放棄された問いたち

深夜に、あるいは退屈な午後に、不意にやってくる問いがある。答えを探しているわけではない。答えがあるとも思っていない。ただ問いだけが浮かんで、しばらく漂って、やがて沈む。翌朝にはもう思い出せない。思い出せたとしても、昨夜あれほど切実だったはずの問いが、朝の光の中ではひどく間の抜けたものに見える。

それでも問いは繰り返しやってくる。懲りもせず。

このテキストは、そういう問いの残骸を集めたものだ。体系も結論もない。哲学のふりをしているが、哲学になりきれていない。あるいは、哲学とはもともとそういう半端なものだったのかもしれない。ソクラテスは一冊の本も書かなかった。プラトンがそれを書き留めた。書き留められた時点で、それはもうソクラテスの問いではなくなっていた。


独り言としての対話

会話は根本的に独り言かもしれない。

そう言うと大げさに聞こえるが、実感としてはそれほど突飛でもない。誰かと話しているとき、私たちは本当に相手の言葉を聞いているだろうか。相手が口にした音を耳で拾い、自分の語彙と経験のフィルターに通して、自分の内側で「相手の言いたいこと」を組み立てている。聞いているのは相手の言葉ではなく、自分が再構成した「相手の言葉」だ。

ウィトゲンシュタインは『哲学探究(Philosophische Untersuchungen)』(1953)で、自分だけに通じる言語、いわゆる私的言語の不可能性を論じた。言語は本質的に公共的な実践であり、規則に従うということは共同体の中でのみ成り立つ。もし「痛み」という語が自分だけの内的感覚を指すのだとしたら、その語を正しく使えているかどうかを確認する基準がどこにもない。基準がなければ、「正しく使う」ということ自体が意味をなさない。だから言語は他者に向けて開かれている。

しかし言語が公共的であることと、他者を「理解している」ことは別の話だ。同じ単語を使っているからこそ、同じことを考えているという錯覚が生じる。「わかる」と言われたとき、何がわかったのか。相手が「わかった」と感じた内容と、こちらが「伝えた」と感じた内容は、たぶん一致していない。しかしそのずれは普段は見えない。見えないから会話は続く。

ガダマーは『真理と方法(Wahrheit und Methode)』(1960)で、理解はつねに「別様の理解(Andersverstehen)」であると論じた。対話であれテキストの読解であれ、完全な一致としての理解は幻想だ。むしろ差異こそが理解を動かす。相手と「同じ考え」に到達することが目的なのではなく、差異のなかで互いの地平が変容すること、それが対話と呼ばれるものの正体だ。「わかりあえない」ことは対話の失敗ではなく、対話が成り立つための条件そのものだ。

それでもなお話し続けるのは、なぜだろう。沈黙に耐えられないからか。独り言にすら聞き手が必要だからか。孤独は治らないからか。SNSに投稿するとき、特定の誰かに宛てているわけではない。しかし完全な独り言でもない。誰かが読むかもしれないという可能性だけが、書くという行為を支えている。既読がつかない恐怖は、自分の言葉が虚空に吸い込まれたことを突きつけられる恐怖だ。

会話とは、二つの独り言がたまたま交差する出来事にすぎないのかもしれない。しかしその「たまたま」に、私たちはずいぶん多くのものを賭けている。


あるいは無責任

「自分の言葉に責任を持て」とよく言われる。

しかし考えてみれば、言葉は発された瞬間に話者の手を離れる。音になった言葉はもう取り消せない。書かれた言葉はなおさらだ。読者がそれをどう受け取るか、どう解釈するか、どう曲解するかは、書き手にはまったく制御できない。

ロラン・バルトは「作者の死(La mort de l'auteur)」(1967)で、テキストの意味は作者の意図にではなく読者の読みに宿ると論じた。テキストは書かれた瞬間に著者から自律する。著者が「この文章で言いたかったのはこういうことだ」と主張しても、テキストはもう著者のものではない。無数の読者のあいだで、無数の意味が生成される。

デリダは「署名 出来事 コンテクスト(Signature événement contexte)」(1972)で、あらゆるテキストが持つ「反復可能性(itérabilité)」を論じた。テキストはその産出の文脈から切り離されて、まったく別の文脈で機能しうる。手紙が宛先に届かなくても、あるいは宛先とは別の人間に読まれても、テキストは意味を生み出す。これはテキストの欠陥ではない。テキストがテキストとして機能するための条件そのものだ。

無責任とは怠慢のことではない。言葉が他者に届いたあとの意味生成を原理的に制御できないという事実のことだ。ブログに書いた一文が10年後にまったく別の文脈で引用されたとき、その「責任」はどこにあるのか。「そういう意味じゃなかった」という弁明は、意図が意味を統御できるという前提に立っている。しかし意図は意味を統御できない。テキストの意味を固定しようとする注釈や免責事項すら、新たな解釈の対象にしかならない。

「自分の言葉がどう読まれるかは、自分には決められない」。これを認めることは怠惰ではなく、ある種の誠実さではないか。私たちは「伝わること」を前提に書いている。しかし厳密には、そんな保証はどこにもない。それでも書く。書くしかない。


退屈の底

退屈は、何もすることがないから生じるのではない。

ハイデガーは1929年から30年にかけてのフライブルク大学講義(『形而上学の根本諸概念(Die Grundbegriffe der Metaphysik: Welt – Endlichkeit – Einsamkeit)』)で、退屈を三つの段階に分けた。第一の形態は、何かによって退屈させられること。列車を待つ退屈がこれにあたる。対象があり、原因がある。第二の形態は、何かに際して退屈すること。パーティに出かけて、楽しもうとしているのに何となく退屈だ。退屈の原因は特定できず、状況全体にぼんやりとかかっている。そして第三の形態、最も深い退屈は、ただ「なんとなく退屈だ(es ist einem langweilig)」という、対象も原因も持たない退屈だ。特定の何かが退屈なのではない。存在全体が沈み込み、あらゆるものが等しくどうでもよくなる。ハイデガーはこの深い退屈の中でこそ、人間は自分の存在の根本に直面させられると論じた。

パスカルは『パンセ(Pensées)』で、人間が気晴らし(divertissement)に走る理由を分析した。人間が自分の部屋にじっと座っていられないのは、動かない自分自身に耐えられないからだ。気晴らしは退屈の解消ではなく、自分自身からの逃避だ。退屈は単なる心理状態ではない。人間の条件そのものに根ざしている。

スマートフォンを手に取るとき、人は何から逃げているのか。エレベーターの中でポケットに手を伸ばし、30秒の沈黙をスクロールで埋める。通知が来ていなくてもアプリを開く。何を見ているわけでもない。ただ、何もしていない自分に耐えられない。暇が怖いだけなのか。「暇」と「退屈」は似ているが本質的に違う。暇は時間の空白だ。退屈は意味の空白だ。予定のない午後は暇だが、退屈ではないかもしれない。逆に、予定で埋め尽くされた一日のなかでも、深い退屈は忍び寄る。

ビョンチョル・ハンは『疲労社会(Müdigkeitsgesellschaft)』(2010)で、現代社会を「否定性の消滅」として描いた。あらゆるものが可能であり、あらゆるものが求められ、立ち止まることが許されない社会。つねに何かをしていなければならないという強迫。生産性を追い求める文化は、退屈への恐怖が生み出したものかもしれない。

しかし退屈のなかにとどまること自体が、ある種の勇気ではないか。退屈を感じられなくなった人間は、たぶん何かを失っている。ハイデガーが語った「深い退屈」に沈む余白を、私たちはもう持っていない。退屈は自己と向き合うための最後の裂け目だったのかもしれないのに。


選ばなかった人生

選ばなかった選択肢は消えるのか、それとも影のように残り続けるのか。

キルケゴールは『不安の概念(Begrebet Angest)』(1844)で、不安(Angest)は自由の可能性から生じると論じた。不安とは、何か特定のものへの恐怖ではない。何かを選びうるということ、そして選ぶことで他のすべてが閉じられるということ、その可能性の前に立たされたときの眩暈だ。不安の対象は「無」である。まだ何も起きていない。しかし何かが起こりうる。その「起こりうること」の重さが、不安として現れる。

サルトルは、人間は「自由の刑に処されている(condamné à être libre)」と述べた(『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』1946)。選ばないことすら一つの選択であり、責任から逃れる道はない。「仕方がなかった」「選択の余地がなかった」という言い訳を、サルトルは「自己欺瞞(mauvaise foi)」と呼んだ(『存在と無(L'être et le néant)』1943)。自分が自由であることから目を背け、外部の力に決定されたかのように振る舞うこと。それは自由の重さを軽くするための装置にほかならない。

「あのとき別の道を選んでいたら」という問いには答えがない。答えがないからこそ何度でも繰り返してしまう。選択の自由は祝福として語られがちだが、人はなおも自由という夢を見る。選択肢が増えれば増えるほど、選択はむしろ苦痛になるのに。何を選んでも「選ばなかったもの」が残る。後悔とは、閉じられた可能性への弔いだ。

選ばなかった人生のことを考えるとき、私たちは「いまの自分」が偶然の産物であるという事実に直面している。あらゆる選択の瞬間に世界は分岐し、私たちはそのうちの一つにしか住めない。しかしそれは悲劇ではなく、存在が持つ不可逆性そのものだ。戻れないからこそ、選択は重い。


忘れるという能力

記憶は美徳とされ、忘却は欠陥とされる。しかし本当にそうだろうか。

ニーチェは『反時代的考察(Unzeitgemäße Betrachtungen)』第二篇「生に対する歴史の利害(Vom Nutzen und Nachtheil der Historie für das Leben)」(1874)で、忘却は生の条件であると論じた。冒頭で彼は牧場の牛の姿を描く。牛は幸福そうに見える。なぜなら牛は過去を持たないからだ。瞬間を生き、瞬間のうちに沈む。人間は過去を忘れられないがゆえに、過去の重さに押しつぶされる。歴史への過剰な執着は生命力を衰えさせる。

さらに『道徳の系譜学(Zur Genealogie der Moral)』(1887)第二論文では、忘却を「能動的な制止力(ein aktives, im strengsten Sinne positives Hemmungsvermögen)」として描いた。忘却とは意識の扉を閉じて新しいものを受け入れるための積極的な能力だ。忘れることは受動的な劣化ではなく、能動的な選別であり、生きるために必要な浄化作用だ。

ボルヘスの短篇「記憶の人フネス(Funes el memorioso)」(1942)は、この問題を文学的に極限まで推し進めた。落馬事故のあと、フネスはあらゆる知覚を完全に記憶するようになる。ある日の雲の形、本の一字一句、葡萄棚の葉の一枚一枚。フネスの世界は細部の洪水だ。犬を横から見た姿と正面から見た姿を、同じ名前で呼ぶことが理解できない。なぜならそれは別のものだから。しかし「犬」という概念は、無数の個別の犬から差異を捨象して初めて成り立つ。忘却は一般化と抽象化の前提条件であり、つまり思考そのものの条件だった。フネスはすべてを覚えていたが、考えることができなかった。

デジタル技術はすべてを記録する。検索エンジンは忘却を不可能にしつつある。かつては自然に忘れられていたことが、検索一つで掘り返される。インターネット上の過去の発言は削除しても完全には消えない。「忘れてもらう権利」がEUで法的に議論されたのは偶然ではない。技術が忘却の恩恵を奪ったとき、人間はその恩恵の大きさにようやく気づいた。忘れられるとしても、それは必ずしも不幸ではなかったのに。

「忘れてはならない」が無条件の美徳であるかのように語られることがある。しかし、覚え続けることが常に正しいわけではない。人を許すことと忘れることの関係はどうだろう。許すとは忘れることなのか、忘れないまま許すことなのか。ニーチェならおそらく、過去を握りしめ続けることは過去に支配されることにほかならない、と言うだろう。


意味の過剰

私たちは意味を見出しすぎる。たぶんそれは意味という病だ。

カミュは『シーシュポスの神話(Le Mythe de Sisyphe)』(1942)で、不条理(l'absurde)を定義した。不条理とは世界の側にあるのでも人間の側にあるのでもなく、「意味を求める人間」と「不合理に沈黙する世界」との出会いにおいて生じるものだ。世界そのものは意味を持たない。しかし人間は意味なしには生きられない。この埋めがたい溝が不条理だ。

雲の形に顔を見る。パレイドリアと呼ばれるこの知覚現象は、脳の欠陥ではなく人間の認知の基本設計だ。ランダムなパターンの中に意味を見出すようにできている。星座もそうだ。夜空に散らばる恒星のあいだに線を引き、物語を与えた。星と星のあいだには何の物理的関係もない。光年単位で隔たった天体を地球から眺めた平面投影の上で、人間が勝手に結んだ線にすぎない。しかしその線は数千年の物語を支えてきた。意味の付与は人間の根源的な衝動であり、おそらく止めることはできない。

カミュは不条理に対する態度として三つを挙げた。自殺、信仰への飛躍、そして反抗。カミュは反抗を選んだ。シーシュポスは神々の刑罰として岩を山頂に運び上げるが、山頂に着くと岩はまた転がり落ちる。永遠に繰り返す。カミュはこの神話をこう結んだ。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない(Il faut imaginer Sisyphe heureux)」。岩を押し続けること自体が、不条理への反抗なのだ。

偶然の一致に「運命」を読み取りたくなるとき、人間の意味生産装置はフル稼働している。「すべてに意味がある」と「何にも意味はない」は、同じコインの裏表ではないか。どちらも、意味の問題をこれ以上考え続けることからの逃避だ。意味を見出すことが人間の条件であるなら、「意味がない」という認識もまた一つの意味付与にすぎない。無意味という意味。虚無主義すら、この構造から逃れられない。


午前三時の形而上学

なぜ哲学的な問いは深夜に浮かぶのか。昼間は忙しいからだ、と言ってしまえばそれまでだが、たぶんそれだけではない。

レヴィナスは『実存から実存者へ(De l'existence à l'existant)』(1947)で、不眠を哲学的な経験として論じた。不眠の中で、意識は対象を持たないまま覚醒している。何かを考えているのではない。何も考えていないのでもない。主体としての「私」が後退し、存在そのものが匿名的にざわめく。レヴィナスはこの経験を「イリヤ(il y a)」と呼んだ。フランス語で「ある(there is)」を意味するこの語が指すのは、「何もない」のではなく「何もないのに何かがある」という不気味な充満だ。暗闇のなかで沈黙そのものがざわめき始める。

パスカルは書いた。「この無限の空間の永遠の沈黙が私を恐怖させる(Le silence éternel de ces espaces infinis m'effraie)」(『パンセ』)。この一文は夜にこそ真実味を帯びる。昼の世界は人間的なスケールに収まっている。しかし夜空を見上げたとき、そのスケールが崩れる。無限の空間は何も語らない。語らないことの恐怖。

夜の思考は体系的ではない。断片的で、連想的で、脈絡がない。しかしそこにこそ、昼間の論理が抑え込んでいた何かが顔を出す。ブランショは『文学空間(L'Espace littéraire)』(1955)で「もう一つの夜(l'autre nuit)」について論じた。夜は昼の否定ではなく、昼とは別の秩序を持つ領域だ。昼の世界で道具として機能していた言葉が、夜の世界ではその機能を失い、言葉そのものとして浮かび上がる。

朝になって読み返すと、深夜に書き殴ったメモはたいしたことを言っていない。しかし、その「たいしたことなさ」こそが、夜の問いの本質かもしれない。深夜のメモは、検閲される前の思考の姿だ。朝の光のもとで整理され、体裁を整えられ、「たいしたこと」にされてしまう前の、生のままの思考。たぶんそれは、哲学がかつてそうであった姿に最も近い。


沈黙について

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』(1921)の末尾をこう結んだ。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen)」(命題7)。

哲学史上もっとも有名な一文の一つだが、ここで言われている「沈黙」が何を意味するのかは、実はそれほど明確ではない。語らないことなのか。語れないことなのか。語ることの意図的な放棄なのか。ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」として念頭に置いていたのは、倫理、美学、人生の意味といった領域だ。命題として語ることができない。しかし「語り得ない」ことは「存在しない」ことではない。むしろウィトゲンシュタイン自身が「本当に重要なこと」と考えていたのは、まさに語り得ない側のことだったと言われている。

沈黙は言葉の不在ではなく、言葉に対する態度だ。会話の中の沈黙は、言葉よりも多くを語ることがある。「言いたいことはあるが言わない」沈黙と「言いたいことがない」沈黙は、外からは区別がつかない。しかし内側から見れば、それらはまったく異なる経験だ。

ジョン・ケージの「4分33秒(4'33")」(1952)は、演奏者が楽器を一切鳴らさない楽曲だ。しかし会場が完全な沈黙に包まれることはない。咳払い、衣擦れ、空調の音、外から漏れる車の音。「沈黙」とは音の不在ではなく、意図された音の不在だ。そしてその不在こそが、普段は聞こえなかった音を前景化させる。沈黙は何かの欠如ではなく、それ自体が一つの表現だ。

現代は沈黙を恐れている。ポッドキャスト、BGM、通知音。あらゆる空白が音で埋められる。SNSでは沈黙していると「賛同している」と見なされることすらある。発言しないことに意味を読み込まれる。沈黙する権利、何かについて意見を持たない権利、意見を表明しない権利。それはいつのまにか贅沢品になった。


正しさの暴力

正しいことを言うことは、ときに暴力的だ。これは逆説ではなく、ごく日常的な観察だ。

論理的に正しい。道徳的に正しい。事実として正しい。正しさにはさまざまな種類があるが、いずれも共通して一つの力を持っている。正しさを口にした瞬間に、相手は「間違っている側」に追いやられる。反論の余地がなくなる。反論の余地がないことこそが暴力的なのだ。

日本語の「正論」という語は、しばしば批判的なニュアンスで使われる。正しいからこそ反論できない。反論できないからこそ受け入れがたい。この感覚は、正しさが持つ権力性への直感的な抵抗だろう。正しさは他者の複雑な事情を一刀両断にする。その切れ味のよさが、ときに残酷だ。

SNSでは「正しさの競争」が起きている。より正しい立場をとることが社会的な資本になる構造。誰かの発言を批判し、その批判がまた別の誰かに批判される。正しさの連鎖の中で、最初の発言が何だったのかはもう誰も覚えていない。重要なのは「正しい側」にいることだけだ。

「あなたの言うことは正しい。しかし、だからといって傷つかないわけではない。」この感覚は論理の外にある。正しさは論理の領域に属するが、傷つきは論理では処理できない。論理的に反論できないからこそ、傷つきは行き場を失う。

アドルノは『ミニマ・モラリア(Minima Moralia)』(1951)にこう書いた。「間違った生のなかで正しく生きることはできない(Es gibt kein richtiges Leben im falschen)」。正しさの追求そのものが、正しさとは何かを問い返されなければならない。善も正義もないのかもしれない。正しいことを言う人間が正しく振る舞っているとは限らないし、間違っている側に立つ自由もまた、守られるべきものだろう。


所有と自己

私たちは何かを「持っている」ことで自分を定義しようとする。

エーリッヒ・フロムは『生きるということ(To Have or to Be?)』(1976)で、人間の存在様式を「持つこと(having)」と「あること(being)」に分けた。現代社会は「持つ」ことを中心に組み立てられている。知識を持つ。経験を持つ。スキルを持つ。意見を持つ。しかし「持つ」ことで自己を定義するとき、失うことは自己の崩壊を意味する。仕事を失い、肩書きを失い、「自分が何者かわからなくなった」と語る人の言葉は、自己が「持ち物」のリストで構成されていたことを図らずも告白している。

「趣味は何ですか」という問いは、よく考えると「何を所有していますか」に近い。自己紹介の場面で人は自分の「持ち物」を陳列する。経験、スキル、実績、関心。「持ち物」なしに自己を語ることは、驚くほど難しい。サブスクリプションの時代に「持つ」とは何を意味するのか。音楽も映画も書籍も所有ではなくアクセス権の問題になった。お金がなくなっても何も解決しないように、もともと「所有」はそんなに確かなものだったろうか。ミニマリズムは「持たないこと」を称揚するが、「持たないことを持っている」のではないか。

ハイデガーは「世界内存在(In-der-Welt-sein)」(『存在と時間(Sein und Zeit)』1927)という概念で、人間の存在を描いた。人間は世界の外側から関わる主体ではなく、つねにすでに世界の中に投げ込まれ、世界と絡み合っている。何かを「持つ」主体がまずいて、そこに所有物が付け加わるのではない。「持つ/持たない」という枠組みそのものが、存在の在り方に対して二次的なものなのかもしれない。


習慣の亡霊

人は習慣の中で生き、習慣の中で死ぬ。

ヒュームは『人間本性論(A Treatise of Human Nature)』(1739-40)で、因果関係への信念は理性ではなく習慣(custom)に基づくと論じた。太陽がこれまで毎朝昇ったから明日も昇ると信じるのは、論理的必然ではない。過去のn回の繰り返しから未来のn+1回目を推論する論理的根拠は、どこにもない。それは繰り返しがもたらす心理的傾向、つまり習慣にすぎない。私たちが「当たり前」と感じている世界の秩序の大部分は、習慣の上に築かれている。

毎朝コーヒーを淹れること。歯を磨くこと。同じ駅で降りること。習慣は生活の骨格であり、その骨格がなくなったとき何が残るのかは実はよくわからない。旅先で「いつもの自分」が揺らぐ感覚があるのは、環境が変わることで習慣が剥がれ落ち、その下にあるもの、あるいはその下に何もないことが一瞬だけ見えるからかもしれない。習慣に守られた日々は何も起きなかった日として記憶から消えていく。

ベケットの『ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)』(1952)。二人の登場人物が毎日同じ場所に来てゴドーという人物を待つ。ゴドーが何者なのか、本当に来るのかは最後までわからない。それでも二人は待ち続ける。「待つ」という習慣を捨てられないからか、あるいは待つこと以外にすることがないからか。

ハイデガーは『存在と時間(Sein und Zeit)』(1927)で「ダス・マン(das Man)」という概念を導入した。日常的な存在様式において、人間は「ひと(man)」として生きている。ひとがするようにし、ひとが考えるように考え、ひとが楽しむように楽しむ。それは非難ではなく記述だ。日常性とはそういうものだ。習慣とは「ダス・マン」のもっとも身近な現れかもしれない。ウィリアム・ジェイムズは『心理学原理(The Principles of Psychology)』(1890)で「習慣は社会の巨大なはずみ車である」と書いた。習慣なしに社会は動かない。しかしその同じメカニズムが、個人を同じパターンに閉じ込める。「自分らしさ」の大部分が習慣の集積にすぎないのだとしたら、習慣を変えることの難しさは、自己を変えることの難しさに等しい。


名前の偶然性

自分の名前を自分で選んだ人はいない。

生まれたときに与えられ、その名前で呼ばれ続けるうちに、いつのまにかその名前が「自分」になっていく。名前が自己を形成するのか、自己が名前に意味を与えるのか。

クリプキは『名指しと必然性(Naming and Necessity)』(1980)で、名前は「固定指示子(rigid designator)」であると論じた。名前はあらゆる可能世界を越えて同一の対象を指し示す。アリストテレスが哲学者にならなかった世界を想像しても、「アリストテレス」はその同じ人物を指す。名前は属性に還元されない。「プラトンの弟子で『形而上学』を書いた人」という記述をすべて満たさなくても、アリストテレスはアリストテレスだ。名前は属性の束ではなく、ある個体への直接的な指示だ。

インターネット上のハンドルネームは「自分で選んだ名前」だ。選んだ名前のほうが本名より「自分らしい」と感じる人がいる。匿名で書くとき、人は「もう一人の自分」になるのか、それとも「本名のときに抑えていた自分」を解放するのか。名前を呼ばれることは存在を承認されることだ。名前のない存在は社会的にはほとんど存在しないに等しい。名前は偶然に与えられ、しかしその偶然が一つの必然のように人生にまとわりつく。


翻訳不可能なもの

ある言語にしか存在しない概念がある。

日本語の「木漏れ日」にぴったり対応する英語はない。ポルトガル語の「saudade」は単なる郷愁ではなく、失われたものへの甘く痛い憧憬であり、取り戻せないという諦めが含まれている。翻訳不可能な語があるということは、ある文化にしかない経験があるということだろうか。それとも、経験そのものは普遍的であり、言語による分節のしかたが異なるだけなのか。

哲学のテキストを翻訳するとき、この問題は切実になる。ハイデガーの「Dasein」は日本語では「現存在」と訳されるが、ドイツ語における日常的なニュアンス、つまり「そこにいること(Da-sein)」という素朴な響きは消えてしまう。英語で「Being」と訳されたものを日本語で「存在」と訳した時点で、英語圏の読者と日本語圏の読者は、厳密には別の哲学に向き合っている。言語の境界で世界はそこで終わっている

ベンヤミンは「翻訳者の使命(Die Aufgabe des Übersetzers)」(1923)で、翻訳は原文の「来世(Fortleben)」だと述べた。翻訳は原文と同一ではない。しかし原文を生き延びさせる。すべての言語が究極的に志向する「純粋言語(reine Sprache)」を、翻訳は遠くから指し示す。翻訳とは完全な等価物を作る作業ではなく、ある根本的な不可能性と折り合いをつける営みだ。母語でしか泣けないという感覚を外国語に訳すことはできない。しかしその不可能性を語ること自体が、すでに翻訳の試みだ。


死者との会話

本を読むという行為は、死者の思考に触れることだ。

プラトンは2400年以上前に死んだ。しかし『国家(Politeia)』を開けば、ソクラテスの声がそこにある。デカルトの懐疑も、カントの定言命法も、テキストの中で動き続けている。書かれた言葉は話者の死を超えて存続する。これは驚くべきことだが、あまりに当たり前なので普段は驚かない。

しかし考えてみてほしい。テキストは著者の意図を超えて読まれ続ける。プラトンが21世紀の読者を想定して書いたはずがない。しかし私たちはプラトンを「読んでいる」。読みは著者の意図に還元できない。デリダが論じた反復可能性(itérabilité)の問題がここにもある。テキストは著者が現前していなくても、著者が死んでいても、機能する。これはテキストの本質的な特性であり、欠陥ではない。

死者に反論はできない。死者との対話は常に一方通行だ。こちらが何を語りかけても、テキストは同じ文字列を返すだけだ。しかし哲学の営みの大部分は、この一方通行の対話で成り立っている。アリストテレスに異を唱え、カントを批判し、ニーチェの意図を推測する。応答は返ってこない。しかしテキストは読まれるたびに少しだけ違う意味を生む。ガダマーは「地平の融合(Horizontverschmelzung)」(『真理と方法』1960)という概念で、過去のテキストの理解を論じた。読者の地平と著者の地平が出会い、新しい理解が生まれる。しかしこの融合は完全な一致ではなく、つねに差異を含む。だからこそ同じテキストを何度読んでも新しい意味が生まれる。死者は、読まれるたびに少しだけ違う言葉を語る。

図書館は死者たちの声で満ちている。これほど静かで、これほど賑やかな場所はほかにない。すべてのテキストは遺書であると言えるかもしれない。書くことは、自分の不在を前提にした行為だ。いま書かれているこの文章もまた、いずれ書き手の手を離れ、書き手がいなくなったあとも残り続けるかもしれない。残らないかもしれない。どちらにせよ、書き手にはもう関係のないことだ。


断片

人間が絶滅したあと、宇宙は「存在する」と言えるのか。観測者なき存在とは何か。

動物は退屈するのだろうか。

なぜ人は自分の声の録音を嫌うのか。自分が知っている「自分の声」と、他者が聞いている「自分の声」は別の音だ。どちらが本物かという問いには答えがない。どちらも本物であり、どちらも不完全だ。

生まれてこなかった人は損をしているのか。反出生主義(antinatalism)はこの問いを真剣に受け止めた数少ない立場だ。存在しないことの利害を、存在しない主体について語ることは可能なのか。

「好きな色は何ですか」という問いに、本当に正解はあるのか。自分が何を好きかを、自分は本当に知っているのか。内省は信頼に足るものか。

100年後に自分を覚えている人間はたぶんいない。それは恐ろしいことなのか、安堵なのか。

嘘をつくために言語は発達したのか、真実を伝えるために発達したのか。どちらの仮説にも、不愉快なほどの説得力がある。

未来の自分は「自分」か。10年後の自分に約束をする根拠は何か。約束を交わした相手はもういないのに。

エピクロスは言った。死は私たちにとって何でもない、と。私たちが存在するとき死はなく、死があるとき私たちは存在しないのだから。自分の死を恐れることは、合理的か。そもそもあなたは死ねないのだとしたら。

宇宙に目的がないなら、朝起きる理由は何か。

同じ曲を何度聴いても飽きないのはなぜか。繰り返すたびに同じ曲が少しだけ違って聞こえるのは、曲が変わったのではなく、聴いている自分が変わったからだ。

すべての人間関係には賞味期限があるのか。あるとしたら、それを知りながらなお関係を結ぶのはなぜか。


遺書としてのテキスト

書くことは思考の記録ではない。書くことは思考そのものだ。

書く前に完成した考えがあり、それを文字に移し替える、というのは素朴な誤解だ。実際には書くことによって初めて考えは形をとる。頭の中では完璧に思えたアイデアが、書き出した瞬間に崩れる経験を知らない書き手はいない。言語化は思考の不完全さを露呈する。しかし書かなければ、その不完全さにすら気づかない。哲学は文学的表現を必要とするかという問いは、この不完全さをどう引き受けるかという問いでもある。

プラトンは『パイドロス(Phaidros)』で文字を批判した。文字の発明者である神テウトがエジプトの王タモスにそれを献上したとき、王はそれを退けた。文字は記憶を弱め、魂の中の生きた知識の代わりに、外部化された死んだ知識をもたらすだけだ、と。文字は問いかけに答えることができない。同じことを繰り返すだけだ。生きた対話に比べれば、テキストは影にすぎない。

しかし皮肉なことに、この批判自体が「書かれた言葉」として2400年を生き延びている。文字がなければ、プラトンの文字批判は私たちに届かなかった。書くことへの不信は、書くことによってしか表現できない。

メモは思考の化石だ。メモを取った瞬間の思考はもう存在しないが、その痕跡だけが残る。化石から生きていた生物を完全に再現できないように、メモから書いた瞬間の思考を復元することはできない。しかし痕跡は何かを伝える。不完全に、不正確に、しかし何かを。

「うまく言葉にできない」という経験は、思考が言語に先立って存在しているように感じさせる。しかし言語なしの思考は、どこまで「思考」と呼べるのだろうか。ウィトゲンシュタインが示したように、言語は私的なものではありえない。だとすれば、思考もまた完全に私的なものではありえないのかもしれない。

このテキストもまた残骸だ。書かれ、したがってすでに死んでいる。あなたはいま、ある思考の化石を読んでいる。その思考はもう存在しない。化石だけがある。それだけのことだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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