倫理と思考実験

A lever, a ring, a button. These entries begin with a scenario that seems simple, then watch it come apart. They explore what we owe each other, whether empathy saves or destroys, and where justice frays at the edges.

倫理と思考実験

近づくほどに遠ざかるもの

今夜、午前3時に電話をかけられる人間は何人いるか、数えてみてほしい。3人? 1人? それとも、連絡先を上から下までスクロールして、結局誰にもかけられないまま画面を閉じるだろうか。 安心してほしい。それは正常な状態だ。人類学的に、進化論的に、哲学的に、正常だ。 この「正常さ」が、たぶんいちばん救いがない。 この記事には答えがない。あるのは、だんだん大きくなっていく問いだけだ。つながりには天井があること。テクノロジーは何も変えなかったこと。「自分」という感覚すら怪しいこと。全部知ったところで一ミリも楽にはならないが、知らなかったことにも、もう戻れない。 脳が許した150人 1990年代、イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、霊長類の大脳新皮質の大きさと、その種が維持する社会集団の規模にきれいな相関があることを見出した。脳が大きいほど、安定した社会関係を多く維持できる。この知見をヒトの脳に当てはめたとき、導かれた数字がおよそ150だった。 150人。「あの人は誰で、あの人とこの人はどういう関係か」を把握しておける人数の、生物学的な天井。ダンバーはこの仮説の背景にある考え方を「社

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

あなたには何も見えていない

2015年、一枚のドレスの写真がインターネットを二つに割った。 ある人には白と金に見える。別の人には青と黒に見える。同じ写真、同じピクセル、同じ光。それなのに見えている色が違う。NYUの神経科学者パスカル・ワリッシュは13,000人以上を調査し、この食い違いがドレスを照らす光源について脳が無意識に行う仮定の違いに起因することを示した。自然光の下にあると仮定した脳は青みを差し引いて白と金を見る。人工光の下にあると仮定した脳は黄みを差し引いて青と黒を見る。 どちらの脳も、自分の仕事を忠実にこなしている。どちらも間違っていない。そして、どちらの目の持ち主も、自分が見ている色こそ「本当の色」だと確信していた。 この話はSNSの一過性の騒ぎで終わった。でも、よく考えると、あれ、なんか変だ。 赤の中には何もない あなたが見ている赤は、網膜の錐体細胞が特定の波長の光に反応し、その信号が視神経を経由して脳の視覚野で処理された結果、あなたの内部にだけ生じる現象だ。物体の側には波長がある。色はない。 哲学はこの内側の体験を「クオリア」と呼ぶ。ラテン語のqualis(どのような)に由来するこの

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倫理と思考実験

あなたは私を知りうるか。あるいはあなたはそこにいるのか。

「あなたの気持ち、わかるよ」。 こうした言葉を向けられた瞬間に、胸のどこかがすっと冷えたことはないだろうか。 善意だとわかっている。慰めようとしてくれている。でも、何かが閉じる。あなたが抱えているものは、あなたの身体を通り、あなたの時間の中で発酵し、あなただけの文脈と絡み合って、ようやくその形をとった。それを誰かが五文字で引き受けようとする。あなたの経験は、相手の過去のどこかに似た何かに置き換えられ、その置き換え版だけが「理解」と呼ばれる。 わかってもらえたとは思わない。わかったことにされた、と思う。 この違和感の正体を、少しだけ掘ってみたい。 通じない言語 そもそも、言葉は思っているほど共有されていない。 「悲しい」と言うとき、あなたの「悲しい」と相手の「悲しい」が同じ感覚を指している保証はどこにもない。同じ単語、同じ文法、同じ言語。それなのに、その裏側で動いている感覚も記憶も身体の感触も、全部違う。 ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、いわゆる「私的言語」の問題を考察した。痛みのような私的な経験を、公的な言語で正確に捉えることはできるか。彼の議論が示唆するの

By Sakashita Yasunobu

生きること

どこが私

あなたが「自分」だと思っているものは、たぶん、どこにもない。 体を探しても見つからない。記憶を辿っても届かない。意識を覗き込んでも、底は見えない。他人に聞いてみても、返ってくるのは歪んだ反射だけだ。哲学者たちは二千年以上かけてこの穴を掘り続けてきたが、掘れば掘るほど底が遠のくだけだった。 この記事は何も解決しない。答えを探しているなら、もう閉じた方がいい。ここにあるのは問いだけだ。ひとつ残らず、行き止まりの。 すでにいない 人間の体を構成する細胞の多くは、数年から十数年のあいだに入れ替わる。皮膚は数週間、腸の上皮は数日、赤血球はおよそ120日。カロリンスカ研究所のヨナス・フリセンらによる放射性炭素年代測定の研究は、人体を構成する細胞の平均年齢がおよそ7年から10年であることを示した。 ただし、「すべて」が入れ替わるわけではない。大脳皮質のニューロンの大部分や心筋細胞の多く、眼の水晶体の中心部の細胞は、生まれてから死ぬまでほとんど同じものが残り続ける。 それでも、10年前のあなたの体を構成していた物質の大半は、もうそこにはいない。音もなく入れ替わっている。テセウスの船のよう

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

誰も見ていない花壇

花を植えた。誰にも見えない場所に。咲くかどうかは分からないし、咲いたところで見届ける人もいない。それでも土を掘って、種をまいて、水をやった。なぜかと聞かれても困る。意味があるかと聞かれたら、もっと困る。 たぶん、ない。 でも「たぶん、ない」と言い切れてしまうことのほうが、よほど不思議ではないだろうか。意味がないと分かっていて、なぜ手が動くのか。 咲いても誰も来ない 日記を書いたことがある人は多いと思う。では、その日記を読み返したことは? 書いたきり二度と開かないノートが引き出しの奥にある。それは、書かなかったのと同じだろうか。書いた瞬間には確かに何かがあった。考えが言葉になっていくあの感覚。頭の中の曖昧な塊がインクの線になる、あの過程。でも読み返さないなら、そこに残ったものは何だろう。 花も同じだ。誰にも見られない花壇の花は、咲いた事実だけをこの世に残して枯れる。美しかったかどうかを判定する目がない。美しさは、見る人がいなくても存在するだろうか。 哲学にはこの手の問いが昔からある。「森の中で木が倒れて、誰もその音を聞かなかったら、音はしたのか」。でも花壇の問いはもう少し

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倫理と思考実験

知への渇望

知らなければよかった 何も知らないまま、満ち足りて生きる。それがどれほど贅沢なことか、一度でも考えたことはあるだろうか。 朝起きて、食べて、眠る。明日のことなんて考えない。意味を問わない。目的を探さない。ただ、目の前にある心地よさを、そのまま受け取る。それだけで完結する一日。 そんな生き方を「豚」と呼んだ哲学者がいる。 ミルが遺した厄介な一言 19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、1863年に出版した『功利主義(Utilitarianism)』の第二章で、こう書いた。 満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。 有名な一節だ。教科書にも載っている。哲学に興味がなくても、どこかで聞いたことがあるかもしれない。だが、この言葉の本当の重さに気づいている人は、案外少ない。 ミルの師であるジェレミー・ベンサムは、幸福をもっとシンプルに考えた。快楽の強度、持続時間、確実性、範囲。それらの総量が大きければ大きいほど、よい。「最大多数の最大幸福」。量がすべてだ。ベンサムの目には、ピンを弾いて遊ぶ子どもの快楽

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生きること

なおも自由という夢を見る

あなたは今日、何回選んだだろうか。 朝食に何を食べるか。どの服を着るか。どの道を通るか。どのメッセージに返信し、どれを無視するか。そのひとつひとつが「自由」の証だとされている。選べることが人間の尊厳であり、幸福の条件であると。 ではなぜ、こんなにも自由なはずの私たちは、こんなにも後悔しているのだろう。 自由という名の病 心理学者バリー・シュワルツは2004年の著書 The Paradox of Choice: Why More Is Less で、現代社会の奇妙な構造を描き出した。選択肢が増えるほど、人はより自由になるのではなく、より不幸になる。 話は単純な観察から始まる。スーパーマーケットの棚に並ぶ何十種類もの商品。何百ものチャンネル。無限に広がる情報。現代人はかつてないほど多くの選択肢を手にしている。しかしその結果として起きたのは幸福の増大ではなく、決断の麻痺と、選んだあとに残る果てしない後悔だった。 選択肢が少なければ、「まあこんなものか」と納得できる。しかし選択肢が膨大になった瞬間、「もっと良いものがあったのではないか」という疑念が芽生える。そしてその疑念は、どれ

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倫理と思考実験

愛さなければ傷つかない

ある詩人が親友を亡くして書いた一行を、別れたばかりの人間がSNSに貼りつけている。文脈も知らないまま。 「愛して失うことは、まったく愛さないよりもよい」 みんな頷く。引用して、いいねを押して、それで何かが救われた気になる。 でも、本当にそう思っているだろうか。 読まれない詩の一行 1850年、アルフレッド・テニスンは親友アーサー・ヘンリー・ハラムの死を悼んで長大な哀歌 In Memoriam A.H.H. を発表した。その第27篇に、あの一節がある。 'Tis better to have loved and lost Than never to have loved at all. ハラムはウィーンで脳出血により急逝した。テニスンがこの哀歌を書き上げるまでに17年を要している。17年、喪失と向き合い続けた末の言葉だ。それを僕たちは気軽にコピー・アンド・ペーストする。 ただ、テニスンのこの一行は主張というよりも祈りに近い。直前の行で彼はこう言う。

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倫理と思考実験

われわれは「投げ込まれた」

招待状は届いていない あなたの誕生に、あなたの同意を得た人間は一人もいない。 当たり前だ。同意を求めるべき「あなた」は、その時点ではまだどこにもいなかった。存在しないものに返事はできない。だから、あなたの存在はあなた抜きで始まった。「決められた」のですらない。ただ、そうなった。 身に覚えのない宴に放り込まれたようなものだ。会場も、メニューも、隣の席の人間も、何ひとつ選んでいない。気がついたら椅子に座っていた。「楽しんでね」と言われても、まず状況を把握させてほしい。 この記事に答えはない。出す気もない。問いだけをテーブルに並べる。それを持ち帰るかどうかは、あなたの勝手だ。 理由なき着地 マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927年)のなかで、人間の存在のあり方を「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ。 私たちは自分の存在の出発点を自分自身で選んでいない。なぜこの時代に生まれたのか。なぜこの場所なのか。なぜこの身体なのか。どれひとつとして、自分で決めた覚えがない。にもかかわらず、すでにここにいる。理由なく、根拠なく、ただ「

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倫理と思考実験

鎖を愛した動物

自由について真剣に考えたことのある人間は、おそらく全員が不幸になった。 なぜなら、自由とは何かを突き詰めていった先に残るのは、自分が自由ではないという確信だけだからだ。「自由に生きたい」と誰もが口にする。けれど、その「自由」が具体的に何を指すのか説明できた人間を、少なくとも私は知らない。 私たちは自由を信仰している。定義もできないまま、それが善いものだと信じて疑わない。これは宗教と何が違うのだろう。 定義できない信仰 ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』(1859年)で「危害原則」を示した。他者に危害を加えない限り、個人の自由は制限されるべきではない、という考え方だ。 明快に聞こえる。しかし、ほんの少しだけ立ち止まってほしい。 「危害」とは一体何なのか。殴ることは危害だろう。では、深く傷つく言葉はどうだろう。不快な表現を公の場にさらすことは。ある人間の存在そのものが、別の誰かにとっての脅威であるとき、ミルの原則は何も言わない。 「危害」の意味について、人類は一度も合意に至っていない。原則だけが宙に浮いて、その下で人々はそれぞれの「自由」を好き勝手に振りかざしている。私

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倫理と思考実験

どうせ死ぬ

あなたは死ぬ。べつに脅しているわけではない。ただ、あらゆる自己紹介のなかで最も正確なものを述べただけだ。名前よりも職業よりも、「いずれ死ぬ」という属性のほうがよほど確実で、よほど普遍的で、そしてよほど無視されている。 で、それがどうした、と思っただろうか。それならそれでいい。この話はべつに、あなたの人生を変えようとして書いているのではない。変わらないことのほうが、たぶん誠実だ。 解決済みの恐怖 エピクロスという哲学者がいた。紀元前3世紀のギリシャで快楽主義の学派を率いた人物だ。彼は『メノイケウス宛の手紙』のなかで、死についてこう述べた。 死はわれわれにとって何ものでもない。なぜなら、われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもはや存在しないからだ。 理屈は明快だ。私と死は決して同じ場に居合わせない。まだ来ていない嵐を窓の外に探すようなものだ、と。 ローマの詩人ルクレティウスは、これをさらに押し広げた。紀元前1世紀の長編詩『事物の本性について』第三巻で彼が提示したのは、今日「対称性論法」と呼ばれる議論だ。生まれる前、あなたは無限の時間のあいだ存在しな

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倫理と思考実験

あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚本の上で踊っているだけだった

あなたの幸福は、最初から汚れている。 これは道徳の話ではない。宗教の話でもない。ただの観察だ。今この瞬間、どこかで誰かが苦しんでいる。それを知っていて、それでも「自分は幸せだ」と言える構造のことを、ここでは幸福と呼ぶ。 幸福は常に誰かの犠牲の上に成り立っている、と主張したいわけではない。もっと手前の話だ。幸福という状態そのものが、他者の存在なしには定義すらできない。そして、その事実がどこまで行っても振り払えない。 この話には結論がない。結論を出せるような問いではないから。 地下室の子ども アーシュラ・K・ル=グウィンが1973年に発表した短編「オメラスから歩み去る人々」は、ある思考実験の形をとっている。 オメラスという街がある。美しく、豊かで、住民は皆幸福に暮らしている。ただしひとつだけ条件がある。街のどこかの地下室に、一人の子どもが閉じ込められている。その子どもが苦しみ続ける限りにおいて、街全体の繁栄は維持される。住民はその事実を知っている。知った上で、日々を送っている。 この設定は功利主義への問いとして読まれることが多い。ジェレミー・ベンサムが18世紀末に体系化した

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