鎖のない牢獄

あなたは自由だと思っている。そう思っていること自体が、もう手遅れだという証拠なのだけれど。

「自由になりたい」と口にするとき、人はたいてい、何かから逃げたいだけだ。仕事から。人間関係から。退屈から。けれど、すべてから逃げ切った先に何があるか、想像したことはあるだろうか。おそらく、何もない。文字通り、何もない。そしてその「何もなさ」は、あなたが逃げてきたどの苦痛よりも、ずっと耐えがたい。

何もしなくていい地獄

長い休暇の最初の3日間は楽園だ。4日目から、楽園は少しずつ腐り始める。

目覚まし時計を止める必要がない朝。どこへ行ってもいい午後。何をしてもいい夜。それは自由の完成形のはずだった。けれど1週間もすれば、あなたはスマートフォンを無意味にスクロールしながら、なぜか以前より疲れている自分に気づく。

完全な自由は、無限の選択肢を意味する。そして無限の選択肢の前で、人は何も選べなくなる。レストランのメニューが300ページあったら、あなたは注文できるだろうか。おそらく店を出る。人生も同じだ。なおも自由という夢を見る人間だけが、選ぶたびに静かに壊れていく。「何にでもなれる」という祝福は、裏返せば「まだ何者でもない」という呪いにほかならない。そしてたいていの場合、何者にもならないまま、何者かになれたはずの時間だけが静かに過ぎていく。本当は暇が怖いだけなのだと認めるには、もう少し時間がかかる。

「何もしなくていい」は、自由の極致ではない。地獄の入口だ。

檻が世界をつくる

音楽には調性がある。俳句には五七五がある。サッカーには手を使えないというルールがある。

これらの制約を取り払ったらどうなるか。調性のない音は並べられる。だがそれを音楽と呼ぶかどうかは、また別の問題だ。五七五を無視した短い文章は書ける。だがそれは俳句ではない。手を使っていいサッカーは、サッカーではなく、ただの混沌だ。

アイザイア・バーリンは1958年のオックスフォードでの就任講演「二つの自由概念」で、自由に二つの顔を見出した。ひとつは「何かからの自由」、つまり他者からの干渉や強制がない状態。もうひとつは「何かへの自由」、つまり自分自身の意志で何かを選び取り、主体的に生きる力。前者だけを追い求めると、あらゆる壁を壊した先に、ただ荒野が広がっている。後者がなければ、自由は方角を持たない風になる。どこへでも吹くが、どこへも届かない。

制約は可能性を狭める。だからこそ、残された可能性に意味が宿る。すべてが許された世界では、何ひとつ特別ではない。禁じられているからこそ、破ることに意味が生まれる。ルールがあるからこそ、その中で何かを生み出す営みに光がある。

自由には骨格がいる。骨のない自由は、立ち上がることすらできない。そして皮肉なことに、骨格を与えられた動物は、やがてその鎖を愛するようになる

見えない飼い主

鎖で繋がれていれば、自分が囚われていることはわかる。問題は、鎖が見えないときだ。

ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』(1975年)で描いた権力は、暴君の顔をしていない。それはもっと静かで、もっと巧妙だ。外から押さえつけるのではなく、内側に染み込み、やがてあなた自身の声として語り始める。「これが正しい」「これが普通だ」「こうすべきだ」。その声が自分のものなのか、それとも外から植えつけられたものなのか、もはや区別がつかない。

フーコーがメタファーとして読み替えたのは、ジェレミー・ベンサムが1787年に構想したパノプティコンだった。円形の監獄の中央に監視塔がある。看守がいるかどうかは、囚人からは見えない。だから囚人は、常に見られているかのように振る舞う。実際には誰も見ていなくても。やがて看守は不要になる。囚人が自分自身の看守になるからだ。看守の目が届かない場所で何が起きるかは、透明人間の倫理の問題だ。

SNSのタイムラインは、このパノプティコンの洗練された現代版かもしれない。誰もあなたに「こう振る舞え」とは言っていない。けれど、いいねの数、フォロワーの増減、他人の輝かしい日常。それらを眺めながら、あなたは無意識のうちに自分を検閲している。何かを投稿する前に「これを載せたらどう思われるか」と考える。その瞬間、あなたはもう自由ではない。誰にも強制されていないのに。

「自由に生きている」と感じている人に聞いてみるといい。何から自由なのか、と。たいてい、沈黙が返ってくる。

金という名の首輪

経済的自由。これほど広く、これほど疑われることなく崇拝されている幻想もないだろう。

お金があれば好きな場所に住める。好きなものを食べられる。好きな時間に起きて、好きな時間に眠れる。それは確かに、自由のひとつの姿ではある。だが、その自由を手に入れるまでの過程で、あなたは何を差し出したか。

高い報酬のために自分の時間を売り、ようやく自由な時間を手に入れたと思ったら、今度はその時間を埋めることに追われる。旅行、趣味、自己投資。忙しさから解放されたはずなのに、空白が空白のままであることに耐えられず、新しい予定で埋め尽くす。首輪を外しても同じことだ。お金がなくなっても何も解決しない

ルソーは『社会契約論』(1762年)の冒頭にこう書いた。「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鎖につながれている」。18世紀の言葉だ。だが、これほど今に刺さる言葉もそうない。鎖の素材が変わっただけだ。鉄から、データに。鍵から、パスワードに。牢獄から、快適なオフィスの椅子に。

自由はトレードオフだ。ひとつの領域で鎖を外せば、別の領域で新しい鎖が締まる。そしてもっと残酷なことに、人は何かに縛られていないと不安になる。完全に自由な人間は、完全に孤独な人間だ。そしてその孤独は治らない。完全な孤独に耐えられる人間は、おそらくどこにもいない。

降りられない舞台

ここまで読んで、何かすっきりする答えを期待していたなら、残念ながら、そんなものはない。そもそも、そんなものがあると思っていたこと自体が、問題の一部かもしれない。

自由とは何かという問いに明確な答えを与えることは、自由をひとつの定義に閉じ込めることだ。「これが自由だ」と言い切った瞬間、それは新しい檻になる。自由について語ること自体が、自由を固定する行為であり、固定された自由は、もはや自由ではない。

だから、答えではなく、問いだけを置いていく。

もし明日、あなたのすべての義務が消えたら、何をするだろうか。1週間後も、同じことをしているだろうか。それを「自由」と呼ぶのか。それとも、ただ別の檻に引っ越しただけか。

あなたが「自由だ」と感じるその瞬間、本当に自由なのか。それとも、自由だと感じるように設計された環境の中に、うまく収まっているだけなのか。

自由を追いかけること自体が、すでに自由ではないとしたら。誰も何も選んでいないのだとしたら、追いかけているという感覚すら、あなたのものではないとしたら。

結局のところ、僕たちは鎖のない牢獄の中で、壁のない迷路を歩いているだけなのかもしれない。出口はどこにでもある。だが、どこに出ても、そこにはまた新しい迷路が広がっている。

そしていちばん恐ろしいのは、そのことに気づいても、歩くのをやめられないことだ。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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