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大学生活

哲学を学ぶデメリットあるいはメリット

「それって、どういう意味で言ってる?」 友人が「やっぱり努力って大事だよね」と言った。何気ない発言だ。同意すれば会話は流れる。しかし哲学科で二年を過ごした頭が勝手に動く。「努力」とは何を指しているのか。量の問題なのか、質の問題なのか。結果が伴わなければ努力ではないのか。そもそも努力できるかどうかは本人の意志だけの問題なのか。 「ねえ、そもそも努力って何?」 こうして、場の空気は死ぬ。 哲学を学ぶと、日常の会話が噛み合わなくなる。哲学が悪いわけでも、友人が悪いわけでもない。哲学的な思考と日常会話には、根本的な速度差と目的の違いがある。その差を自覚しないと、ただ「面倒くさい人」になるだけだ。 前提を確認したくなる 哲学では、議論の前に前提を確認する。 「幸せになりたい」と誰かが言ったとする。哲学の訓練を受けた人間の頭には、即座に疑問が浮かぶ。「幸せ」は主観的な感情のことか、客観的な状態のことか。快楽の多さを指しているのか、人生全体の充実を指しているのか。アリストテレス的なエウダイモニア(徳の実現としての善い生)なのか、功利主義的な快楽計算なのか。 日常会話では、こうした疑

By Sakashita Yasunobu

生きること

なぜ物を捨てても満たされないか

部屋がすっきりした。ゴミ袋が三つ。クローゼットには隙間ができた。 達成感がある。しばらくは気分がいい。新しい自分になった気がする。身軽で、自由で、本質的な何かに近づいた気がする。 三日もすれば、その感覚は消えている。部屋はきれいなままなのに、あなたの中の何かが元に戻っている。あるいは、元よりも少し空虚になっている。 「捨てれば楽になる」という信仰 断捨離。ミニマリズム。持たない暮らし。ここ十数年、「物を減らすこと」は一種の救済として語られてきた。物が少なければ心が軽くなる。本当に大切なものだけに囲まれた生活は、豊かで、自由で、本質的だ。そういう物語が広く共有されている。 だが、これはひとつの信仰にすぎない。 物を減らすことが心を軽くするという因果関係は、実はそれほど自明ではない。物を減らした直後の爽快感は確かにある。だがそれは、行動そのものがもたらす達成感であって、物が減ったことの効果ではないかもしれない。何かを「やり遂げた」という感覚。コントロールできたという感覚。それは一時的なものだ。 虚空をつかむが描いたように、幸福の追求はしばしば幸福から遠ざかる運動になる。断捨

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

予言が現実を書き換える世界

「この銀行は潰れる」。噂が広まる。預金者が窓口に殺到する。銀行は、本当に潰れる。 予測が正しかったのではない。予測が、正しさを作った。 未来を知ろうとした時点で、その未来はもう存在しない。代わりに、あなたの「知ろうとする行為」が作り上げた別の未来が、そこに立っている。 嘘が本当になる仕組み 1948年、社会学者ロバート・K・マートンは The Antioch Review 誌上でこの構造に名前を与えた。自己成就予言(self-fulfilling prophecy)。もともとは誤った状況の定義にすぎなかったものが、新しい行動を引き起こし、その行動がもともとの誤りを「真実」に変えてしまう。 マートンが参照したのは、W・I・トマスとD・S・トマスによるいわゆるトマスの定理だった。「もし人がある状況を現実だと定義するなら、それは結果において現実になる」。 銀行取り付け騒ぎは、その教科書的な事例だ。経営的にはまったく健全な銀行であっても、「危ない」という噂が十分に広まれば、預金者は合理的に引き出しに走る。個々の預金者の行動は合理的だ。自分の資産を守ろうとしているだけだ。しかしその

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

数学の足元が音もなく崩れた日

数学は確実なものだと信じられていた。論理によって導かれ、矛盾を許さず、人間の感情が入り込む余地のない純粋な体系。その数学が、たった一つの問いで自分自身を疑いはじめた。 「自分自身を含まない集合すべての集合は、自分を含むか」 含むなら、定義により含まないことになる。含まないなら、定義により含むことになる。この問いには答えがない。そして、この問いに答えがないということが、数学の基礎に穴が開いていることを意味していた。 一通の手紙が崩したもの 1901年、バートランド・ラッセルは集合論の内部にこの矛盾を見つけた。集合R、すなわち「自分自身を要素として含まない集合すべてを集めた集合」を定義する。RはRを含むか。含むと仮定すれば、Rは「自分を含まない集合」の条件を満たさないから、含まないはず。含まないと仮定すれば、Rはまさに「自分を含まない集合」なのだから、含むはず。どちらに転んでも矛盾する。 翌1902年6月、ラッセルはゴットロープ・フレーゲに宛てて手紙を書いた。 フレーゲは20年以上をかけて『算術の基本法則(Grundgesetze der Arithmetik)』を書き上げて

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

善意が静かに擦り減る場所で

「いい人ほど損をする」。SNSを開けば毎日のように流れてくるこの言説は、共感を集めやすい。誰しも「自分は頑張っているのに報われない」と感じた経験があるからだ。 だが、この言い方は雑すぎる。「いい人」とは何か。「搾取」とは何か。この2つの定義が曖昧なまま、結論だけが流通している。 「搾取」の定義を分ける まず「搾取」という言葉を分解する必要がある。 マルクス的な意味での搾取は、労働者が生み出した価値の一部を資本家が取得する構造を指す。ここでの搾取は個人の性格とは無関係で、構造そのものに組み込まれている。バイトで時給以上の価値を生み出していても、それはバイトである以上、構造的に当然のことだ。 心理学的な意味での搾取、いわゆる情緒的搾取は、一方が他方の感情を際限なく消費する関係を指す。友人の愚痴を毎晩3時間聞かされる。恋人の機嫌を常に伺い続ける。これは対等な関係における資源の不均衡だ。 そして日常語としての「搾取」は、「なんか割に合わない」という感覚のことを指していることが多い。 この3つは全く別の現象なのに、「搾取される」という一言にまとめられてしまう。 状況別に何が起

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大学生活

コンビニで買い込んでしまう

水を買いに入ったはずのコンビニで、気づけばチョコレートとおにぎりを持ってレジに並んでいる。意志が弱いのではない。あなたはそうなるように設計された空間の中にいる。 動線という誘導装置 コンビニに入ると、目の前には雑誌棚か新商品のプロモーション棚がある。目的の飲料は、ほぼ例外なく店の奥の壁面に並んでいる。偶然ではない。 小売業では、顧客が店内を移動する経路を「動線」と呼ぶ。コンビニの動線設計は、客をできるだけ多くの棚の前を通過させることを目的に最適化されている。飲料を奥に置けば、客は入口から最奥まで歩かなければならない。その途中に弁当、菓子、日用品が並ぶ。「ついでに」手が伸びる確率は、通過する棚の数に比例して上がる。 この原則はスーパーマーケットでも同じだ。牛乳や卵といった購入頻度の高い商品は、たいてい店の奥にある。客を奥まで歩かせるための配置だ。 レジ横の心理学 レジに並んだとき、目線の高さにあるのは小さな商品群だ。ガム、チョコレート、肉まん、からあげ。小売業界で「ゴールデンゾーン」と呼ばれるこの場所は、購買行動の最終関門であると同時に、最も無防備な瞬間でもある。 レジ

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ことばと文学

美術館で何を見ればいいか分からない理由

美術館に行って、困ったことはないだろうか。 白い壁。静かな空間。真剣な顔で作品の前に立つ人たち。あなたはその中に入り、最初の作品の前で立ち止まる。キャプションを読む。作品を見る。何も起きない。隣の人は何かを感じているように見える。腕を組み、小さく頷き、しばらく動かない。あなたは不安になる。自分には何かが足りないのではないか。感受性が欠けているのではないか。 安心してほしい。「何を見ればいいか分からない」は正直な反応であり、恥ずかしいことではない。問題はあなたにではなく、美術館という空間が暗黙に要求しているものにある。 「感じればいい」は何の役にも立たない 美術鑑賞についてアドバイスを求めると、高い確率で返ってくるのが「難しく考えなくていい、感じればいい」という言葉だ。 善意から出た言葉だろう。しかし、これはほとんど何も言っていない。「感じろ」と言われて感じられるなら、最初から困っていない。感じ方が分からないから困っているのだ。 「感じればいい」は、美術に親しんでいる人が自分の経験を言語化できないときの逃げ口上にすぎないことがある。長年の蓄積によって身体化された鑑賞の技術を

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大学生活

震える声のままで構わない

ゼミや授業で発言するのが怖い。その不安の正体は「間違ったらどうしよう」だ。だが、「間違えない発言」を目指す必要はない。目指すべきは、「恥をかかない発言」の型を持つことだ。 賢く見せようとするから怖くなる。守りに徹すれば、発言のハードルは大きく下がる。 発言で恥をかく4つのパターン まず、避けるべき型を知っておく。 断定する。 「それは間違いです」「絶対にこうです」。ゼミでこれをやると、根拠を問われたときに逃げ場がなくなる。そもそも学問の場では、断定できることの方が少ない。 一般化する。 「みんなそう思っています」「普通はこうです」。主語が大きすぎる発言は、反例一つで崩れる。「誰が」「どの範囲で」を限定していないから、簡単に突っ込まれる。 人格に触れる。 「そういう考え方をする人は...」。議論の対象を意見から人格にずらした瞬間、場の空気が壊れる。反論すべきは主張の内容であって、主張する人ではない。 論点をずらす。 今の議題と関係のない話を始めてしまう。本人は関連があると思っていても、他の参加者にとってはそう見えない。 「確認、限定、仮説」の型 恥をかかない発言には

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生きること

嫌いなものに支えられて生きている

広告ブロッカーを使っている。 YouTubeのプレロール広告を飛ばし、Webサイトのバナーを非表示にし、SNSのインフィード広告をできるだけ目に入れないようにしている。広告は不快だ。見たくないものを見せられる。時間を奪われる。認知資源を消耗させられる。 その一方で、広告ブロッカーを使いながら無料のWebサービスに依存している。YouTube、検索エンジン、SNS、ニュースサイト。これらが無料で使えるのは、広告収入によって運営されているからだ。広告を嫌いながら、広告が支える無料サービスなしには生活が成り立たない。この矛盾に自覚的であることが、広告について考える出発点になる。 広告の機能を分解する 「広告は悪だ」と断じる前に、広告が何をしているのかを分解したほうがいい。 情報伝達機能。 「この商品が存在する」「このサービスが始まった」と知らせること。これ自体は中立的だ。知らなければ選択肢にすら入らない。新しい製品やサービスの存在を消費者に届ける手段として、広告は機能している。 説得機能。 「買うべきだ」「使うべきだ」と思わせること。ここから操作性が入る。情報の伝達と欲望の喚起

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大学生活

大学生、初めてのレポート

大学に入って最初に戸惑うのが、レポートだ。高校までの感想文や作文とはまるで違う。レポートとは、問いに対して根拠を示しながら答える文書のこと。「何を書けばいいかわからない」のは、問いの立て方と論証の型を知らないからにすぎない。 感想文とレポートは違う 感想文は「私はこう感じた」を書く。レポートは「この問いに対して、この根拠から、こう言える」を書く。 求められる力も異なる。感想文が感性と表現力なら、レポートは情報収集力、分析力、論理力だ。この違いがわかるだけで、書くものの輪郭はかなりはっきりする。 課題文を正しく読む 「〇〇について述べよ」という課題を受け取ったら、すぐに書き始めてはいけない。まず3つのことを確認する。 * 何を聞かれているのか。問いの核を正確に特定する * どこまで答えるのか。論じる範囲を絞る * どう答えるのか。説明なのか、比較なのか、批判的検討なのかを見極める 「述べよ」はたいてい「説明せよ」の意味だ。「論じよ」なら、自分の見解を根拠とともに示すことが求められている。「考察せよ」は、先行研究や事実を踏まえた上での分析を意味する。 課題の動詞ひ

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技術

エンジニアを目指す大学生が取るべき資格

「資格なんていらない、実力があればいい」。エンジニア志望の大学生がSNSで一度は目にする言葉だ。一方で「資格を取っておけ」と勧める声もある。どちらにも一理ある。しかし、どちらも半分しか正しくない。 「資格は意味ない」の半分だけ正しいところ 「資格より実務経験」。これは事実だ。採用の現場で重視されるのは、何ができるかであって、何を持っているかではない。資格の有無だけで採否が決まることは、まずない。 しかし、大学生には実務経験がほとんどない。インターンで多少の経験を積んでいたとしても、実務を何年も積んだエンジニアと同じ土俵には立てない。実務経験がない段階で「実力で示す」と言っても、示す手段が限られている。 資格は、その限られた手段のひとつだ。特に新卒採用では、応募者の技術レベルを短時間で判断する必要がある。そのとき「基本的な知識がある」ことの客観的な証拠として、資格は機能する。 ただし、すべての資格が同じ価値を持つわけではない。取る意味のある資格と、学生のうちには取っても意味が薄い資格がある。ここからは、その区別を整理する。 まず取るべき国家資格 IT系の国家資格は、IP

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大学生活

図書館の役割、あるいはスタバについての論考

「図書館で勉強する」と言えば、誰も何も言わない。「スタバで勉強する」と言えば、一定数の人が眉をひそめる。 やっていることは同じだ。テキストを開き、ノートを広げ、何かを読んで何かを書く。場所が違うだけで、行為そのものは変わらない。なのに、片方は当然のこととして受け入れられ、もう片方は議論の種になる。 この非対称は、場所というものが単なる物理的な空間ではないことを示している。 場所には「脚本」がある 建物には、設計者が想定した使い方がある。図書館は本を保管し、閲覧するための施設として設計された。カフェはコーヒーを飲みながら会話を楽しむための場所として設計された。 しかし、人は設計者の意図通りには動かない。大学図書館の閲覧席を見れば明らかだ。蔵書を閲覧している学生よりも、持ち込んだ教科書で自習している学生のほうが圧倒的に多い。図書館は「本を借りる場所」から「静かに勉強する場所」へと、いつのまにか読み替えられている。 この変化には歴史的な背景がある。大学図書館は、1990年代以降、「ラーニングコモンズ」という概念のもとで機能を拡張してきた。従来の蔵書管理と閲覧提供に加え、グループ

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