生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

倫理と思考実験

嘘に泣く

フィクションに泣くのは、考えてみれば、おかしなことだ。 あなたが涙を流しているその物語は、あなたのために書かれたものではない。あなたの人生を知らない誰かが、あなたとは無関係な架空の人物について、おそらくは締め切りに追われながら書いた。そしてたいていの場合、それは売り物として世に出ている。棚に並び、値札がつき、レビューがつき、星の数で格付けされる。 なのにあなたは泣いている。 歌詞にしてもそうだ。あなたの悩みを歌っているわけでもない。あなたの名前も、あなたの人生も、あなたの失恋も、作詞家は知らない。それでもあなたの胸に刺さる。どうしてだろう。いや、もっと根本的な疑問がある。どうしてそれが「刺さる」などという暴力的な比喩で語られるのだろう。あなたは自分から刺されに行っているのに。 存在しないものに泣いている 哲学にはこの問題を正面から扱った議論がある。「フィクションのパラドクス(paradox of fiction)」と呼ばれる。 1975年、哲学者コリン・ラドフォードは「アンナ・カレーニナの運命になぜ心を動かされるのか(How Can We Be Moved by the

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

不安に怯えて

もう決まっている 試験の結果を待っている夜のことを考える。 合否はもう決まっている。封筒はすでに印刷され、おそらくどこかの郵便局の棚の上に置かれている。自分が何をしようと、祈ろうと、深夜2時に受信ボックスをリロードしようと、中身は1ミリも変わらない。 それなのに、落ち着かない。 不思議なのは、この不安の正体だ。「不合格かもしれない」という恐れとは少し違う。結果がまだ自分のものになっていないという、あの宙ぶらりんの状態そのものが耐えられない。情報は世界のどこかに存在している。ただ、手が届かないだけ。その距離が、異常に重い。 キェルケゴールは『不安の概念』(Begrebet Angest, 1844年)のなかで、不安とは特定の対象に対する恐怖ではなく、可能性そのものに対する反応だと考えた。「不安とは自由の可能性である」。何が起こるかわからないという状態、あるいは何が起こりうるかがすべて同時に見えてしまうという状態。結果を待つ夜に感じるあの重さは、可能性の重量なのかもしれない。 ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、不安(Angst)と恐れ(Furcht)を明確に区別した。

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

思いに耽る

深夜2時にタイムラインを眺めている。誰かが焼いたパンの写真。誰かが訪れた異国の街角。誰かが手に入れた、自分の手には届かない何か。 スクロールする指は止まらない。止める理由がないのか、止められないのか。その区別がつかないまま、夜は更けていく。 ここに書くのは、答えの出ない問いばかりだ。解決する気もない。ただ、こういうことを考えはじめると眠れなくなる種類の問いを並べただけの文章だ。読んでも何ひとつ得られない。それでも読むなら、たぶんあなたも、夜中に天井を見つめながら同じようなことを考えたことがある人なのだろう。 誰かの人生を眺めている あなたが今日いちばん長く見つめたのは、たぶん自分の人生ではない。 タイムラインには他人の生活が絶え間なく流れてくる。丁寧に盛りつけられた朝食、完璧に切り取られた旅先の風景、充実した日常を演出するキャプション。それらを眺めるたびに胸のどこかがざわつく。うらやましい、と思う。なんてきらびやかなのだろうと思う。でもよく考えると、うらやましいのはあの料理でもあの景色でもない。あの人が「満たされている」ように見えること、それそのものがうらやましいのだ。

By Sakashita Yasunobu

生きること

人生は長い、いささか長すぎる

長すぎるんだ。 誰もそうは言わない。言ってはいけないことになっている。人生は短い、だから大切にしろ。毎日を最後の日のように生きろ。そういう言葉を人は互いに交わす。お守りのように。呪文のように。 でも本当は、わかっているはずだ。今日が終わっても、明日が来る。明日が終わっても、明後日が来る。季節は巡り、カレンダーは新しくなり、年齢は増えていく。その繰り返しが途方もなく続くことの重さを、真正面から受け止めている人は少ない。 これは、その重さについてのメモだ。 退屈の発明 退屈は、おそらく人間だけが手にした発明品だ。 犬は窓の外をじっと見つめる。あれは退屈ではない。ただ見ているだけだ。猫は日差しの中で何時間も動かない。あれも退屈ではない。ただそこにいるだけだ。人間だけが「自分はいま退屈している」と自覚する。そしてその自覚が、さらに深い退屈を呼び込む。退屈に気づいてしまった退屈。再帰的な退屈。人間の意識が生んだ、最も厄介な副産物。 ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』のなかで、人生を振り子に喩えた。欲望が満たされなければ苦しみ、満たされれば退屈する。揺れは止まらない。止

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倫理と思考実験

誰も学びを測れない

あなたの学びは数字ひとつで語れるらしい。3.2。あるいは2.7。あるいは3.8。この小数点以下のわずかな差に、何千時間もの思考と迷いと夜更かしと発見が圧縮されている。いや、圧縮されたのではない。消えたのだ。 GPAという仕組みは、ひとりの人間が大学で過ごした数年間を、小数点第二位までの数字に変換する。その数字を見て、企業は採用を判断し、大学院は合否を決め、奨学金の選考委員はファイルを閉じる。数字は便利だ。便利すぎて、数字の向こうに何があったかを誰も問わなくなる。 この文章は、その数字の向こう側を覗こうとする試みだ。覗いた先に何があるかは保証しない。たぶん、何もない。 数字が知性を騙る イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートは1975年の講演でひとつの法則を示した。本来は金融政策における統計的規則性についての指摘だったが、後にこう要約されるようになる。 ある指標が目標になると、それは良い指標ではなくなる。 "When a measure becomes a target, it ceases to be a good measure." GPAに当てはめてみると、

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倫理と思考実験

気のせいかもしれない

深夜2時に浮かぶ問いは、朝になると馬鹿に見える。でも馬鹿なのは問いのほうではなく、たぶん朝のほうだ。 昼間の世界はよくできている。予定があり、締切があり、返すべきメッセージがある。忙しさは鎮痛剤のようなもので、効いているあいだは何も感じなくて済む。でも夜、すべてが静まると、麻酔が切れたように問いが戻ってくる。自由意志はあるのか。言葉は本当に届いているのか。昨日の自分と今日の自分は同じ人間か。美しさに意味はあるのか。退屈の底には何があるのか。 答えはない。答えがないということだけが、わりと確実にわかっている。 この文章は、そういう夜の残骸だ。読んでも何の役にも立たない。読まなくても何も失わない。それでもここにある。 最初から選んでいない コーヒーにするか紅茶にするか。今朝、あなたはどちらかを「選んだ」。少なくとも、そう感じたはずだ。手が伸びて、カップを取って、口に運んだ。一連の動作のすべてを、自分の意識が指揮したのだと、あなたは信じている。 1983年、神経科学者ベンジャミン・リベットはこの「信じている」を揺さぶる実験を行った。被験者に好きなタイミングで手首を動かしてもらい

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倫理と思考実験

放棄された問いたち

深夜に、あるいは退屈な午後に、不意にやってくる問いがある。答えを探しているわけではない。答えがあるとも思っていない。ただ問いだけが浮かんで、しばらく漂って、やがて沈む。翌朝にはもう思い出せない。思い出せたとしても、昨夜あれほど切実だったはずの問いが、朝の光の中ではひどく間の抜けたものに見える。 それでも問いは繰り返しやってくる。懲りもせず。 このテキストは、そういう問いの残骸を集めたものだ。体系も結論もない。哲学のふりをしているが、哲学になりきれていない。あるいは、哲学とはもともとそういう半端なものだったのかもしれない。ソクラテスは一冊の本も書かなかった。プラトンがそれを書き留めた。書き留められた時点で、それはもうソクラテスの問いではなくなっていた。 独り言としての対話 会話は根本的に独り言かもしれない。 そう言うと大げさに聞こえるが、実感としてはそれほど突飛でもない。誰かと話しているとき、私たちは本当に相手の言葉を聞いているだろうか。相手が口にした音を耳で拾い、自分の語彙と経験のフィルターに通して、自分の内側で「相手の言いたいこと」を組み立てている。聞いているのは相手の言

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倫理と思考実験

「もし1日が2時間長かった何をする?」

Redditで誰かが聞いた。「もし1日が2時間長かったら何をする?」 If your day was 2 hours longer what would you do? by u/ImaginaryPhone2946 in selfimprovement たぶん、何もしない。 いや、何かはするだろう。本を読む、散歩する、眠る。でもそれは後回しにしてきたことのリストであって、2時間を手に入れたところで、また別の2時間が足りなくなるだけだ。不足の感覚は、時間の量とは関係がない。 この問いを引き延ばしてみる。4時間なら。12時間なら。24時間なら。一日が永遠に続くなら。際限なく広げていくと、やがて量の問題が存在の問題に変わる。 以下は、答えの出ない問いについての覚え書きだ。哲学はこれらの問いに数千年取り組んできた。一つも解決していない。この記事も、何ひとつ解決しない。 2時間では何も変わらない 2時間増えたら何をするか。おそらくどの回答も似たようなものになる。読書、運動、趣味の時間。つまり「

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倫理と思考実験

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

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倫理と思考実験

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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倫理と思考実験

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

生きること

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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