近づくほどに遠ざかるもの
今夜、午前3時に電話をかけられる人間は何人いるか、数えてみてほしい。3人? 1人? それとも、連絡先を上から下までスクロールして、結局誰にもかけられないまま画面を閉じるだろうか。
安心してほしい。それは正常な状態だ。人類学的に、進化論的に、哲学的に、正常だ。
この「正常さ」が、たぶんいちばん救いがない。
この記事には答えがない。あるのは、だんだん大きくなっていく問いだけだ。つながりには天井があること。テクノロジーは何も変えなかったこと。「自分」という感覚すら怪しいこと。全部知ったところで一ミリも楽にはならないが、知らなかったことにも、もう戻れない。
脳が許した150人
1990年代、イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、霊長類の大脳新皮質の大きさと、その種が維持する社会集団の規模にきれいな相関があることを見出した。脳が大きいほど、安定した社会関係を多く維持できる。この知見をヒトの脳に当てはめたとき、導かれた数字がおよそ150だった。
150人。「あの人は誰で、あの人とこの人はどういう関係か」を把握しておける人数の、生物学的な天井。ダンバーはこの仮説の背景にある考え方を「社会脳仮説」と呼んだ。
そしてこの数字は、不気味なほど何度も現れる。携帯電話の通話記録。Twitterの会話パターン。メールの送受信ネットワーク。狩猟採集社会のコミュニティ規模。時代も技術も変わったのに、150という天井だけがしぶとく残っている。
しかも150人が均等に並んでいるわけではない。ダンバーの研究グループは、人間の社会的ネットワークが同心円状の階層をなすことを示した。最も内側の層がおよそ5人。次に15人、50人、そして最外周の150人。外側にいくほど、情緒的な親密さは薄くなる。
つまり、本当に親密だと呼べる関係は最大で5人。しかもこれは上限であって、今その枠が埋まっている保証はどこにもない。3つ空いているかもしれない。全部空いているかもしれない。脳がそれだけの容量を持っているということと、実際にそこに誰かがいるということは、まったくの別問題だ。
友情には値札がついている
2300年以上前に、アリストテレスはすでにこのことを見抜いていた。『ニコマコス倫理学』の第8巻と第9巻で、彼は友愛(フィリア)を三つに分けている。
ひとつは、有用性にもとづく友愛。互いに利益があるから続く関係だ。利益がなくなれば霧のように消える。
ふたつめは、快楽にもとづく友愛。一緒にいると楽しいから続く関係。楽しさが薄れれば、連絡も途絶える。
みっつめは、徳にもとづく友愛。相手の人格そのものを敬い、互いの善きあり方を願い合う関係。アリストテレスはこれを「完全な友愛」と呼んだ。最も持続的で、最も美しく、そして最も稀な形態だと。
この分類の残酷さは、その精度にある。あなたの人間関係を棚卸ししてみてほしい。学校を卒業して途絶えた友人。転職して会わなくなった同僚。引っ越しで疎遠になった隣人。それらはすべて、有用性か快楽が失われた瞬間に静かに消滅した関係ではなかったか。
「完全な友愛」は存在しうると、アリストテレスは言った。だがそれは生涯を通じてほんの数回出会えるかどうかの僥倖であり、仮に出会えたとしても、育て維持するには膨大な時間と互いの徳が必要になる。
高校の親友と、今も親友だろうか。あるいは、最初から愛さなければ傷つかないのだと、どこかで知っていたのかもしれない。
あなたは選ばなかった
1950年代から60年代にかけて、イギリスの精神科医ジョン・ボウルビーは、乳幼児と養育者のあいだに形成される情緒的な絆に注目し、愛着理論を提唱した。のちにアメリカの発達心理学者メアリー・エインズワースが、愛着のパターンを安定型、不安型、回避型といった類型に整理した。
後続の研究が明らかにしたのは、幼少期に形成された愛着パターンが、成人の恋愛関係や友人関係にまで影を落とすということだった。安定型の人は親密さを自然に受け入れられる。不安型の人は見捨てられることを恐れて相手にしがみつく。回避型の人は、そもそも親密さから距離を取る。
ボウルビー自身は、愛着パターンが固定的ではなく、新たな経験や関係によって変化しうることを認めている。だが、出発点が同じではないという事実は動かない。同じように手を伸ばしても、同じ距離に届くとは限らない。
あなたは自分の愛着パターンを選んでいない。生まれた環境と、養育者との関係と、最初の数年間の経験が、人間関係の土台を勝手に敷いてしまった。その上に何を建てるかはあなたの自由だ。だが基礎工事は終わっている。あなたに相談なく。もっとも、誰も何も選んでいないのだとしたら、これは愛着に限った話ですらない。
既読は沈黙より冷たい
手紙の時代、返事を待つことは日常だった。届いたかどうかすらわからない。届いていても、相手がいつ読んだかはわからない。その「わからなさ」が、人間関係にある種の余白を与えていた。
「既読」がその余白をすべて奪った。
メッセージが読まれたという事実が可視化された瞬間、沈黙は「無視」に変わった。返事がないのではない。返事をしないという選択が、目に見える形で突きつけられる。手紙の時代には存在しなかった感情、「読まれたのに返されない」という痛みが、テクノロジーによって発明された。
便利になったのではない。傷つく方法が増えたのだ。
千人のフォロワーとゼロの理解者
テクノロジーはこの状況を変えただろうか。
SNSは「つながり」の数を爆発的に増やした。フォロワー、フレンド、コネクション。しかしゴンサルベスらが170万人分のTwitterの会話データを分析したところ、安定的な双方向のやりとりを維持できる相手の数は、やはり100人から200人の範囲に収まっていた。脳の上限は変わらなかった。テクノロジーが変えたのは、「つながっている」という錯覚の解像度だけだ。
1964年、マーシャル・マクルーハンは『メディア論』で「メディアはメッセージである」と書いた。メディアが運ぶ内容よりも、メディアという形式そのものの方が、人間に対してはるかに大きな影響を与えるという洞察だ。この論理をSNSに当てはめると、恐ろしいほどよく当てはまる。LINEで何を伝えるか、Xで何を投稿するかは二次的な問題にすぎない。それらのプラットフォームを使うという行為自体が、人間関係の形式を書き換えている。
返事のスピードが誠意の指標になる。「いいね」の数が共感の尺度になる。フォロワー数が社会的価値の代理変数になる。140字で語られる思想は、すでに140字の形をしている。
MITの社会科学者シェリー・タークルは2011年の著書 Alone Together で、テクノロジーが親密さの設計者になっていると論じた。SNSでの交流は友情のように見えるが友情ではない。それは友情のパフォーマンスだ。テクノロジーは友情を届けると約束するが、届けられるのはその模倣だけだ。
カフェで友人と向かい合いながら、互いにスマートフォンの画面を覗き込んでいる。物理的な距離はゼロなのに、注意はそれぞれ別の画面の向こう側にある。一緒にいるのに一人。
厄介なのは、この状態が不快ではないことだ。むしろ快適ですらある。画面越しの関係は面と向かった関係より手軽で、傷つくリスクが少なく、いつでも中断できる。私たちは「深いつながり」よりも「安全な距離」を自分で選び始めている。
テクノロジーが人間関係を壊したのではない。テクノロジーが差し出す心地よい代替品の方を、私たちが自分で選んでいるのだ。そしてその先に待っているのは、治らない孤独だ。
全部聞こえたら終わりだ
思考実験をひとつ。
もし全人類がテレパシーで接続されたら、それは究極のコミュニケーションだろうか。誤解のない世界。既読スルーのない世界。言葉を選ぶ必要のない世界。
おそらく、それは想像しうる限り最悪の世界だ。
人間関係が成り立っているのは、伝わらない部分があるからだ。言わなかったこと、気づかないふりをしたこと、飲み込んだ言葉。その余白が関係を維持している。すべてが伝わる世界では、すべての退屈、すべての苛立ち、すべてのかすかな軽蔑がフィルターなしで流れ込む。テレパシーは究極のつながりではない。究極の暴露だ。
本当に恐れているのは「つながれないこと」ではなく、「つながりすぎること」なのかもしれない。
SNSは中途半端にそれをやっている。思ったことを気軽に投稿できるプラットフォームは、テレパシーの劣化版だ。劣化版ですら、これだけの軋轢を生んでいる。心を、人の心奥を、覗いてみたい。その願いが叶った先にあるのは、理解ではなく、たぶん崩壊だ。
空っぽの舞台
ここから、問いはもう一段深い場所に沈んでいく。
つながりに天井があること、テクノロジーが何も解決していないこと。それだけでも十分に絶望的だが、本当の問題はその先にある。つながりの先にいるはずの「自分」が、そもそも怪しい。
社会学者アーヴィング・ゴフマンは1959年の著書『日常生活における自己呈示』で、人間の社会生活を演劇に喩えた。ドラマトゥルギーと呼ばれるアプローチだ。人には「表舞台」と「楽屋」がある。面接の自分。友人の前の自分。恋人の前の自分。一人の自分。それぞれが異なる演技であり、場面ごとに印象を管理している。ゴフマンはこれを「印象操作」と呼んだ。
ここまでなら「まあ、そうだよね」で済む。
問題はその先だ。ゴフマンは「楽屋の自分こそ本物だ」とは言っていない。一人きりの部屋で鏡を見て表情を確かめる。誰にも見せないつもりの日記に、それでもどこか読者を意識した文体が滲む。楽屋の奥にまた楽屋があり、その奥にもまた楽屋がある。
すべての幕を降ろした先に素顔の自分が立っているとは、少なくともゴフマンは約束しなかった。幕の奥を探りにいけば、あなたは最初からいなかったのかもしれないという、もっと深い穴が口を開けている。
割れた鏡
チャールズ・ホートン・クーリーは1902年の著書『人間の本性と社会秩序』で「鏡に映った自己」という概念を提唱した。
自己認識は三つの段階を踏む。まず、他者の目に自分がどう映っているかを想像する。次に、その姿を他者がどう評価しているかを想像する。最後に、その想像された評価に応じて、誇りや恥の感情が生まれる。
「自分が自分をどう思うか」は、「他人が自分をどう思っていると自分が想像するか」によって成り立っている。自己認識の核心部分に、最初から他者が埋め込まれている。
もし鏡が一枚もなかったら。他者が誰もいない世界で、あなたは自分を「明るい性格」だと思えるだろうか。「真面目」「面白い」「怒りっぽい」。それらはすべて、誰かとの関わりの中で初めて浮かび上がるものではないか。
しかもクーリーの鏡は、正確に映す保証がどこにもない。他者が実際に何を思っているかではなく、自分が「他者はこう思っているだろう」と想像した内容が自己認識を形作っている。推測の上に推測を重ねた構造。そのすべてが、自分の頭の中で完結している。
鏡を割れば、映っていた像も一緒に砕ける。でも、その像は最初から本当の姿ですらなかったかもしれない。あなたは私を知りうるか。その問いは他者に向けられると同時に、鏡のこちら側にも返ってくる。
まなざしの檻
ジャン=ポール・サルトルは1943年の『存在と無』で「まなざし」を論じた。
一人でいるとき、人は純粋な主体として世界と向き合っている。しかし他者の視線を感じた瞬間、自分は「見られる対象」に転じる。主体から客体へ。自由に流れていた自己が、他者のまなざしの中でひとつの像として固定される。
サルトルの戯曲『出口なし』(1944年)に有名な台詞がある。「地獄とは他人のことだ」。よく誤解されるが、これは「他人は不愉快だ」という素朴な愚痴ではない。サルトル自身が後に解説しているように、この言葉が指しているのはもっと構造的な事態だ。他者のまなざしによって自分が何者であるかを固定され、その判定の最終権限が自分の手を離れてしまうこと。それが地獄だ。
ゴフマンの舞台では、少なくとも自分で役を選ぶ余地があった。サルトルのまなざしでは、どの役を演じるかの決定権すら他者に奪われうる。「自分は優しい人間だ」と思っていても、他者のまなざしが「冷たい人間だ」と規定すれば、その規定から完全に自由ではいられない。
ではまなざしから逃げればいいのか。しかし、クーリーが示したように、まなざしがなくなれば自己の輪郭そのものが消える。
見られれば固まる。見られなければ溶ける。どちらにも逃げ場がない。そもそも誰もあなたのそばにはいないのだとしたら、見られているという感覚すら幻かもしれない。
逃げ続ける「私」
ジョージ・ハーバート・ミードは1934年に死後出版された『精神・自我・社会』で、自己を「I」と「me」の二つに分けた。
「me」は他者の態度や期待を内面化した社会的な自己。ルール、規範、役割の集積。「I」はその「me」に対して自発的に応答する主体。衝動、創造性、予測不可能な反応を担う側。
ミードの枠組みで特に不気味なのは、「I」は直接には知り得ないという点だ。「I」が何かを行為した瞬間、その行為は対象化され、すでに「me」の一部になっている。「今まさに反応している自分」は、認識しようとした瞬間にはもう過ぎ去っている。
自分の中で最も自発的で自由であるはずの部分が、永遠に自分自身の手から逃れ続ける。伸ばした手のひらの中にあるのは、いつも「me」だけだ。社会が形作った自分。期待と規範で編み上げられた像。
「本当の自分を探す」とよく言うが、ミードの論理に従えば、「見つけた」と思った瞬間にそれは対象化されて「me」に変わっている。
探し物は、探している手の中には絶対にない。そして見つからないのなら、自分でいる理由なんてないのかもしれない。
幻を自分と呼んだ日
精神分析家ジャック・ラカンは、人間の自我が「鏡像段階」を通じて形成されると論じた。生後6か月から18か月頃、幼児は鏡に映った自分の姿を見て、初めて「わたし」という統一された像を獲得する。
だがラカンによれば、これは根本的な誤認だ。実際の幼児は身体の統御もままならない断片的な存在なのに、鏡の中には安定した、まとまりのある像が映っている。幼児はその像に同一化することで自我を形成する。自我とは、外部から与えられた像を「自分だ」と信じ込むことによって成り立っている。
「自分」はそもそも自分の中にはない。外から来た幻想を、自分だと思い込んでいるだけだ。
ヘーゲルは『精神現象学』で、もうひとつの構造を示した。自己意識が成立するためには他者からの承認が不可欠だと。有名な「主人と奴隷の弁証法」では、二つの自己意識が出会い、承認をめぐって闘争する。一方が屈服して「奴隷」となり、他方が「主人」となる。だがヘーゲルの議論の核心は、この非対称な関係では真の承認が成立しないという点にある。自分が対等と見なさない相手からの承認に、いったい何の意味があるだろうか。
ここに厄介な構造がある。自己意識は他者なしには成立しない。だが他者からの承認が意味を持つためには、その他者を対等な存在として認めなければならない。承認は一方通行では機能しない。
では、SNSの「いいね」とは、いったい何なのだろう。
足りない。常に足りない
渾身の投稿をしたとする。写真でも文章でもいい。自分では確かに価値があると思ったものを、世界に差し出した。
「いいね」がゼロだった。
投稿の内容は一文字も変わっていない。変わったのは、他者の反応という外部の数字だけだ。にもかかわらず、自分自身の価値まで揺らいでいる気がする。
マズローは人間の欲求を階層的に整理し、その中に承認の欲求を位置づけた。他者からの尊敬や評価を求める外的な承認と、自分自身の能力に対する内的な承認。この欲求自体は人間として自然なものだ。だがSNSはこの欲求を数値化してしまった。承認が数字になった瞬間、承認は比較可能になる。100の「いいね」と10の「いいね」。数字には大小があり、大小は優劣を生む。
「承認欲求を手放せ」「他人の評価に左右されるな」。よく聞く言説だ。だがこれは、ヘーゲルが200年以上前に否定した構造そのものではないか。自己意識は他者の承認なしには成立しない。ラカンの議論に従えば、自我そのものが外部の像への同一化によって構成されている。他者の視線を排除して「本当の自分」に戻ろうとしても、戻る先の「自分」がそもそも他者の視線によって作られている。
SNSのプロフィールを書いたことがあるなら、あの感覚に覚えがあるかもしれない。自分を「記述している」つもりが、途中から「設計している」感覚に変わっていく。「読書好き」と書く。嘘ではない。でも書いた瞬間から、積読をもう少し崩そうとしている自分がいる。プロフィールが自分を写したのではなく、自分がプロフィールに合わせにいっている。
承認欲求を捨てろと言う人は、たいてい、すでに十分な承認を得ている。
誰もいない
最初の問いに戻ってみる。
脳は150人分の関係しか処理できない。友情の大半は利害が消えれば蒸発する。関係を築く能力の出発点は自分では選べなかった。テクノロジーはこの構造を一切変えていない。それどころか、傷つく方法を増やしただけだ。
そして、つながりの先にいるはずの「自分」すら確かではない。舞台の裏に素顔はなく、鏡は正確に映さず、他者のまなざしは自分を固定し、最も自由なはずの「I」は永遠に手が届かない。自我は外から来た幻想で、承認は構造的に満たされない。
それでも人間は誰かを求める。ボウルビーの愛着理論が示唆していたのも、つまるところそういうことだった。孤独を苦痛に感じること自体が、「群れからはぐれた個体は生存率が下がる」という太古の選択圧に対する適応だ。夜中に感じる寂しさは弱さではない。数百万年かけて磨き上げられた生存アラームが鳴っているだけだ。
ただし、そのアラームを止める方法を、進化は一緒にパッケージしてくれなかった。
そしてこれらの問いは、もっと大きな、もっと抽象的な場所へ流れ出していく。
なぜ私たちは、構造的に孤独であるように設計されているのに、孤独に耐えられないのか。「つながり」の総量が有限であることを受け入れることと、諦めることの違いはどこにあるのか。すべての関係にはじまりと終わりがあるとして、「まだ終わっていない今」に意味はあるのか。そもそも「自分」が他者の視線の産物だとすれば、その「自分」が感じる孤独は、本当に「自分の」孤独なのか。あるいは、意味があると信じること自体が、進化に仕込まれたもうひとつの罠なのか。
もし一生誰にも見られなかったとしても、あなたはまだ「あなた」だろうか。どうせ死ぬ。その事実だけが、すべての問いに平等で、しかし何ひとつ閉じてくれない。
たぶん、この問いに答えはない。答えがないまま、あなたは明日も誰かに返信し、誰かの投稿にいいねを押し、誰かと並んでコーヒーを飲むだろう。150人の他人のうちの一人として。5人分の枠があるはずの最も内側の円に、今夜も誰を入れるか考えながら。
あるいは、もう考えることをやめて画面を閉じるだろう。閉じた画面に、あなたの顔がうっすら映っている。その顔を「自分だ」と呼ぶ根拠は、今この瞬間も、どこにもない。