線はどこにもなかった

あなたは今、何かの「内側」にいる。

部屋の中。国の中。言語の中。「自分」の中。どこを見ても、境界がある。内と外を分ける線がある。しかし、その線を指で触ろうとすると、何も触れない。近づけば近づくほど、線はぼやけていく。

私たちは線を引くことで世界を理解する。昼と夜、善と悪、生と死、自己と他者。分けることが、理解することだと信じている。しかし、分けられないものを分けているのだとしたら、その「理解」は何なのか。

砂の一粒

ギリシアの哲学者エウブリデスが提起したとされるソリテスのパラドクス(砂山の逆理)は、境界の不在を最も明快に示す。

砂山がある。そこから一粒を取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。この推論を繰り返すと、最後の一粒になっても「砂山」であることになる。あるいは逆に、一粒は砂山ではない。二粒も砂山ではない。この推論を繰り返すと、百万粒あっても「砂山ではない」ことになる。

どこかに境界があるはずだ。「砂山」と「砂山ではないもの」を分ける、一粒の差。しかし、その一粒を特定することは誰にもできない。99粒は砂山ではないが100粒は砂山だ、とは誰も言えない。境界は存在するはずなのに、どこにも見つからない。

このパラドクスは砂の話ではない。「若い」と「若くない」の境界はどこか。「背が高い」と「背が低い」の境界はどこか。何本の髪を失えば「禿げている」のか。これらの問いに明確な答えはない。私たちが日常的に使う概念のほとんどは、境界が曖昧な「ヴァグネス(vagueness)」を含んでいる。

何も確かではないという問いが認識論のレベルで確実性を揺さぶったように、ソリテスのパラドクスは概念そのもののレベルで確実性を揺さぶる。私たちが世界を分節するために使っている言葉は、本質的に境界を持たない。持たないのに、私たちは持っているかのように振る舞っている。

二項対立の嘘

ジャック・デリダは、西洋哲学の伝統がいかに「二項対立」に依存しているかを暴いた。

善と悪。精神と身体。理性と感情。男と女。自然と文化。話し言葉と書き言葉。これらの対立は、単なる区分ではない。つねに一方が他方よりも上位に置かれる。善は悪より上、精神は身体より上、理性は感情より上。西洋哲学の歴史は、この階層化された二項対立の歴史だとデリダは主張した。

デリダの「脱構築」は、この二項対立を解体する作業だ。しかし、単に上下を逆転させるのでも、対立を否定するのでもない。脱構築は、二項対立の境界そのものが不安定であることを示す。AとBの間に引かれた線が、実はAの中にBの痕跡があり、Bの中にAの痕跡があることによって、つねにすでに汚染されていることを示す。

彼が導入した「ディフェランス(différance)」という概念は、この境界の不安定性を表現するためのものだった。意味は差異の体系の中で生じるが、その差異は固定されていない。つねに「延期」されている。AはBとの差異によって意味を持つが、Bもまた他の差異に依存している。意味は永遠に確定しない。境界は永遠に揺れている。

全員が正しいのだとしたら、正しさと誤りの境界はどこにあるのか。デリダの視点からすれば、その境界は最初から存在しない。あるのは、境界があるかのように振る舞う慣習だけだ。

線を引く権力

境界が「自然に存在しない」のだとすれば、境界は「引かれる」ものだ。そして、引く行為には権力が伴う。

国境がその最も明白な例だ。ワイオミング州の境界線は、いかなる地理的な断絶にも対応しない。ただの直線だ。しかしその直線の内側と外側では、法律が異なり、税制が異なり、権利が異なる。線そのものには何の根拠もないのに、線が引かれた瞬間から、人間の運命が変わる。

ジョゼフ・カレンズは、国境を「封建的特権の現代版」と呼んだ。どこに生まれるかで人生が決まる。裕福な国に生まれた者は自由に移動でき、貧しい国に生まれた者は壁に阻まれる。この不平等は、線が引かれる場所と、線を引く権力の不均衡から生じている。われわれは「投げ込まれた」場所を選んでいない。しかし、その場所がどの線の内側にあるかで、すべてが決まる。

他方、クリストファー・ヒース・ウェルマンは、正当な国家は「結社の自由」に基づいて移民を排除する権利を持つと論じた。共同体が自らの境界を決定する権利。誰を入れ、誰を入れないかを選ぶ権利。しかしこの論理をたどれば、すべての排除は正当化されうる。クラブが会員を選ぶように、国家が市民を選ぶ。その選別の基準は、結局のところ、線の内側にいる者が決める。

国境の倫理学が突きつけるのは、境界が持つ暴力性だ。線を引くことは、つねに誰かを排除することだ。そしてその排除の根拠は、線そのものにはない。線に根拠を与えるのは、線を引いた側の権力だ。

生と死の間

境界の問題は、政治だけの問題ではない。もっと根源的な場所にもある。

生と死の境界はどこにあるのか。かつてそれは明確だった。心臓が止まれば死んでいる。しかし人工呼吸器と心臓マッサージがその境界を曖昧にした。脳死は死なのか。植物状態は生きているのか。法律的には脳死をもって死と定義する国が多いが、哲学的にはまったく決着がついていない。

生の始まりも同様だ。受精の瞬間か。心拍が始まるときか。神経系が形成されるときか。出生の瞬間か。この問いに答えることは、中絶の倫理に直結する。そして、どの答えもソリテス的な困難を抱えている。「ここから先が人間だ」と言える一瞬を特定することは、一粒の砂が砂山になる瞬間を特定するのと同じくらい不可能だ。

善も正義もないのだとしたら、生と死の間に引かれる線にも正義はない。それは便宜的な線であり、医学的・法的な合意に基づく線であり、しかし本質的な線ではない。連続的なものを二つに切り分けるための、恣意的な切断だ。

自分の輪郭

最も身近な境界は、「自分」の境界かもしれない。

身体の表面が自分の境界だと思うかもしれない。しかし、私の体内には私ではない微生物が数兆個いる。呼吸するたびに外気が体内に入り、体内のガスが外に出る。食べたものは私になり、排泄物はもう私ではない。私の身体と外界の境界は、つねに交換され、更新されている。

精神的な境界はもっと曖昧だ。どこが私なのかという問いは、自己の輪郭が描けないことを突きつける。記憶は書き換えられる。性格は変わる。信念は移ろう。5年前の自分と今の自分を分ける線はどこにあるのか。テセウスの船と同じ問いだ。部品が入れ替わっても同じ船なのか。細胞が入れ替わっても同じ自分なのか。

他者との境界も怪しい。共感は他者の痛みを「自分の痛み」にする。愛は二人の間の境界を溶かす。言語は自分の思考を他者に移す。あるいは移したつもりにさせる。デリダの言う通り、自己の中にはつねに他者の痕跡がある。純粋な「自己」は存在しない。純粋な「他者」も存在しない。

分類という暴力

ここまで見てきたことを、もう少し広い文脈で考える。

何かを「分ける」という行為には、つねに暴力が伴う。連続的な現実を不連続に切り分けるのだから、切り口には必ず犠牲が生じる。虹の色を七つに分けるとき、六番目と七番目の間の微妙なグラデーションは消去される。人間を「男」と「女」に分けるとき、その二つに収まらない存在は見えなくなる。「正常」と「異常」を分けるとき、境界付近にいる者はどちらにも属さない不安定な場所に追いやられる。

分類は世界を理解可能にする。しかし同時に、世界を歪める。地図は領土ではない、というアルフレッド・コージブスキーの有名な警句が示すように、分類は現実そのものではなく、現実の近似にすぎない。しかし私たちは近似を現実と取り違える。線が「ある」と信じる。

隠すものなどなかったで論じたように、公と私の境界もまた恣意的な線だ。何がプライベートで何がパブリックかは、時代や文化によって変わる。かつて私的だったものがSNSによって公的になり、かつて公的だったものがプライバシーの名のもとに私的になる。線は動く。動くということは、最初から固定されていなかったということだ。

線を引かずには生きられない

結論は出ない。というより、出せない。

境界は存在しない。ソリテスのパラドクスが示すように、連続的な世界の中に明確な切断点はない。デリダが示すように、二項対立の境界はつねにすでに浸食されている。国境が示すように、線は権力によって引かれ、その内側と外側で不当な格差が生じる。

しかし、境界なしには何も語れない。「砂山」という言葉がなければ砂を語れない。「自分」という概念がなければ他者と関わることもできない。「生」と「死」を分けなければ医療は成立しない。「国」がなければ法は機能しない。境界は嘘だが、その嘘なしには社会も思考も言語も崩壊する。

私たちは、存在しない線を引きながら生きている。引かれた線が恣意的であることを知りながら、その線に従って行動している。線の向こう側に追いやられた者のことを忘れながら、線の内側にいる安心を享受している。

デリダは、脱構築は「外部」を持たないと言った。境界を批判する行為もまた、境界の内部で行われている。「分ける」という行為を問うためには、「問い」と「答え」を分けなければならない。「分けることの暴力」を語るためには、「暴力」と「非暴力」を分けなければならない。

線はどこにもなかった。しかし、私たちは線を引かずには一歩も進めない。そしてその線が、つねに誰かを傷つけている。線を引くという行為の責任を引き受けること。それは、線が存在しないと知った上で、なお引き続けなければならないという、救いのない認識だ。

あなたは今、この文章を「読んでいる」。しかし「読む」ことと「読まない」ことの境界はどこにあるのか。文字を目で追うことか。意味を理解することか。同意することか。記憶に残すことか。あなたがこの文章を「読んだ」かどうかさえ、誰にも分けられない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu