透明人間の倫理

善人はたぶんいない

ひとつ、思考実験をしよう。

もし今この瞬間、あなたが完全に透明になれるとしたら。誰にも見えない。カメラにも映らない。記録も残らない。法も届かない。そうなったとき、あなたは今と同じように振る舞うだろうか。

約2400年前、プラトンの『国家』第2巻で、グラウコンがソクラテスに向かってひとつの寓話を語った。

リュディア王に仕えるギュゲスという羊飼いが、ある日、地震によって大地に開いた裂け目へ降りていく。そこには青銅でできた馬があり、扉を開けると、中には人間の骸骨が横たわっていた。その指に、金の指輪がはまっている。ギュゲスはそれを抜き取った。

後日、指輪の石を内側に回すと自分の姿が見えなくなることに気づく。透明人間になったギュゲスは王宮へ上り、王妃を誘惑し、王を殺害し、自ら王座に就いた。

グラウコンはソクラテスにこう問いかけた。もし正しい人間と不正な人間それぞれにこの指輪を与えたなら、二人の行動に違いは出るだろうか。彼自身の答えは明快だった。違いはない。どちらも同じことをする。人が正しくあるのは、見られているからにすぎない。正義とは、弱さゆえの社会的な妥協であって、人間の本性ではない

2400年が経った。ぼくたちはこの問いに、まだ答えていない。

すべての壁に目がある

18世紀末、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムがひとつの建築を構想した。パノプティコンと呼ばれるそれは、円形に配置された独房の中央に監視塔を据えた収容施設だ。監視者は全囚人を一望できるが、囚人からは監視者の姿が見えない。

いつ見られているかわからない。それだけで、人は従順になる。

約200年後、ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』(1975年)で、この建築を単なる刑務所の図面としてではなく、近代社会の権力構造そのものとして読み解いた。フーコーによれば、パノプティコンの原理は監獄の外にも遍在している。学校、病院、軍隊、工場。規律を内面化させる仕組みは、あらゆる制度のなかに埋め込まれている。やがて外部の監視者は不要になる。人は自分自身を監視し始めるからだ。

フーコーはこの過程を、権力の内面化と呼んだ。

さて、ここで現在に戻ろう。あなたのポケットの中のスマートフォンは何だろう。SNSにログインした瞬間、あなたの発言は記録され、検索され、スクリーンショットに切り取られる可能性の中に置かれる。あなたはそれを知っている。知っているから、言葉を選ぶ。態度を整える。

ぼくたちはパノプティコンの中に住んでいる。しかもベンサムが夢想したものよりずっと精巧で、ずっと巧妙な、自発的に入居したパノプティコンの中に。

ギュゲスの指輪が問うたのは「見られていなければどうするか」だった。フーコーが描いたのは「見られているかもしれない、それだけで十分だ」という現実だった。

では、ぼくたちの道徳は、いったいどこに立っているのだろう。

深夜3時の赤信号

哲学の話が長くなった。もう少し現実味のある話をしよう。

深夜3時。誰もいない交差点。信号は赤。車は来ない。歩行者もいない。

渡るだろうか。

これは法律の問題にも、安全の問題にも見える。でもその奥に、もっと厄介な問いが眠っている。なぜ待つのか。あるいは、なぜ渡るのか。

もし「規則だから待つ」のであれば、それは社会契約の話だ。見られていなくても規則を守るのは、規則そのものに価値を認めているからか。それとも、習慣が判断を代行しているだけか。

カントなら、こう言うかもしれない。イマヌエル・カントは1785年の『道徳形而上学の基礎づけ』で、道徳の根拠を結果でも感情でもなく、理性そのものに置いた。「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。」誰が見ていようと見ていまいと関係ない。正しいことは、正しいから正しい。観客は不要だ。

美しい原理だと思う。そしてその厳格さは容赦がない。カントはこの原則を、殺人者が戸口に立つ場面ですら曲げなかった(「正直は美徳ではない」)。

ただ、深夜3時の交差点でこの定言命法を思い出す人間が世界にどれほどいるかは、また別の話だ。

匿名という名の指輪

ギュゲスの指輪は、寓話の中だけにあるわけではない。結果が永遠にリセットされる世界(「終わらない今日」)もまた、透明になるのとほとんど変わらない。

匿名のアカウント。使い捨てのメールアドレス。VPN。ぼくたちの手元には、透明になるための道具がいくつも転がっている。

匿名のSNSで人が何を書くかを眺めていると、グラウコンの仮説がどれほど鋭かったかに気づく。顔が見えず、名前がなく、責任を問われない空間で、言葉はときに驚くほどたやすく暴力に変わる。

もちろん、匿名であっても誠実な人はいる。見られていない場所で黙って善いことをする人もいる。しかし、それが「にもかかわらず」という例外として語られること自体が、何かを物語ってはいないだろうか。匿名でも誠実であることが称賛に値するなら、ぼくたちは暗黙のうちに、匿名なら不誠実になるほうが自然だと認めていることになる。

「バレなければいい。」

この言葉を、人生で一度も頭に浮かべたことのない人間は、たぶんこの世にいない。

善意に根拠はない

ぼくたちは結局、2400年前と同じ場所に立っている。

グラウコンは「正義は妥協にすぎない」と言った。カントは「道徳は理性の命令だ」と答えた。フーコーは「外からの強制と内からの自律の境界は、そもそも曖昧だ」と示した。

どれが正しいのか、ぼくにはわからない。わかるふりをするほどの度胸もない。

ただ、こういうことは考える。ぼくたちが「善い人間でありたい」と思うとき、その願望の出どころは何だろう。見られているからか。そう躾けられたからか。それとも、ぼくたちのどこかに、「誰も見ていない花壇」に水をやるように、観客なしでも善くあろうとする何かが本当にあるのか。あるいは、そう思いたいという願望そのものが、ぼくたちの手の届かないどこかで書かれたものにすぎないのか(「誰も何も選んでいない」)。

もしあるなら、ぼくたちはまだ、それを証明する言葉を持っていない。

もしないなら、ぼくたちが「善い」と呼んでいるものは、壮大な集団演技にすぎない。

どちらにしても、少し気が遠くなる話だ。

最後にひとつだけ。あなたが今日「正しい」と思ってやったことを、ひとつ思い返してみてほしい。「世界中の人間が自分以外いなくなったら、何をするか?」。本当に誰にも見られていなくても、あなたはそれをしただろうか。

答えなくていい。

たぶん、答えないほうがいい。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu