切な思い出ほど頻繁に思い出され、頻繁に思い出されるほど現在の自分によって改変されている。もっとも鮮明に覚えていると信じている記憶が、もっとも原形をとどめていない可能性がある。何も確かではないのだ。記憶も、知識も、それらの上に建てた自分自身の物語も。

あなたの人生の物語は、あなたが書いたのだと思っているかもしれない。でもその物語は、思い出すたびに少しずつ書き換えられている。著者が誰なのかは、もう誰にも分からない。


もう遅い

昨日と今日の境目はどこにあるのだろう。日付が変わる瞬間は人間が勝手に決めた区切りだ。では「今」は。

アウグスティヌスは『告白』(397年頃)の第11巻で率直に嘆いた。「時間とは何か。誰も私に問わなければ、私は知っている。問われて説明しようとすると、私は知らない」。過去はもう存在しない。未来はまだ存在しない。現在は一瞬で過去になる。では時間とは、何が存在しているというのか。

J. M. E. マクタガートは「時間の非実在性」(1908年)で、時間に関する二つの見方を整理した。A系列は出来事を過去、現在、未来として捉える。B系列は出来事の「より早い」「より遅い」という関係として捉える。マクタガートの論証はこうだ。A系列は矛盾を含む。あらゆる出来事は過去でもあり、現在でもあり、未来でもあるが、これらの性質は同時には成り立たない。一方でB系列だけでは時間の本質的な流れを捉えられない。したがって時間は実在しない、と。この結論を100年以上にわたって哲学者たちが論じ続けているということ自体が、時間の奇妙さを物語っているように思える。

ベルクソンは別の角度から応答した。時計が刻む均質な時間は、時間を空間のように均等に並べた抽象にすぎない。本当の時間は「持続」(durée)であり、質的で不可分な流れそのものだ。退屈な一時間と夢中になった一時間は、同じ60分だが同じ体験ではない。時間は量ではなく質のうちにある。ベルクソンの純粋持続が指し示すのは、時計では測れない時間こそが、生きられた時間だということだ。

「もう遅い」と感じるとき、それは時間について何かを述べているのだろうか。それとも、自分自身について何かを認めているだけなのだろうか。


死ぬことについて何も知らない

死について語る人は多い。でも死を知っている人は、定義上、ひとりもいない。

エピクロスは「メノイケウス宛の手紙」でこう書いた。「死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれは存在しないからだ」。洗練された論証だ。私が存在する限り死は不在であり、死が現れた瞬間に私は不在になる。だから私と死は決して出会わない。恐れる理由がない。理屈の上では、あなたは死ねないのだ。

ルクレティウスは『事物の本性について』(紀元前1世紀)でさらに踏み込んだ。死後の非存在を恐れるなら、生まれる前の非存在も同じように恐れるべきではないか。しかし私たちは生まれる前のことなど一度も恐れたことがない。

だがトマス・ネーゲルは「死」(1970年)でこの対称性を崩した。死が悪いのは、死それ自体が何か苦痛をもたらすからではなく、生きていれば得られたはずの善いものを奪うから悪いのだ。これが剥奪説(deprivation account)と呼ばれる立場だ。そして生前の非存在と死後の非存在は、実は対称的ではない。もっと早く生まれることは不可能だったが、もっと遅く死ぬことは可能だった(かもしれない)。

ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、人間の存在を「死に向かう存在」(Sein-zum-Tode)として捉えた。死は人生の最後にだけ訪れるものではなく、つねに可能性として私たちの中にある。多くの人は日常の雑事に紛れてこの事実を忘却しているが、死の可能性を正面から引き受けることこそが、本来的な(eigentlich)実存の条件だとハイデガーは論じた。

どうせ死ぬのだとして、不死が実現したら人生はもっと意味のあるものになるだろうか。それとも、もっと退屈なものになるだろうか。「残された時間」という言い方があるけれど、考えてみれば最初から、すべての時間は「残された時間」だった。


美しいものは何も救わない

役に立たないものほど、なぜこんなに必要だと感じてしまうのだろう。

ドストエフスキーの『白痴』(1869年)に「美は世界を救う」という有名なフレーズがある。正確に言えば、登場人物イッポリート・テレンチェフが主人公ムイシュキン公爵に「あなたは本当にそう言ったのか」と問い詰める場面だ。公爵はまともに答えない。そして小説全体を通じて、善と美の化身であるはずのムイシュキンは、身近な人間を一人も救うことができない。

カントは『判断力批判』(1790年)で、美的判断の本質を「関心なき快」(interesseloses Wohlgefallen)と規定した。美しいと感じるとき、私たちはそれを手に入れたいとも、何かに役立てたいとも思っていない。美はいかなる目的にも仕えない。この無目的性こそが美の条件だ、と。

崇高はもう少し荒々しい経験だ。エドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源に関する哲学的探究』(1757年)で、崇高を安全な距離から感じる恐怖と結びつけた。嵐、断崖、深淵。圧倒されながらも破壊されない距離感が崇高を生む。カントはこれを発展させ、崇高の経験においては想像力が自然の圧倒的な力の前に挫折し、しかしまさにその挫折を通じて、感覚を超えた理性の力を自覚すると論じた。

ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』(1818年/1844年)で、美の中に束の間の救済を見た。美しいものに見入っているとき、際限のない欲望と苦痛のサイクルから一瞬だけ抜け出せる。ただしそれは一時的なものであり、やがて意志は再び動き始める。解放は、ほんの一瞬だ。

廃墟はなぜ美しいのだろう。壊れたものの中に不思議な調和を見出すことがある。美のどんな定義にも収まらない、破壊の中の静けさ。苦しみの真っ只中で美しいものに出会ったとき、それは苦しみを和らげるのか、それともかえってその鋭さを際立たせてしまうのか。


言葉にした瞬間に嘘になる

ここまで読んできた人は、ある不快な事実に気づいているかもしれない。ここに書かれていることはすべて言葉だ。そして言葉は、何かを語ると同時に、必ず何かを取りこぼしている。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(1921年)は、最後の命題でこう閉じられる。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(命題7)。しかしこの本自体が、語りえぬものについて何十ページも費やして語っている。壮大な自己矛盾か、意図された皮肉か。おそらくその両方だ。

後期の『哲学探究』(1953年)でヴィトゲンシュタインは前期の自分を批判し、言語をもっと生々しいものとして捉え直した。言語ゲーム(Sprachspiel)という概念がその核にある。言葉の意味は辞書に書いてあるのではなく、実際にどう使われるかによって決まる。「水!」という一語が、喉が渇いた人の叫びにも、火事場の指示にも、化学の授業の答えにもなる。

私的言語論(『哲学探究』第243節以降)はさらに深い場所を掘る。自分だけが感じている痛みや感覚に、自分だけの名前をつけることはできるか。ヴィトゲンシュタインの答えは否だ。規則に従う活動は本質的に公的なものであり、自分しかいない世界では「正しく従う」と「正しく従っていると思い込む」の区別がつかない。

デリダのdifférance(差延)は、意味の宙吊り状態を記述する。言葉はつねに他の言葉を参照し、意味はつねに先送りにされ、確定的に「ここにある」とは言えない。ソシュール(『一般言語学講義』、1916年出版)が明らかにしたように、記号の中で音声と概念の結びつきは自然なものではなく、社会の約束事にすぎない。言語の限界が世界の限界であるなら、世界はそこで終わっている

「言いたいことがうまく言えない」と感じるとき、それは語彙が足りないのだろうか。それとも「言いたいこと」がそもそも言語的なものではなかったのだろうか。人の言葉を「理解した」と思ったとき、理解したのは相手の意味なのか、自分の中に生まれた解釈なのか。

沈黙は、もしかすると、最も正直な発話なのかもしれない。


誰も見ていない世界

あなたが見ている赤と、隣の人が見ている赤は、同じ「赤」だろうか。

デイヴィッド・チャーマーズは1995年の論文「意識の問題に向き合う」で、この種の問いを「意識のハードプロブレム」と名づけた。脳がどのように視覚情報を処理するかは、原理的には神経科学で説明できる。しかし、なぜそこに「赤を見ている」という主観的な体験が伴うのかは、物理的な説明のどこにも現れない。すべての情報処理を暗闇の中で機械的にこなすことだって、物理的にはできるはずだ。それなのに、なぜ私たちには「見えている」という感覚があるのか。

トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」(1974年)で、意識の主観性を鮮やかに描き出した。コウモリは超音波のエコーロケーションで空間を知覚している。その知覚がコウモリにとって「どのようなもの」であるかを、私たちはどれだけ脳を調べても知ることができない。コウモリの神経構造を完璧に理解したとしても、「コウモリであること」がどんな体験であるかには、原理的にたどり着けない。

フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーの部屋」(1982年)はもっと端的だ。メアリーは色覚に関するあらゆる物理的・神経科学的知識を持つ科学者だが、生まれてからずっと白黒の部屋で過ごしてきた。彼女が初めて部屋の外に出て赤いトマトを見たとき、何か新しいことを学ぶのか。もし学ぶのだとすれば、物理的な知識はすべてではない。赤を知らないし、何もわからない。知識と経験のあいだには、超えられない溝がある。

チャーマーズの哲学的ゾンビもまた、同じ問題を別の角度から突く。あなたと原子レベルで完全に同一の存在を想像してほしい。見た目も行動も発言もまったく同じ。ただし内的な体験が一切ない。そういう存在が論理的に可能であるなら、意識は物理的なものとは別の何かだということになる。

夢の中の登場人物は意識を持っているだろうか。宇宙に意識ある存在がひとりもいなかったとしたら、宇宙は「存在している」と言えるだろうか。


正しさの気持ち悪さ

何かを「間違っている」と感じるとき、その感覚はどこから来るのだろう。

道徳実在論者は、善悪に関する客観的な事実があると主張する。殺人が悪いのは、ちょうど地球が丸いのと同じように、客観的な事実だ、と。しかしJ. L. マッキーは『倫理学 正と不正の発明』(1977年)でこれに正面から反論した。マッキーの誤謬理論(error theory)はこうだ。道徳的言明は客観的な道徳的性質の存在を前提としている。しかしそのような性質は世界のどこにも実在しない。よって、道徳的言明はすべて偽である。「殺人は悪い」という文は、殺人に客観的な悪さという性質が備わっていると主張しているが、そんな性質はこの世界に存在しない、と。

ヒュームは『人間本性論』(1739年)で、事実の記述から価値の判断を導出することはできないと指摘した。世界がどうであるか(is)から、世界がどうあるべきか(ought)は出てこない。これは「ヒュームのギロチン」とも呼ばれる。

ニーチェは『道徳の系譜学』(1887年)で道徳にメスを入れた。「善い」と「悪い」は人類が宇宙の中に発見した事実ではなく、歴史の中で発明された概念だ。ニーチェが貴族道徳と奴隷道徳と呼んだ対立の図式では、かつて力強さと高貴さを称える「主人道徳」があり、それに対して弱者が自らの弱さを正当化するために「奴隷道徳」を作り上げた。善悪の起源は道徳的なものではなく、権力関係の産物だ。

トロッコ問題。5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるか。この問いはフィリッパ・フットが1967年の論文で最初に定式化し、ジュディス・ジャーヴィス・トムソンが1985年に発展させたものだ。興味深いのは、ほとんどの人がこの問いに対して瞬時に直感的な答えを持つことだ。そして同じくらい興味深いのは、その直感をいざ理論的に正当化しようとすると、ほぼ全員がどこかで行き詰まることだ。何人殺せば正しくなるのか。この問いに数字で答えようとした瞬間に、道徳は何かを失う。

100年後の人間は、今の私たちの常識のいくつかを野蛮だとみなすだろう。ちょうど私たちが100年前の常識を野蛮だとみなすように。では、今の自分が「これは絶対に正しい」と信じている道徳的確信のうち、どれが未来の法廷で裁かれることになるのか。それを知る方法はない。


ここまで読んで何か分かったことがあるとすれば、何も分からなかったということくらいだろう。

これだけの言葉を費やして伝えられたのは、世界は見えている通りではないこと、自分は知っている通りの自分ではないこと、正しさは感じている通りに正しくはないこと。あるいはそのどれでもなくて、ただ夜が深いということだけかもしれない。

答えを出さなかったことを謝るつもりはない。答えがあると思って読んだのなら、それは期待のほうが間違っている。

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なにかをしよう!(何のために?)

人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。 献血にいこう 献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。 この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。 だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ち

By Sakashita Yasunobu

私という凡庸

あなたの代わりはいる。それも、かなりたくさん。人間にも機械にも。 これは侮辱ではない。観察だ。深い穴を何十年もかけて掘り続けてきた専門家がいて、あらゆる穴の構造を瞬時に把握できるAIがいて、あなたはシャベルすら持たずにその傍らに立っている。素人として。 ある企業のインターンシップに参加したとき、期待されたのは「哲学を学んでいる人間ならではの視点」だった。だが哲学を学んでいるからといって、人を唸らせるような洞察が自動的に湧いてくるわけではない。当然だ。哲学は知識の自動販売機ではないし、「ならではの視点」はボタンを押して出てくるものではない。 深さも広さも足りないとき、残っているのは何だろう。たぶん、何も残っていない。だがその「何もなさ」のほうに、少しだけ面白い問いがある。 以下は、そのあたりのことを真夜中に考えていたら、いつのまにか遠くまで漂流してしまった思索の記録だ。答えは用意していない。答えがないことが答えだ、とすら言うつもりはない。ただ、考えてしまった。深夜の、誰にも頼まれていない時間に。 代替可能 すべては交換可能である 産業革命は肉体を機械に置き換えた。AIは認

By Sakashita Yasunobu

あなたの憧れは、誰ですか。

あなたは何者にもなれる、と誰かが言った。嘘だ。 サルトルは『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』(1946)でこう述べた。「人間はまず先に実存し、世界の中で出会い、その後に自分自身を定義する」。生まれつきの本質もなければ、設計図もない。まず存在してしまう。それから何であるかを作る。 「実存は本質に先立つ(l'existence précède l'essence)」。この定式は解放の宣言に聞こえる。しかし少し考えればわかる。何者にもなれるということは、まだ何者でもないということだ。何かを選ぶたびに、選ばなかった可能性が静かに消えていく。選ぶたびに自分は狭くなる。自由に作れるはずの自分が、選択のたびに固まっていく。 ハイデガーは「被投性(Geworfenheit)」という概念でこの状況を別の角度から照らした。私たちは自分で自分の存在を始めたわけではない。気がついたら、すでにここにいた。生まれる場所も時代も身体も選んでいない。われわれは「投げ込まれた」。その地点から、そのままの条件で、何者かになろうとするしかない。

By Sakashita Yasunobu

退屈な今を生きる

明日のための今日 「今を生きろ」と誰かが言う。SNSにも自己啓発の本にも、同じ言葉がいたるところに転がっている。今日を大切にしろ。先延ばしにするな。一度きりの人生だろう。 ただ、よく聞いてみると、その理由はいつも明日に接続されている。今日の行動が未来を作る。後悔しないために今を無駄にするな。チャレンジすれば奇跡が起きる。つまり「今を生きろ」の看板の裏には「そのほうが結局うまくいくから」という計算がぴったり貼りついている。それは今を生きているのではなく、今を明日の原料として消費しているだけだ。 ホラティウスの "carpe diem" はもともと「今日という日を摘め」という意味だが、続く句 "quam minimum credula postero" は「明日をできるだけ信じるな」であって、「明日のために今日がんばれ」ではない。明日を計算に入れること自体を退けている。現代の自己啓発が借用する "carpe diem" は、原典とほぼ逆の意味で流通している。 マルクス・

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