あなたの臓器が五人を生かす朝

五人が死にかけている。それぞれに別の臓器が必要で、提供者はいない。しかし廊下に一人、健康な人間が歩いている。その人を殺して臓器を取り出せば、五人は助かる。

ほとんどの人はこれを拒む。だが「なぜ拒むのか」と問われると、答えに詰まる。

1975年、哲学者ジョン・ハリスはこの光景を制度にした。全国民に番号を割り振り、臓器が必要になるたびコンピュータが番号を選ぶ。呼ばれた人間は死ぬ。残りは生きる。彼はこれを「生存くじ(Survival Lottery)」と呼んだ。

功利主義の計算では、この制度は正しい。一人の死で二人以上が助かるなら、差し引きでプラスになる。しかしこの計算を「正しい」と言い切れる人間がほとんどいないという事実が、この思考実験の核にある。

レバーは引けるのに

1967年、フィリッパ・フットがトロッコ問題を提示した。暴走するトロッコが五人に向かっている。レバーを引けば別の線路に逸れるが、そちらには一人がいる。多くの人はレバーを引く。五人の命と一人の命。算数としては同じだ。

しかし臓器くじでは、同じ5対1の数式に人々は首を振る。トロッコ問題では許容された犠牲が、病院の廊下では許容されない。ジュディス・ジャーヴィス・トムソンはこの直感の非対称を正面から問うた。彼女が提示した「移植バージョン」では、外科医が五人の患者を救うために健康な一人から臓器を取り出すことが許されるかと問われる。ほとんどの人がこれを拒む。

何が違うのか。

トロッコ問題では、一人の死は「副作用」として生じる。レバーを引く目的は五人を救うことであり、一人を殺すことではない。だが臓器くじでは、一人の死そのものが手段になる。臓器を取り出すためにはまず殺さなければならない。目的と手段の関係が反転している。これを伝統的に「二重結果の原則(Doctrine of Double Effect)」と呼ぶ。意図された結果と、予見されたが意図されていない結果のあいだに道徳的な線を引けるという考え方だ。

ただし、この線引きもそれほど頑丈ではない。トロッコ問題の変種、いわゆる「歩道橋バージョン」では、太った人を橋の上から突き落としてトロッコを止めるかどうかが問われる。この場合、レバー版と同じ5対1の構造なのに、多くの人が拒否する。「副作用としての死」と「手段としての死」のあいだの境界は、想像力の射程によって揺らぐ。

善も正義もないでも触れたが、道徳的直感は一貫しない。トロッコ問題が示しているのは「正しい答え」ではなく、われわれの直感がいかに脆いかという事実のほうだ。

あなたの身体はあなたのものか

臓器くじへの拒否反応の奥には、ひとつの直感がある。人間は他者の目的のための道具ではない、という直感だ。

カントはこれを「人間性の定式」として表現した。人を「たんに手段としてのみ」扱ってはならない。臓器くじはこの定式への直接的な違反になる。健康な通行人は五人の生存のための部品として扱われる。たとえ五人が救われても、一人が「道具」にされたという事実は消えない。

功利主義者はここで反論する。「臓器が足りずに五人が死ぬことはどうなのか。五人を見殺しにすることは、一人を殺すことより道徳的に清潔なのか。不作為にも責任はあるのではないか」と。

この問いは哲学において「殺すことと死なせること(doing and allowing)」として長く議論されてきた。何かを積極的にすること(doing)と、何かが起きるのを放置すること(allowing)のあいだには道徳的な差があるのか。多くの人は「ある」と感じている。しかしその差を論理的に正当化しようとすると、足元がぐらつく。

結局のところ、われわれが臓器くじを拒むのは、論理的な根拠があるからではないのかもしれない。身体を切り開かれることへの恐怖、自分の番号が呼ばれる場面の想像。それらが先に来て、理屈はあとから追いかけているだけなのかもしれない。誰のせいでもないで書いたように、道徳的な判断の多くは理由ではなく反応から始まっている。

誰も病院に行かない

仮にこの制度が実現したとしよう。

おそらく最初に起きるのは、病院の閑散だ。病院が「臓器を必要とする患者」を収容する場所であり、同時に「臓器の供給元として人間を殺す」場所でもあるなら、健康な人間にとって病院は処刑場と変わらない。合理的な人間は病院に近づかない。

ハリス自身はこの反論を意識していた。だからこそ「くじ」という形式を選んだ。病院ではなくコンピュータが選び、恣意性を排除する。しかし恣意性の排除は恐怖の排除を意味しない。番号が呼ばれるかもしれないという慢性的な不安のなかで、人は「健康でいること」をどう受けとめるようになるのか。

ルール功利主義はここに足場を見つける。個々の行為ではなく、制度としてのルールが長期的に最大幸福をもたらすかどうかを問う立場だ。臓器くじは短期的には命を救うが、長期的には医療制度への信頼を根底から壊す。信じることの不可能性で問うたように、信頼とはそもそも裏切られうるという前提のもとで成り立つ脆弱な構造だ。臓器くじはその脆弱さを、取り返しのつかない形で露出させる。

すでに引かされている

臓器くじを「ありえない」と退けるのは簡単だ。しかし、われわれはすでに暗黙のくじのなかにいる。

日本では毎年数千人が交通事故で命を落とす。自動車をなくせばこの死者は消える。だが社会は車を手放さない。つまり「年間数千人の死は、自動車社会の利便性のために許容される」という判断が暗黙のうちに共有されている。これはある種の統計的なくじだ。誰が死ぬかは事前にわからないが、「誰かが死ぬ」ことは確実で、社会はそれを受け入れている。

臓器くじとの違いは何か。「特定の誰かを名指しで殺す」ことと、「不特定の誰かが死ぬリスクを社会全体で引き受ける」ことのあいだにある。前者には加害者と被害者の関係が生じる。後者にはそれがない。配られたカードを見ろで扱ったように、生まれた場所や時代や身体というくじは、引かされた自覚がないまま結果だけが降りかかる。

だが、この区別がどこまで堅固なのかは疑わしい。統計的な死を「仕方がない」と呼び、名指しの死を「許されない」と呼ぶとき、われわれは本当に道徳的な区別をしているのか。それとも単に、想像力の射程の限界を露呈しているだけなのか。見えない死は許容でき、見える死は許容できない。それは倫理ではなく認知の癖にすぎないのかもしれない。

足りない臓器、静かな死

この思考実験を机上の空論と呼ぶことは難しい。

日本の臓器提供数は国際的に見て極めて少ない。臓器移植を待ちながら亡くなる人は少なくない。スペインやアメリカのように「オプトアウト方式」(意思表示がなければ提供に同意したとみなす制度)を採用する国もあるが、日本は「オプトイン方式」(明示的な同意がなければ提供しない)を維持している。

ここにも同じ構造がある。オプトアウト方式は「デフォルトを提供に設定する」ことで提供数を劇的に増やす。しかしこれは本当に「自由な意思」に基づく提供なのか。デフォルトの力に依存した制度は、臓器くじほど暴力的ではないにしても、個人の意思を静かに迂回している。

誰も等しくなれない世界で選び続けることで問うたように、公正な制度というものは、突き詰めれば常に誰かの不利益を含んでいる。「臓器を提供しない自由」を守ることは、「臓器がなくて死ぬ人」を生む。どちらの自由を優先するかという問いに、一般解はない。

救いが壊すもの

ここまで来ると、問いはもう臓器くじの可否を超えている。

優しい人から壊れるで書いたように、他者の苦しみに反応する能力はしばしばその人自身を破壊する。五人を救いたいという衝動は道徳的に美しい。だがその衝動を制度化し、一人を殺すことで五人を救う装置を作ったとき、「救い」の意味そのものが変質する。

ル=グウィンの「オメラスから歩み去る人々」を思い出してもいい。街の繁栄が一人の子どもの苦痛の上に成り立っていると知ったとき、ある人々は街を去る。だが去ったあとにどこへ行くのか、ル=グウィンは書かなかった。あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだったで触れたように、「誰かの犠牲の上に成り立つ幸福」の構造は臓器くじに限った話ではなく、おそらくあらゆる社会制度の地下に埋まっている。


臓器くじは実現しない。しかし臓器くじが突きつけた問いは消えない。

われわれは「一人を殺して五人を救うべきか」と問われたとき、論理ではなく身体で拒否する。その拒否の奥にあるものが「権利」なのか「恐怖」なのか「進化の残滓」なのか、誰にもわからない。わかっているのは、どの答えを選んでも誰かが死ぬということだけだ。

コンピュータは今日も番号を呼ばない。その代わりに、臓器の足りない病室で、名もない誰かが静かに目を閉じている。くじを引かないという選択もまた、すでにひとつの選択なのだということを、われわれは知らないふりをし続ける。

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