雨の中で傘を持たない理由

「雨が降っている。しかし私はそれを信じていない」

この文には、論理的な矛盾がない。雨が降っていることと、話者がそれを信じていないことは、同時に真でありうる。人は自分の信念について間違うことがある。天気についても間違うことがある。両方が真であるような世界は、何も不思議ではない。

それなのに、この文を口に出した瞬間、何かがおかしくなる。

G.E.ムーアが1942年にケンブリッジ道徳科学クラブで発表したこの観察を、ウィトゲンシュタインは「哲学における最も重要な発見のひとつ」と呼んだ。大げさに聞こえるかもしれない。たかが一文だ。でもこの一文は、私たちが「信じる」とか「主張する」とか「知っている」と言うとき、裏側で何が起きているのかを、静かに、しかし徹底的に暴露する。

矛盾していないのに壊れている

ムーアの文が奇妙なのは、それが論理的に矛盾しているからではない。三人称に変換すれば何も問題は起きない。「彼は雨が降っていると言ったが、それを信じていなかった」。ただの報告だ。嘘をついていたのかもしれないし、混乱していたのかもしれない。いずれにせよ、聞いた側が驚くことはあっても、文そのものが壊れているわけではない。

壊れるのは、一人称で、現在形で、発話されたときだ。

「雨が降っている。しかし私はそれを信じていない」。この文を真剣に口にする人を想像してほしい。あなたはその人に何と言えばいいのか。反論しようにも、論理的な矛盾を指摘することはできない。だが、その人が正気であることを疑わずにいるのも難しい。

ここにパラドックスの核がある。論理は通っている。しかし発話としては成立しない。なぜか。

言うことと信じることのあいだの約束

ポール・グライスの会話の含意理論がひとつの補助線を引いてくれる。私たちが何かを主張するとき、そこには暗黙の約束がある。自分が信じていることを言っている、という約束だ。これは明示的なルールではない。誰もサインしていない契約だ。しかし、会話という営みがそもそも成り立つための、目に見えない足場になっている。

ムーアの文は、この暗黙の約束を、正面から、しかも正直に破る。

嘘とは構造が違う。嘘をつく人は、信じていないことを信じているふりをする。暗黙の約束を裏切っているが、表面上はそれを守るふりをしている。だからこそ嘘は機能する。相手が約束を前提にしているからこそ、欺くことができる。

ムーアの文はそうではない。「私はそれを信じていない」と正直に告白しながら、同時にそれを主張している。約束を破っていることを宣言しながら、約束の枠内にとどまろうとしている。嘘よりもたちが悪い。嘘には少なくとも一貫した戦略がある。ムーアの文には戦略すらない。

正直は美徳かで書いたように、正直と嘘の境界は見かけほど明確ではない。サルトルが描いた自己欺瞞(mauvaise foi)では、嘘をついている自分と騙されている自分が同一人物だった。ムーアのパラドックスはそのさらに手前にある。自己欺瞞にすらたどり着けない。自分が何を信じているのか、発話している当人にも確定できないという事態だ。

自分の信念は自分のものか

ムーアのパラドックスが最も不穏になるのは、自己認識の問題に踏み込んだときだ。

「私は差別をしていない」と心から信じている人が、実際には差別的に振る舞っている。暗黙のバイアス研究(Implicit Association Test)が繰り返し示してきたのは、まさにこの構造だ。被験者は自分の偏見を否定する。否定しているのは嘘ではない。本当に自分は偏見を持っていないと信じている。しかし行動のデータは別のことを語る。

これはムーアのパラドックスの心理学版とも言える。「私は偏見を持っていない。しかし私の行動は偏見を示している」。一人称の信念報告と、三人称的に観察される行動の乖離。内側から見た自分と、外側から見た自分が一致しない。

気のせいかもしれないで触れたダニング=クルーガー効果もここに接続する。能力の低い人ほど自分の能力を過大評価するという知見の本質は、「自分が何を知らないかを知らない」というメタ認知の問題だ。自分の信念について、自分が最良の権威ではない。それどころか、最悪の判定者である可能性すらある。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」で、少なくとも思考している自分の存在だけは疑えないと言った。灯りと不在で書いたように、意識のハードプロブレムはこのコギトの先に広がっている。だがムーアのパラドックスは、コギトのさらに手前を揺さぶる。思考している自分は確実に存在するとしても、思考の内容について自分が正確に把握しているとは限らない。「私は今、pを信じている」という判断そのものが、すでに信頼できないかもしれない。

ケーキを食べる哲学

「ダイエットしなきゃいけないのに、ケーキを食べてしまった」

日常会話でよく聞くこの文は、ムーアの文と構造的に似ている。「ケーキを食べるべきではない」と信じている(少なくともそう言っている)のに、食べてしまう。信念と行動の乖離。アリストテレスはこれをアクラシア(意志の弱さ)と呼んだ。ソクラテスはその存在を否定した。善を知っている者は善をなす、というのがソクラテスの立場だ。ケーキを食べてしまうのは、本当にはダイエットの必要を「知っていない」からだ、と。

ソクラテスの解答は、ある意味でムーアのパラドックスを先取りしている。「信じている」と口で言うことと、本当に信じていることは、別のことかもしれない。あなたが「タバコは体に悪い」と言いながら吸い続けているとき、あなたは本当にそれを信じているのか。信じているなら、なぜ吸うのか。信じていないなら、なぜそう言うのか。

もっとムーア的に言い直せば、こうなる。「タバコは体に悪い。でも私は本当にはそれを信じていない」。この文を口にした瞬間、あなたは自分自身について何かを発見している。しかしその発見は、発見した瞬間に矛盾に変わる。信じていないと自覚した瞬間に、信じていないことを信じてしまう。

誰も何も選んでいないで考えたように、そもそも意志の自由が幻想なのだとしたら、「信じることを選ぶ」という概念自体が成立しない。信念は選択されるものではなく、脳の状態として発生するものだ。そうだとすれば、自分が何を信じているかを自分に尋ねることは、天気を自分に尋ねるようなものだ。答えは出るかもしれないが、その答えが正確である保証はどこにもない。

沈黙を命じる口

ムーアのパラドックスには、パフォーマティブな矛盾と呼ばれる親類がいる。

「私は今、沈黙している」。この文を発話した時点で、沈黙していない。「私は何も主張しない」と主張する矛盾。「この文は無意味である」と意味のある文で宣言する矛盾。

自分のことは何も言えないで取り上げた嘘つきのパラドックス「この文は偽である」とは構造が異なるが、根っこの問題は共有している。言語が自分自身に言及したとき、あるいは話者が自分自身の精神状態に言及したとき、何かが軋む。

嘘つきのパラドックスでは、文の真偽が決定不能になる。ムーアのパラドックスでは、文の真偽は決定可能だ(雨が降っているかどうかは確認できるし、話者の信念状態も原理的には観察可能だ)。それなのに発話が成立しない。壊れているのは論理ではなく、「主張する」という行為そのものの前提だ。

J.L.オースティンの言語行為論が明らかにしたように、発話は単なる情報伝達ではない。約束する、命令する、質問する、主張する。これらはすべて行為だ。そして行為には、それが成立するための条件がある。結婚式で「誓います」と言う人は、実際に誓っている。その言葉が発せられた瞬間に行為が完了する。ムーアの文が壊れるのは、「主張する」という行為の成立条件のひとつが「話者がそれを信じている」であるとき、その条件を明示的に否定しながら主張を試みるからだ。

結婚式で「誓います。でも本当は誓っていません」と言ったら、何が起きるのか。おそらく式は中断される。論理的に矛盾していなくても。

知ることの壁の手前で

ムーアのパラドックスが指し示しているのは、結局のところ、自己認識の構造的な限界だ。

どこが私で考えたように、自己同一性はそもそも安定した基盤の上に立っていない。記憶は書き換えられ、身体は入れ替わり、信念は変動する。その上に「私は〇〇を信じている」という報告を載せたとき、その報告がどれほど信頼できるかは、本質的に不確定だ。

何も確かではないで書いたように、知識とは正当化された真なる信念であるという古典的な定義は、ゲティア問題によって揺さぶられた。知識の定義が揺らぐとき、信念の定義も一緒に揺らぐ。「信じる」とは何なのか。それは意識的な態度なのか、行動の傾向なのか、脳の状態なのか。どの定義を採用するかによって、ムーアの文の奇妙さの説明も変わる。

ウィトゲンシュタインがムーアの観察に興奮したのは、それが信念と主張のあいだにある複雑な構造を暴露したからだ。私たちは日常的に「〇〇だと思う」「〇〇を信じている」と言う。しかしその発話が何をしているのか、発話する本人にも完全にはわかっていない。

「雨が降っている。しかし私はそれを信じていない」。

この文は論理的には正しい。しかし発話としては壊れている。壊れているのは文ではなく、「自分を知ること」に対する私たちの素朴な信頼だ。

自分が何を信じているかを、自分は知っている。そう信じていた。しかしその信念もまた、信じているだけかもしれない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

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