われわれは「投げ込まれた」
招待状は届いていない
あなたの誕生に、あなたの同意を得た人間は一人もいない。
当たり前だ。同意を求めるべき「あなた」は、その時点ではまだどこにもいなかった。存在しないものに返事はできない。だから、あなたの存在はあなた抜きで始まった。「決められた」のですらない。ただ、そうなった。
身に覚えのない宴に放り込まれたようなものだ。会場も、メニューも、隣の席の人間も、何ひとつ選んでいない。気がついたら椅子に座っていた。「楽しんでね」と言われても、まず状況を把握させてほしい。
この記事に答えはない。出す気もない。問いだけをテーブルに並べる。それを持ち帰るかどうかは、あなたの勝手だ。
理由なき着地
マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927年)のなかで、人間の存在のあり方を「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ。
私たちは自分の存在の出発点を自分自身で選んでいない。なぜこの時代に生まれたのか。なぜこの場所なのか。なぜこの身体なのか。どれひとつとして、自分で決めた覚えがない。にもかかわらず、すでにここにいる。理由なく、根拠なく、ただ「投げ込まれて」いる。
ハイデガーがこの概念で示したのは、それが不運でも偶然でもなく、人間の存在そのものの構造だということだ。私たちは「選ばずにここにいる」のではなく、「選ばずにここにいること」が、そもそも私たちの存在の仕方なのだ。選ばなかったという事実が、存在の一部として組み込まれている。
100年早く生まれていたら。別の大陸に生まれていたら。別の言語を母語としていたら。仮にもう一度、最初から始められたとして、そのとき「あなた」は、いまの「あなた」と同じ人間だろうか。おそらく、その問い自体が成り立たない。「あなた」とは、まさにこの条件のもとに投げ込まれたことによって成立した存在なのだから。
では、そうして投げ込まれたこの場所に、何か意味があるのか。ハイデガーはそこには答えない。ただ、そこから始めろ、と言う。始めた先に何があるかも言わない。着地点のない出発だけが、与えられている。
もっとも、「与えられている」と言うのも正確ではないかもしれない。与えた主体がいないのだから。誰も何も選んでいないまま、すべてはとうに始まっていた。
誰の幸運でもない
リチャード・ドーキンスは『虹の解体(Unweaving the Rainbow)』(1998年)の冒頭で、こう書いている。
We are going to die, and that makes us the lucky ones. Most people are never going to die because they are never going to be born.
私たちは死ぬ。それこそが私たちを幸運にしている。ほとんどの人間は死ぬことすらない。そもそも生まれてこないのだから。
あなたが存在するためには、途方もない偶然の連鎖が必要だった。何万年にもわたる祖先のすべてが、適切なタイミングで生き延び、適切な相手と出会い、適切な瞬間に子をなさなければならなかった。一度でもずれていれば、あなたは存在しない。生まれなかった可能的存在の数は、ドーキンス自身の言葉を借りれば、アラビアの砂粒よりも多い。
ドーキンスはこの偶然を幸運と呼ぶ。確率の観点からは、たしかにそう言えるのかもしれない。だが、少し立ち止まって考えると、奇妙なねじれが見えてくる。
「幸運」とは、誰にとっての幸運なのか。
生まれる前のあなたは存在しない。存在しないものが幸運を感じることはできない。幸運を語っているのは、すでに存在してしまった後のあなただ。くじを引いた後に「当たっていた」と振り返っているにすぎない。外れた側は、そもそもそこにいない。外れたことを嘆く主体すら、どこにも存在しない。
「幸運」という言葉は、存在してしまった側からしか発せられない。これは祝福なのか、それとも存在してしまったことへの事後的な正当化なのか。存在者だけが存在を肯定できるという構造は、結局のところ何も保証してはいないのではないか。
もし「存在しないこと」を不幸と呼べないのなら、「存在すること」を幸運と呼ぶ根拠は、いったいどこにあるのだろう。
来ないほうがよかったかもしれない
南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターは、2006年の著書『生まれてこないほうが良かった(Better Never to Have Been)』で、ひとつの不穏な非対称性を提示した。
議論の骨格はこうだ。存在する場合、苦痛があることは悪い。快楽があることは良い。ここまでは異論がない。
では、存在しない場合はどうか。ベネターの主張はこうだ。苦痛がないことは良い。たとえそれを享受する主体がいなくても。一方、快楽がないことは「悪くない」。なぜなら、快楽を奪われている主体がどこにもいないからだ。
この非対称性が導く帰結は穏やかではない。存在しないことには「悪い」側面がなく、「良い」側面だけがある。存在することには、どれほど恵まれた人生であっても、必ず「悪い」側面が伴う。したがって、存在しないことのほうが常に優位にある。
直感的には「おかしい」と感じるだろう。だが、論理的にどこがおかしいのかを指摘しようとすると、意外に手こずる。この非対称性を崩すには、なぜ「苦痛の不在」と「快楽の不在」を異なる仕方で評価できるのかを、説得力をもって説明しなければならない。
もちろん反論は数多く存在する。非対称性の前提そのものを拒否する立場。「良い」「悪い」の評価には主体が不可欠だとする立場。存在の価値を苦痛と快楽の加減算で測ること自体を退ける立場。どれにもそれなりの力がある。
だが、ベネターの議論の本当の鋭さは、おそらく結論そのものにはない。「生まれてこないほうが良かった」に同意するかどうかは、実のところたいして重要ではない。重要なのは、この問いの前に立ったとき、自分の存在を「良いこと」だと信じたい気持ちが、論証ではなく願望にすぎないのかもしれないと気づいてしまうことだ。
そしてその気づきをどうすればいいのか、誰も教えてくれない。苦しみは何も教えない。存在もまた。
あなたは仮の名前にすぎない
デレク・パルフィットは『理由と人格(Reasons and Persons)』(1984年)のなかで、「私が私であること」にまつわる前提を根底から揺さぶった。
パルフィットによれば、人格の同一性の核にあるのは、身体の連続性でも魂の同一性でもない。重要なのは心理的連続性だ。記憶、性格、意図、信念。それらの連なりが「私」を構成する。そして心理的連続性には程度がある。時間とともに薄れ、変質し、ときには分岐すらしうる。
ここから奇妙な帰結が立ち上がる。20年後の「あなた」は、いまの「あなた」とどの程度まで同じ人間なのか。記憶は書き換えられ、性格は変わり、価値観は更新される。60年後に至っては、いまの「あなた」との共通点を探すほうが難しいかもしれない。
パルフィットはさらに、「可能的人格(possible persons)」の問題にも踏み込んでいる。あなたの両親が出会わなかった場合に存在しえた「別の誰か」。その人物に対して、私たちは何かを負っているのか。存在しなかった人間に、権利や利害を想定することはできるのか。
パルフィットの議論が指し示すのは、「私」という概念が、私たちの信頼ほどには堅固ではないということだ。「私がここにいること」に意味を見出したいなら、まず「私とは何か」を説明しなければならない。だが、その説明は予想以上に困難だ。
あなたは、たまたま「あなた」と名づけられた何かにすぎない。その輪郭は、すでに溶け始めている。あなたは最初からいなかったのかもしれない。あなたが「自分」だと思っているものは、明日にはもう少しだけ別の何かになっている。誰も気づかないほどゆっくりと、しかし確実に。
最後に残る問いはこうだ。「あなた」が曖昧な概念であるなら、「あなたが生まれてきた意味」を問うこと自体に、意味はあるのだろうか。
目覚ましは勝手に鳴る
あなたの存在に理由はない。
選ばれたのでも、招かれたのでも、祝福されたのでもない。偶然の果てに、たまたまここにいる。
ハイデガーはそこから始めろと言い、ドーキンスは感謝しろと言い、ベネターは来るべきではなかったと言い、パルフィットはそもそもお前は誰だと問い返す。四人の答えはばらばらで、一致しているのはただひとつ、誰もあなたの存在に理由を与えてくれないということだけだ。それでも理由を探し続けるのは、意味という病のせいかもしれない。
明日も目覚ましは鳴る。あなたの許可なく。止めるかどうかだけが、かろうじてあなたに委ねられている。
その選択にすら、たいした意味はないのかもしれないけれど。