気のせいかもしれない

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深夜2時に浮かぶ問いは、朝になると馬鹿に見える。でも馬鹿なのは問いのほうではなく、たぶん朝のほうだ。

昼間の世界はよくできている。予定があり、締切があり、返すべきメッセージがある。忙しさは鎮痛剤のようなもので、効いているあいだは何も感じなくて済む。でも夜、すべてが静まると、麻酔が切れたように問いが戻ってくる。自由意志はあるのか。言葉は本当に届いているのか。昨日の自分と今日の自分は同じ人間か。美しさに意味はあるのか。退屈の底には何があるのか。

答えはない。答えがないということだけが、わりと確実にわかっている。

この文章は、そういう夜の残骸だ。読んでも何の役にも立たない。読まなくても何も失わない。それでもここにある。


最初から選んでいない

コーヒーにするか紅茶にするか。今朝、あなたはどちらかを「選んだ」。少なくとも、そう感じたはずだ。手が伸びて、カップを取って、口に運んだ。一連の動作のすべてを、自分の意識が指揮したのだと、あなたは信じている。

1983年、神経科学者ベンジャミン・リベットはこの「信じている」を揺さぶる実験を行った。被験者に好きなタイミングで手首を動かしてもらい、「動かそう」と意識した瞬間を報告させながら、脳の電気活動を記録した(Libet et al., Brain, 1983)。結果は不穏だった。被験者が「動かそう」と自覚するのは、実際の運動のおよそ200ミリ秒前。だが脳の準備電位は、運動のおよそ550ミリ秒前にはすでに立ち上がりはじめていた。つまり、意識が決定を自覚するより約350ミリ秒も前に、脳はすでに動きの準備を始めていたことになる。意識は司令官ではなかった。脳がすでに下した決定を後から「自分が決めた」と追認する広報官にすぎなかったのかもしれない。

ただし、ここで結論を急ぐのは不誠実だ。リベット自身、自由意志の全面否定には慎重だった。脳が動作を準備しても、意識にはそれを直前で差し止める「拒否権(veto)」がある、と彼は考えた。始動は無意識かもしれないが、停止は意識にできる、と。さらにSchurger, Sitt & Dehaene(PNAS, 2012)は、準備電位の解釈そのものを問い直した。あの準備電位は「無意識の決定」のシグナルですらなく、ニューロンの自発的な確率的揺らぎが蓄積し、たまたま運動の閾値を超えた結果にすぎない可能性を示した。リベットの実験から自由意志の否定を直接導くことには、相当な飛躍がある。科学的には、まだ何も決着していない。

だが哲学は、科学の遥か以前からこの問題を抱えていた。スピノザは17世紀にこう書いている。人間が自由だと信じるのは、自分の行為を意識しているが、その行為を決定する原因については無知だからにすぎない(『エチカ』第1部 付録, 1677)。人間は自分の欲望を感じることはできる。だが、なぜその欲望が生じたのかは知らない。知らないから、自分で選んだのだと思い込む。自由意志の感覚は、無知が映す蜃気楼だ。

カントはまったく別の道を選んだ。自然界のすべてが因果法則に支配されているとしても、人間には現象の世界を超えたところに自由がありうる。自由は科学の対象ではなく、道徳が成り立つための条件だ。証明もできないし、反証もできない。この立場を逃げだと呼ぶ人もいるし、唯一の誠実な態度だと呼ぶ人もいる。少なくともカントは、自由意志の問いが実験室では片づかないことを、18世紀にすでに見抜いていた。

ところで、わたしたちの法律も、道徳も、人間関係も、ほとんどすべてが自由意志の存在を前提にして組み立てられている。あなたが嘘をついたのは、嘘をつかないこともできたからだ。あなたが約束を破ったのは、守ることもできたからだ。もし自由意志がないのだとしたら、責任という概念は足場を失う。責任が無意味なら罰も無意味で、罰が無意味なら法の体系全体が宙に浮く。わたしたちの社会が静かに依拠している地面は、あるのかないのかすらわからない何かの上に敷かれている。

もし自由意志が幻想だとしたら、「後悔」とは何だろう。選びようがなかったことを悔いるとは、いったいどういう心の動きなのか。後悔に意味がないなら反省にも意味はなく、反省に意味がないなら成長とは何だ。

あなたがこの文章を読んでいることさえ、最初から決まっていたのかもしれない。あるいは決まっていなかったのかもしれない。どちらにしても、それを確かめる術は、あなたにはない。


届かない言葉

「わかるよ」と言われるたびに、少しだけ孤独になる。

伝えたいことがある。慎重に言葉を選ぶ。語順を整え、比喩を探し、声のトーンまで気を配る。相手が頷く。でもその頷きは、自分が伝えようとしたこととは少しだけ別の何かに向けられている気がする。言葉は思考を圧縮して外に出す装置だが、その圧縮は不可逆だ。元のデータには二度と戻れない。

ウィトゲンシュタインは、初期の主著『論理哲学論考』(1921/22)の末尾をこう閉じた。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(命題7)。語りうることには限界がある。その外側について何かを言おうとすることは、意味をなさない言葉の連なりを生むだけだ。若きウィトゲンシュタインにとって、この一文は哲学そのものへの宣告に近かった。哲学が本当に扱いたい問題は、まさに語りえない領域に属している。語りえないなら、語るべきではない。

だが年を経た彼は、態度を大きく変えた。遺稿として1953年に刊行された『哲学探究』では、言葉の意味は辞書的な定義の中にあるのではなく、言葉が実際に使われる場面の中にある、と考えた。彼はこれを「言語ゲーム」と呼んだ。「ゲーム」という言葉ひとつとっても、ボードゲーム、球技、じゃんけんでは意味合いが異なる。すべてに共通する「ゲームの本質」など存在しない。あるのは緩やかな類似性のネットワークだけだ。そして同じ言葉を使っていても、互いの「ゲーム」のルールが違えば、意味は最初からすれ違っている。

フェルディナン・ド・ソシュールは、言葉とそれが指し示すものの結びつきは本質的に恣意的だと論じた(『一般言語学講義』, 1916, 受講生のノートに基づく死後出版)。「犬」という音の連なりと、四本足で吠える動物のあいだに、必然的な関係は何もない。フランス語ではchien、英語ではdog。どれも同じものを指すが、音はまったく異なる。言葉と世界のあいだに橋はない。あるのは、たまたまそう決まった慣習だけだ。

翻訳の場面を想像すると、事態はさらに深刻になる。日本語の「木漏れ日」は、木の葉の隙間から差し込む光を一語で言い当てる。英語にはこれに対応する一語がない。英語話者がこの光を見ていないわけではない。もちろん見えている。ただ名前がない。名前がないということは、それについて語りにくいということだ。語りにくいということは、共有しにくい。共有しにくいということは、その光を前にした感動を、言葉を介しては分かち合えないということだ。

結局のところ、すべての会話は、ちょうど十分な重なりを持った誤解の交換なのかもしれない。通じたと感じる瞬間は、相手が自分と同じ意味を受け取った証拠ではなく、互いの誤解がたまたま機能的に噛み合っただけのことだ。わたしたちは通じ合っているのではなく、すれ違いの精度が十分に高いだけなのかもしれない。

あなたが今読んでいるこの文章も、書かれた瞬間からもう、書いた人間の頭の中にあったものとは別のものになっている。あなたの中で組み上がった意味は、書き手の意味ではない。それが悲しいことなのか、避けようのないことなのか、あるいはむしろそのほうがいいのか。たぶん、それすらも語りえない。


誰もわかっていない

「わかった」と言うのは簡単だ。頷いて、目を合わせて、相槌を打てばいい。でも「わかった」と感じることと、本当にわかっていることは、たぶん別のことだ。そして厄介なのは、その二つの区別が、本人にもつかないことだ。

ソクラテスは知恵者として名が通っていたが、本人はそれを否定していた。デルフォイの神託が「ソクラテスよりも賢い者はいない」と告げたとき、彼は困惑して、知恵者と評判の高い人々を訪ね歩いた。政治家、詩人、職人。だが見つけたのは、知らないことを知っていると思い込んでいる人々だった。自分は知らないということを知っている。その一点だけ、自分のほうがわずかに賢い。プラトンが『ソクラテスの弁明』で描いたこの場面は2400年以上前のことだが、状況はあまり変わっていない。

1980年、哲学者ジョン・サールは「中国語の部屋」という思考実験を提示した(Behavioral and Brain Sciences)。英語しか話せない人が密室に閉じ込められている。外から中国語の質問が紙片で差し込まれる。部屋にはマニュアルがあり、入力された記号列に対してどの記号列を出力すべきかが細かく記されている。中の人はマニュアルに従って記号を操作し、応答を外に出す。外から見ると、この部屋は中国語を完璧に理解しているように見える。だが中の人は中国語を一文字たりとも理解していない。記号を操作しているだけだ。

正しい答えを出すことと、理解することは同じではない。テストで満点を取れることと、その科目を理解していることは同じではない。手順を正確に実行できることと、なぜその手順が正しいのかを知っていることは同じではない。

Kruger & Dunning(1999)は、この問題の一端を実験的に示した。ある領域の能力が低い人は、自分の能力を過大評価する傾向がある。逆に能力の高い人は、他者も同程度にできるだろうと想定し、自分を過小評価しがちだ。「愚かな人ほど自信がある」という要約をしばしば見かけるが、これは表層的にすぎる。本質はメタ認知の問題だ。自分が何を知らないかを把握する能力。それが欠けていると、自分の無知が見えない。見えないから、わかったつもりでいられる。

ある分野を深く学ぶほど、わからないことが増える、という逆説がある。入口に立ったときには全体が見渡せた気がする。奥に進むほど、見渡せていたのは錯覚だったと気づく。専門家が慎重に言葉を選ぶのは、自分がどこまで知っていて、どこから先は知らないかの境界線を、嫌になるほど意識しているからだ。

この文章を読んで「わかった」と思ったなら、それはどこかで何かを読み飛ばしている。わかったと感じた瞬間に、問い続けることをやめている。理解とは、もしかすると、思考が止まった瞬間に貼られるラベルにすぎないのかもしれない。そもそも何も確かではないのだから。


名前のつかないもの

ある感覚がある。懐かしいような、切ないような、でもどちらでもない。夕暮れの匂いに混じった何か。古い写真の中の、知らない人の笑顔を見て覚える何か。言葉にしようとすると、それは指のあいだから砂のようにこぼれ落ちる。名前をつけた瞬間に、名前以前にあったものは、もう取り戻せない。

トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」(The Philosophical Review)で、主観的経験の還元不可能性を論じた。コウモリは超音波を発し、その反響で世界を把握する。そこにはコウモリにとっての「何かであるような感じ」がある。だが人間がそれを理解しようとしても、原理的にたどり着けない。物理的・客観的な記述をどれだけ精緻に積み上げても、「コウモリであること」の質的な核は捉えられない。

哲学ではこの主観的体験の質的側面を「クオリア」と呼ぶ。赤を見たときの「あの赤い感じ」。痛みを感じたときの「あの痛い感じ」。クオリアは第三者に手渡すことができない。あなたが見ている赤と、隣の人が見ている赤が同じ体験かどうか、確かめる方法はどこにもない。もしかすると、あなたが「赤」と呼んでいる体験は、隣の人が「青」と呼んでいる体験と質的にまったく同じものかもしれない。互いに同じ言葉を使っているから、一生気づかないだけで。

ポルトガル語にsaudadeという言葉がある。単なる郷愁ではなく、もう戻れない何かへの甘く痛い憧れ。日本語にもぴったりの一語はない。言語が違えば、経験の切り分け方も変わる。言語が思考を完全に規定するとするサピア=ウォーフ仮説の強い版(言語決定論)は、今日ではほとんど支持されていない。だが弱い版、つまり言語がある程度、認知に影響を及ぼすという見解には実験的な裏づけがある。色のカテゴリが言語によって異なると、その境界付近の色の弁別に速度差が生じるという報告がその一例だ。名前は世界を切り分ける刃のようなもので、刃の入れ方が違えば、断面も少しだけ変わる。

音楽は、言葉にできない何かを伝えることがある。ある旋律を聴いて、それが何を「意味する」のか説明できないのに、確かに何かが伝わったと感じる。それは言語の敗北なのか。あるいは、言語とはまるで別の回路で何かが動いているのか。

もっとも大切な経験ほど、言語の外側にある。そして言語の外側にあるものについて書くことは、最初から矛盾している。にもかかわらず人は書く。この矛盾に解決はない。解決がないまま、それでも書く。


全部忘れる

5年前の今日、何をしていたか。たぶん思い出せない。

あなたは自分の人生の大半を忘れている。小学校3年生のある火曜日。去年の9月の昼食。3年前の日曜日の午後。何も浮かばない。記憶は穴だらけで、残っている断片も歪んでいる。そして忘れたこと自体を忘れているから、穴の存在にすら気づかない。

ジョン・ロックは『人間知性論』(1689)第2巻第27章で、人格の同一性を意識の連続性に結びつけた。あなたが「昨日の自分」と同じ人間であるのは、昨日の経験を記憶しているからだ。記憶が人格をつなぐ糸であり、糸が途切れれば同一性も途切れる。

デレク・パーフィットは『理由と人格』(1984)で、もっと急進的な方向に踏み出した。人格の同一性そのものが、そもそもそれほど重要ではないのかもしれない、と。重要なのは心理的連続性であり、それは全か無かの二者択一ではなく程度の問題だ。今日のあなたと10年前のあなたのつながりは、くっきりした線ではなく、グラデーションとして薄れていく。あなたはかつての自分と「同一人物」だと言えるかもしれないが、そのつながりは、自分が思っているよりずっと淡い。

ボルヘスの短編「記憶の人フネス」(1942)は、反対側の恐怖を描いている。落馬事故の後、すべてを完璧に記憶するようになった男。一本の木の一瞬ごとの違いを知覚し、あらゆる細部を保持する。だがフネスはその重みに押しつぶされていく。忘却は欠損ではなく、能力だ。膨大な情報を捨て、抽象化し、一般化する。そうしなければ、世界は細部の洪水になり、思考そのものが不可能になる。

写真は記憶を保存すると思われているが、実際には記憶を置き換える。何度も見返した写真のことはよく覚えている。でもそれは出来事そのものの記憶ではなく、写真の記憶だ。フレームの外にあったはずの音や匂いや温度は、写真には写らない。写らなかったものは、いつのまにか記憶からも消えていく。写真が残すのは、あったことの証拠だ。あったことの体験ではない。

人間は忘れるようにできている。忘却は生存のための機能だ。でもそのことは、忘れた日々が失われたという事実を変えない。10年後の自分は今日のことを覚えていない。覚えていない日は、主観的には、生きなかった日と区別がつかない。忘却は小さな死の連続だ。そして残っている記憶さえ、小さな嘘の堆積かもしれない。


同じ朝は来ない

目覚まし時計が鳴る。昨日と同じ時間。同じ部屋。同じ道。同じコーヒー。昨日と同じ朝だと思う。それは嘘だ。

ヘラクレイトスの言葉としてよく引かれる「同じ川に二度入ることはできない」は、厳密に言えば、プラトンが『クラテュロス』の中でヘラクレイトスの思想として伝えたものだ。ヘラクレイトス自身の断片(DK B12)はもう少し繊細な表現をしている。「同じ川に足を踏み入れる者たちの上に、異なる水が、また異なる水が流れる」。川はそこにある。名前も場所も同じだ。だが流れている水は一瞬たりとも同じではない。同一性と変化が、同時に成り立っている。ベルクソンの純粋持続もまた、時間が均質な点の連なりではないことを教えている。

J.M.E. マクタガートは1908年の論文「時間の非実在性」(Mind)で、時間そのものが矛盾を孕むがゆえに実在しないと論じた。彼は時間の記述を二つの系列に分けた。A系列は出来事を「過去」「現在」「未来」という、時とともに移り変わる性質で捉える。B系列は出来事を「より前」「より後」という、恒常的な関係で捉える。マクタガートの論証はこうだ。時間が実在するには変化が不可欠であり、変化にはA系列が必要だ。だがA系列は矛盾を含む。あらゆる出来事は過去であり、現在であり、未来でもあるが、これらの性質は互いに排他的だ。したがって時間は実在しない。

「過去・現在・未来は同時に成り立つのではなく、異なる時点において成り立つのだ」という反論は当然ある。だがマクタガートは、その「異なる時点」という概念自体がA系列を前提としており、説明が循環していると指摘した。この議論は一世紀を超えて哲学者たちを悩ませ続けている。

ニーチェは『悦ばしき知識』(1882)第341節で、永遠回帰の思考実験を投げかけた。もし悪魔が現れて、「おまえのこの人生を、何ひとつ変わることなく、無限に繰り返さなければならない」と告げたら、あなたはそれを受け入れられるか。この人生を、もう一度、最初から。ニーチェはこれを人生の肯定についての究極の試金石として提示した。答えが「はい」なら、あなたは自分の生を引き受けている。答えが「いいえ」なら、何かが、どこかで、決定的に違っている。

「今」という瞬間に特権的な地位がある、とわたしたちは疑いもなく信じている。でも物理学は、宇宙のどこかに客観的な「現在」が存在するとは教えてくれない。特殊相対性理論における同時性の相対性は、異なる運動状態にある観測者にとって「今」が異なりうることを示している。「今」が特別なのは、宇宙がそう設計されているからではなく、わたしたちがたまたまそこにいるからにすぎない。

4000週間の暇つぶし。それが人生の別名だとしたら、もっとも美しかった朝は、すでに過ぎた。どの朝だったかは、もう誰にもわからない。


美しさは何も救わない

夕焼けがきれいだった。息をのむほど、きれいだった。翌朝、世界は一ミリも変わっていなかった。

美しいものを前にすると、人は黙る。言葉が足りなくなるのか、言葉が邪魔になるのか、よくわからないが、とにかく黙る。その沈黙の中で、何かとても大事なことが起きているような気がする。でも何が起きているのか、正確には言えない。

カントは『判断力批判』(1790)で、美を「目的なき合目的性」(Zweckmäßigkeit ohne Zweck)として分析した。美しいものは、何かの意図に奉仕しているかのように見える。花の形は精巧で、夕焼けの色彩には構成があり、音楽には秩序がある。だが美は何の目的にも奉仕していない。利害から離れたところに、それ自体として完結している。だからこそ美しい、とカントは考えた。

ドストエフスキーの『白痴』(1869)で、ムイシュキン公爵は「美は世界を救う」と語ったとされる。この言葉はドストエフスキー自身の信条として頻繁に引かれるが、文脈はそう単純ではない。これは物語の中の一人の登場人物が口にした言葉であり、その意味は作中でも曖昧なまま宙に浮いている。美が世界を救うとは、具体的にどういう事態を指すのか。飢えている人に夕焼けを見せても腹は膨れない。戦争を止めることもできない。ドストエフスキーはその答えを書かなかった。答えが欲しければ、別の本を読んだほうがいい。

でも。

美しいものに出会ったとき、一瞬だけ、世界の意味とか目的とか有用性とか、そういったものが全部どうでもよくなる瞬間がある。何の役にも立たないのに、そこに確かに何かがある、と感じる。その感覚を言葉にしようとすると消えてしまうのは、前に書いたとおりだ。でも消えても、何かがあったという痕跡だけは残る。それが何だったのかは、やはり説明できない。

美しさに理由を求めた瞬間に、美しさは少し遠ざかる。理由がないから美しいのだとしたら、「理由がないから美しい」と口にした時点でもう理由を差し出してしまっている。逃げ場のない再帰。どこにも着地できない。美は問いを投げかけるが、答えは持っていない。持っていないこと自体が、たぶん、答えにもっとも近い何かだ。


退屈の底

スマートフォンを裏返して、5分間、何もしないでみる。

たぶん無理だ。1分もしないうちに手が伸びる。メッセージを確認する。ニュースをスクロールする。何でもいい、とにかく何かをする。退屈に耐えられない。なぜこんなにも退屈が怖いのか。

パスカルは書いた。「人間の不幸はすべて、部屋の中にじっとしていられないことに由来する」(『パンセ』, 遺稿, 1670年刊)。17世紀の言葉だが、スマートフォンの時代にはいっそう鋭く響く。わたしたちはかつてないほど効率的に退屈を回避できるようになった。あらゆる瞬間を娯楽や情報で埋めることが可能だ。だが退屈を回避する技術が進歩するほど、退屈に耐える力は衰えていく。

ハイデガーは1929年から30年にかけての冬学期講義(『形而上学の根本諸概念』, 遺稿として1983年に刊行)で、退屈を三つの層に分けた。第一の退屈は、電車を待っている間の退屈。何かを待っているから退屈する。対象がはっきりしている。第二の退屈は、社交の場での退屈。パーティーにいて、それなりに楽しんでいるはずなのに、なぜか退屈している。何を待っているのかも自分ではわからない。そして第三の退屈。深い退屈。何もかもがどうでもよくなる。特定の何かに退屈しているのではなく、存在するもの全体がどこか遠くに退いていくような感覚。ハイデガーはこの最も深い退屈の底にこそ、根本的な空虚が姿を現すと考えた。

キェルケゴールは『あれかこれか』(1843)で、退屈をあらゆる悪の根源と呼んだ。人間は退屈から逃れるために恋をし、仕事に没頭し、争い、酒を飲む。あらゆる行為は、突き詰めれば、退屈の回避に帰着する。

退屈が怖いのは、退屈の底に何があるか、薄々わかっているからかもしれない。何もない。何もないことと向き合うのが怖い。退屈とは、自分自身との面会だ。日常の騒がしさが取り除かれたとき、残るのは「ここにいる自分」だけで、その自分と二人きりになることが、どうにも耐えがたい。だからスマートフォンに手が伸びる。

永遠に退屈しない人生は天国だろうか、地獄だろうか。退屈の向こう側に何があるのかを、永遠に覗かずに済むということだ。覗かずに済むのは、幸福なのか。5分間何もしないことは、宇宙の沈黙に耳を澄ませることに、ほんの少しだけ似ている。


何ひとつ残らない

この文章が載っているサーバは、いつか落ちる。

デジタルデータは永遠だと思われている。だが紀元前3千年頃のシュメールの粘土板が今なお読める一方で、20年前のウェブページの多くはもう存在しない。リンクは腐り、ドメインは失効し、サーバは止まり、フォーマットは陳腐化する。人類史上もっとも強力な情報記録技術は、もっとも脆い媒体の上に成り立っている。この皮肉を「デジタル暗黒時代」と呼ぶ人もいる。

紙の本は劣化するが、ゆっくり劣化する。黄ばみ、端が欠け、虫に食われる。数十年をかけて、少しずつ消えていく。デジタルデータは劣化しない。ただ消える。サーバが落ちた瞬間、ハードディスクが壊れた瞬間、何百万語ものテキストが、指を鳴らすように消滅する。

古代アレクサンドリアの大図書館の喪失を、人類は長いあいだ嘆いてきた。だが現代では、その図書館が収めていた巻物をはるかに超える量の情報が、毎日、静かに消えている。ウェブサイトが閉鎖され、アカウントが削除され、プラットフォームがサービスを終了する。誰も嘆かない。消えたことに誰も気づかないから。あぁ、さようなら。別れの挨拶すらなく、すべては退場する。

そしてわたしたちが何かを残そうとする衝動そのものが、有限な自分に対するささやかな反抗なのかもしれない。自分が消えても、痕跡だけは残したい。だが痕跡もまた消える。保存は消滅に対する勝利ではなく、猶予にすぎない。

もし自分の書いたものが10年後にすべて消えるとわかっていたら、今日書くか。書くとしたら、なぜ書くのか。残すためではないとしたら、何のために。書いている瞬間の思考の密度のためか。それとも理由など、どこにもないのか。どこにもないとしても、書くのか。

残らないとわかっていて何かを作ることの中にだけ、何かがある。ような気がする。ような気がするだけかもしれない。


沈黙のほうが正しかった

ここまで読んで、ひとつでも答えを見つけた人がいたら、それは読み間違いだ。

インターネットには言葉が溢れている。意見、解説、反論、反論への反論、反論への反論への補足。だがそれらの言葉のうち、どれだけが世界に何かを本当に付け加えているのだろう。多くの言葉は、沈黙を埋めるためだけに存在している。沈黙が怖いから何かを言う。何かを言ったから誰かが応じる。応じたから返す。意味の生産ではなく、沈黙の回避だ。

ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」がここで再び顔を出す。何度引いても色褪せないのは、この命題がまさに語ることの限界について語っているからだ。語りうることの外側について語ることは、不誠実であるだけでなく、語りうることの価値までをも損なう。

ジョン・ケージは1952年8月29日、『4分33秒』を初演した。ピアニストはピアノの前に座り、蓋を開け、何も弾かず、蓋を閉じる。三楽章にわたって。聴衆は困惑し、やがて咳払いや椅子のきしみや外の音を聴きはじめる。ケージが示したのは、沈黙は空白ではないということだ。意図された音がなくても、世界は音に満ちている。沈黙とは音がないことではなく、意図された音がないことだ。

スーザン・ソンタグは「沈黙の美学」(1967)で、語ることの拒否そのものが美学的態度になりうると論じた。コンテンツが無限に生産される時代において、何も作らないことは怠惰ではなく、ひとつの選択でありうる。もっとも静かで、もっとも急進的な表現行為かもしれない。

哲学は文学的表現を必要とするか。この文章は何かを表現できたのだろうか。正直なところわからない。書かなかったほうがよかったのかもしれない。ここに書かれたことのすべては、誰かが、どこかで、もっと正確に書いている。ウィトゲンシュタインが書き、カントが書き、パスカルが書き、ボルヘスが書いた。付け加えることは何もなかった。放棄された問いたちの山に、もうひとつ投げ込んだだけだ。でも沈黙もまた語ることの一形態だとしたら、黙ることを選んだという事実それ自体が、沈黙しきれなかったことの証拠になる。どこにも逃げ場はない。


この文章に費やした時間は戻らない。でも安心していい。あなたはこの文章のことを忘れる。そして忘れたことも忘れる。忘却だけが、ここに書かれたすべてに対する、唯一の正しい応答だ。

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Dependabotの対応が面倒なのでRenovateを導入する

Dependabotくんはある程度の依存関係の更新を通知してくれるが、山のようにprojectを抱えているとなんとも痒いところに手が届かない。 ということで、Renovateを使ってみる。 Build software better, togetherGitHub is where people build software. More than 150 million people use GitHub to discover, fork, and contribute to over 420 million projects.GitHub ここからGitHub Appを入れる。 あとは、指示に従ってポチポチするだけで、超かんたんだった。 感想 自動化最高。

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nodejsのバグを見つけたのでPRを投げてみた

概要 要するに、node --testで特定のバイナリを標準出力に書くと、テストランナーが固まったり、異常終了したりするバグです。 バグ自体は既知のものだったようで、修正がされていました。 test_runner: infinite loop in FileTest#drainRawBuffer when child stdout contains FF 0F followed by large size bytes · Issue #62693 · nodejs/nodeVersion v25.9.0 (also reproduced on v24.14.1 LTS, v22.21.0 LTS, v23.4.0) Platform Darwin 25.

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青空文庫のParser

青空文庫のParser

青空文庫のParserを作ってます。 GitHub - P4suta/aozora: Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks.Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks. - P4suta/aozoraGitHubP4suta Rustで作ってますが、配布物はcargoのほかにnpm/pypiでも入手できます Documentation * Playground — try it in

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