不安に怯えて

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もう決まっている

試験の結果を待っている夜のことを考える。

合否はもう決まっている。封筒はすでに印刷され、おそらくどこかの郵便局の棚の上に置かれている。自分が何をしようと、祈ろうと、深夜2時に受信ボックスをリロードしようと、中身は1ミリも変わらない。

それなのに、落ち着かない。

不思議なのは、この不安の正体だ。「不合格かもしれない」という恐れとは少し違う。結果がまだ自分のものになっていないという、あの宙ぶらりんの状態そのものが耐えられない。情報は世界のどこかに存在している。ただ、手が届かないだけ。その距離が、異常に重い。

キェルケゴールは『不安の概念』(Begrebet Angest, 1844年)のなかで、不安とは特定の対象に対する恐怖ではなく、可能性そのものに対する反応だと考えた。「不安とは自由の可能性である」。何が起こるかわからないという状態、あるいは何が起こりうるかがすべて同時に見えてしまうという状態。結果を待つ夜に感じるあの重さは、可能性の重量なのかもしれない。

ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、不安(Angst)と恐れ(Furcht)を明確に区別した。恐れには対象がある。クマが怖い。落第が怖い。だが不安には対象がない。不安は、存在そのものが問題になっている状態であり、世界全体がぐらつくような経験だ。受信ボックスをリロードするあの指の動きは、不合格への恐れなのか、それとも、もっと漠然とした何かへの不安なのか。

ストア派のエピクテトスは、「自分の力の及ぶもの」と「及ばないもの」を分けよと言った。結果は明らかに後者に属する。論理的には、ここで心穏やかにお茶でも飲んでいればいい。だが人間は論理では動かない。理性と感情は別の配線で動いている。わかっていても、リロードする。

宝くじの当選番号はすでに決まっている。それでも抽選会を見るときドキドキする。録画した試合の結果を知らずに見れば、ライブのように興奮できる。結果を先に知ってしまえば、途端につまらなくなる。「知ること」と「知らないでいること」の間にある、あの奇妙な落差。そこに人間は住んでいる。

未来がすでに確定しているとして、「今」にはどんな意味があるのか。決定論が正しいなら、この不安すらも宇宙の必然であって、「落ち着け」という助言自体が的外れかもしれない。誰も何も選んでいないのだとすれば、不安を感じるよう定められた存在に対して不安を感じるなと言うことの滑稽さ。

結果を知った瞬間に、「結果を知らなかった自分」は永遠に消える。あの不安のなかにいた自分はもう取り戻せない。不安は解消されたのではなく、ただ別のものに置き換わっただけだ。安堵であれ、失望であれ。不安とは一つの存在様式であって、問題と解決のペアではないのかもしれない。

悩んだって何も変わらない。結果はすべてもう決まっている。もう何もしようがない。結果が手に届いていないのだから、後悔でさえない。

それでもリロードする。


一人で静かに座っていられない

パスカルは『パンセ』のなかでこう書いた。「人間の不幸はすべて、部屋のなかに静かに座っていられないことに由来する」。

17世紀の言葉だ。だが、スマートフォンのスクリーンタイムを見るたびに、この一文の正確さにうんざりする。

パスカルはこの性向を「気晴らし」(divertissement)と呼んだ。人間は自分自身と向き合うことに耐えられないから、常に何かで気を紛らわす。17世紀なら、狩猟、賭博、社交。現代なら、SNS、動画、通知の赤い点。手段は変わった。逃げている先は変わっていない。

スマートフォンを忘れて外出したときの不安。何かを見逃すかもしれないという計算ずくの心配ではない。もっと原始的な何かだ。自分と二人きりになることへの恐怖。

電車のなかで窓の外を見ている人が減った。窓の外を見ることすら、「何もしていない」に分類されるようになった。「何もしていない」が罪になる世界で、退屈は最も恥ずかしい告白かもしれない。

キェルケゴールは『あれか、これか』(1843年)のなかで、退屈を「すべての悪の根源」と呼んだ。退屈に耐えられないから人間は走り出す。走った先で、大抵は転ぶ。ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』(1929/30年冬学期の講義)で「深い退屈」(tiefe Langeweile)を分析した。深い退屈のなかで、存在者の全体がどうでもよくなる。すべてが等しく意味を失う。何も起きなかった日の底にある、あの感覚だ。だがハイデガーは、その「どうでもよさ」のなかにこそ、存在の問いを開く契機があると考えた。

静寂が怖いのは、そこに何もないからではなく、そこに自分しかいないからかもしれない。刺激がすべて消えたとき、残っているのは自分だけだが、その「自分」が何でできているのかは、よく考えると、誰もあまり知らない。

気晴らしをやめたとき、そこに残るものが「自分」なのか。それとも、気晴らしの総体こそが「自分」なのか。

夜になると、それがよくわかる。

午前3時。目が覚める。画面が光る。世界は静かで、自分だけがこの惑星の上で意識を持っている気がする。昼間は目を逸らしていられたものが、夜の静けさのなかでは堰を切ったように押し寄せてくる。死のこと。時間のこと。取り返しのつかないこと。宇宙がどれほど大きくて、自分がどれほど小さいかということ。

パスカルの気晴らしが機能しなくなる時間帯。外部の刺激が消え、意識が内側に折りたたまれていく。ニーチェは『善悪の彼岸』(1886年)146節で「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」と書いた。夜中の思索はまさにそれだ。覗き込めば覗き込むほど、底が深くなる。

午前3時に考えたことは、朝になると馬鹿げて見える。だが問うべきは、馬鹿げているのは午前3時なのか、朝なのか、ということだ。夜中に走り書いたメモを翌朝読み返すと意味不明になっている。でも書いた瞬間には確かに何かをつかんでいた。あの「何か」はどこへ消えたのだろう。朝の光が溶かしたのか。それとも、朝の光が覆い隠したのか。

午前3時の孤独は、物理的な孤独ではない。隣に誰かが眠っていても感じる孤独。意識というものが根本的に、どうしようもなく、一人であるという事実の自覚かもしれない。


自由という罰

サルトルは1946年の講演『実存主義はヒューマニズムである』のなかで、「人間は自由の刑に処されている」と述べた。

これは褒め言葉ではない。

自由は祝福ではなく宣告だ。選ばなければならない。しかも、選ばないことすら一つの選択である。『存在と無』(1943年)では、意識の存在そのものが自由であり、人間はこの自由から原理的に逃れることができないという存在論的な分析が展開されている。

「今日の夕飯、何がいい?」、「なんでもいいよ」。

この会話には何千年分の哲学が凝縮されている。「なんでもいい」は、本当に何でもいいという意味ではない。選ぶことの疲弊。選ぶための根拠がどこにもないことへの静かな降伏。

人生の大きな選択には、少なくとも理由がある。どの学校に行くか。どこに就職するか。だが小さな選択には理由がない。白いシャツか青いシャツか。右の道か左の道か。理由なく選ばなければならないことの方が、はるかに人を消耗させる。

構造化された日々のなかで人が感じる奇妙な安心感がある。時間割、締め切り、ルーティン。選択肢が減ることが解放になるという逆説。メニューが3種類しかないレストランの方が、100種類あるレストランよりも居心地がいいのは、どう選んでも間違うことの重さをどこかで知っているからだ。

サルトルは「自己欺瞞」(mauvaise foi)という概念も提示した。「仕方なかった」、「選択の余地がなかった」と自分に言い聞かせること。自由であることから逃げるためにつく嘘。だが、その嘘をつくこと自体が自由の行使であるという、救いようのない入れ子構造。

ブリダンのロバという寓話がある。等しく魅力的な二つの干し草の山の前に置かれたロバが、どちらも選べずに餓死するという話だ。合理的な判断が不可能なとき、選択はいったいどこから来るのか。あるいは、何でもいいのか。

自由が鎖のない牢獄であるなら、なぜ人間は歴史を通じて自由を求め続けてきたのだろう。もしかすると、求めていたのは「自由」そのものではなく、「不自由からの解放」であって、自由それ自体は一度も目的ではなかったのかもしれない。


何者でもない

「自分らしく生きる」と言われるが、「自分」とは何のことだろう。

誰といるかによって、振る舞いが変わる。親の前の自分、友人の前の自分、初対面の人に対する自分。どれが「本当の自分」かと問われたら答えに困る。全部が本当かもしれないし、どれも本当ではないかもしれない。

ハイデガーは「ひと」(das Man)という概念で、日常の自己のあり方を描いた。私たちは「ひとがそうするように」食べ、「ひとがそう言うように」話す。この「ひと」は誰でもあって、誰でもない。それは自己を「失っている」状態というより、そもそも自己がこの匿名的な存在のあり方のなかで初めて成り立っているということだ。

SNSのプロフィール。短い文字数で「自分」を要約しなければならない。その不可能さ。あるいは、案外すぐ書けてしまうことの方が恐ろしい。

サルトルは「まなざし」(le regard)の分析で、他者に見られることによって人は「対象」になると論じた。自分が自分を定義するのではなく、他者のまなざしが自分を固定する。鏡を見て「これが自分だ」と思う瞬間と、写真を見て「これは自分じゃない」と感じる瞬間。自己像は誰のものなのだろう。

ヒュームは『人間本性論』(1739年)のなかで、自己を探しに内面に潜り込んだが、見つかったのは知覚の束だけだったと書いた。熱さ、冷たさ、明るさ、痛み。知覚はある。だが、知覚を束ねている「自己」なるものは見当たらない。

「自分探し」は、探しているものが存在するという前提のもとに成り立っている。だが、もし「自分」が探す以前には存在しないのだとしたら、探すという行為そのものが自分を作り出しているのかもしれない。走りながら道を敷いているような話だ。

玉ねぎの皮をむくように、社会的役割を一枚一枚はがしていったら、中心には何が残るか。何か本質的な芯があると信じたい。だが、むき続けた先に残るのは、もしかすると何もない。

10年前の自分と今の自分は同じ人間なのだろうか。細胞はほぼ入れ替わっている。記憶も変容している。何が「同じ」であることを保証しているのか。もし明日すべての記憶を失ったら、それは「死」とどう違うのだろう。


何もしなくていい日

予定が何もない日。朝起きて、何もしなくていいことに気づく。最初の30分は解放感に似た何かがある。その後、じわじわと罪悪感が這い上がってくる。

「今日は何もしなかった」と夜に思う。だが、呼吸はした。食事もした。窓の外を見た。考え事もした。それでも「何もしなかった」と感じる。ここで言う「何か」とは、いったい何のことなのか。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで、余暇(スコレー、scholē)こそが人間の最も高い活動の条件だと考えた。労働は余暇のための手段であって、目的ではない。だが現代は、この関係が完全に逆転している。余暇は次の労働のための充電時間になり、何もしない時間は怠惰の証拠になった。

ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)で、人間の活動を「労働」(labor)、「仕事」(work)、「活動」(action)の三つに分けた。近代社会はこのうち「労働」を最も高い位置に置いてしまい、人間の存在価値を生産性で測るようになった。何かを生み出さなければ、そこにいる理由がないかのような空気。

ラッセルは『怠惰への讃歌』(1932年)で、労働を道徳的に崇め立てることの愚かさを痛快に批判した。だが、あれから90年以上が経った今、状況は改善するどころか悪化しているかもしれない。

ベッドの上で天井を見つめている時間。あの時間に価値がないと、いったい誰が決めたのか。

そして毎朝、目覚ましが鳴る。止める。起きる。歯を磨く。服を着る。家を出る。昨日と同じ。一昨日とも同じ。この繰り返しのなかに「自分」はいるのだろうか。それとも、繰り返しそのものが「自分」なのか。

同じ道を毎日歩いていると、風景が見えなくなる。引っ越した初日に目に留まった花壇が、一週間後には背景に溶けている。慣れるということは、世界の一部を静かに失うことかもしれない。

カミュは『シーシュポスの神話』(1942年)で、繰り返しのなかに人間の条件を見た。岩を山頂へ押し上げ、転がり落ちるのを見て、また山を下りていく。永遠に。だがカミュは書いた。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。

旅行から帰った日、日常がほんの少しだけ新鮮に見える。それは数日で消える。新鮮さとは本質的に一時的なものであって、永続させようとした瞬間に壊れるのかもしれない。

「意味のある時間」と「意味のない時間」。この区別は人間が作り出したものであって、時間そのものにそんな区分はない。1時間は1時間だ。何をしても、何もしなくても。

石は存在していることを正当化しない。木も。猫もたぶん。なぜ人間だけが、「何のために存在しているのか」と問われ続けるのだろう。


やり直しても同じ

「もし高校時代に戻れたら」。もう一度、最初から。誰でも一度は考える。

だが、戻れたとして、本当に違う選択をするだろうか。

仮に過去に戻れるが記憶は消えるとする。同じ情報、同じ状況、同じ判断力。同じ選択をするのではないか。であれば、「やり直し」という概念そのものが空回りしている。

では、記憶を保ったまま戻れるとしたら。それはもう「やり直し」ではなく、「未来の知識を持った別の人生」であって、かつての自分はそこにいない。「やり直す」主体がすでに別人になっている。

「あのときああしていれば」という後悔は、過去の自分への届かない一言であり、現在の視点から過去を裁いている。あのときの自分には、あのときの情報しかなく、あのときの経験しかなかった。持ち合わせのなかで最善を尽くしていたのだとすれば、後悔は時間差の不公平な裁判だ。

ニーチェは『悦ばしき知識』(1882年)の341節で、永遠回帰の思考実験を提示した。もし人生がまったく同じ形で永遠に繰り返される、終わらない今日が続くとしたら、その知らせに歓喜するか、絶望するか。これは宇宙の構造についての主張ではない。自分の人生に対する態度を測る実存的なリトマス試験紙だ。

ライプニッツは『弁神論』(1710年)のなかで、現実世界は無数の可能世界のなかから神が選んだ最善の世界だと論じた。別の可能世界に住む「自分」がいるとして、その自分は幸せなのだろうか。それとも、そこでもまた「別の可能世界にいる自分」を夢見ているのだろうか。

仏教には「無常」(anicca)の教えがある。すべては変化し、固定的な実体はない。「あのときの自分」はもう存在しない。変えたい対象そのものが、この世界のどこにもない。

選ばなかった道は、永遠に可能性のままとどまる。実行されなかった計画は常に完璧だ。傷つくのは現実だけ。可能性はいつも無傷のまま、遠くで光っている。

後悔は、時間の構造に組み込まれたバグかもしれない。未来から過去を振り返ることができてしまうせいで、過去の不完全さが目につく。もし時間が一方通行で、振り返ること自体が不可能だったなら、「後悔」という感情は生まれなかっただろう。

人生を一冊の本にたとえるなら、読了後には「ここが転換点だった」と指差すことができる。だが、書いている最中には、今のページがそれなのかどうか、誰にもわからない。


言葉にした瞬間に失われるもの

何かを感じている。強烈に。確かに。だが、それを言葉にしようとすると、指の間からこぼれ落ちるように消えていく。言葉にした瞬間、それは感じていたものとは別の何かに変わっている。

美しい景色を前にして「きれいだ」と口にする。その三文字は、自分のなかで起きていることの何割を運んでいるだろうか。1割か。5割か。いずれにせよ、余りの方が圧倒的に大きい。

悲しみを言葉にすると、悲しみが少し小さくなる気がする。それは「整理された」のか、「切り捨てられた」のか。

ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921年)の最後の命題で書いた。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(第7命題)。語りうることの限界が世界の限界を画定する。世界はそこで終わっている。後期の『哲学探究』(1953年刊行)では、言語を「言語ゲーム」として捉え直した。言葉の意味はその使用のなかで生まれる。内面の感覚を言語で完全に伝達できるかという問い自体を、後期ヴィトゲンシュタインは解体にかけている。

メルロ=ポンティは『知覚の現象学』(1945年)で、知覚が言語に先行すると論じた。身体は言葉より先に世界を了解している。言語化とは事後的な翻訳であり、翻訳には必ず落ちるものがある。

翻訳不可能な言葉がある。ポルトガル語のsaudade。日本語の「木漏れ日」。デンマーク語のhygge。ある言語にしか存在しない言葉。では、言葉のない感覚は、その言語の話者にとって「存在しない」のだろうか。名前のない色は見えているのだろうか。あなたは赤を知らないのかもしれない。

詩人がやっていることは、言語の限界を内側から押し広げる試みだ。通常の用法では届かない何かに、言葉の配列を工夫することで触れようとする。だが詩の解釈は読者ごとに異なる。それは結局、読者自身の経験が言葉の隙間を埋めているからだ。詩人が投げたボールは、受け取った人の手のなかで、別のボールになっている。

プログラミング言語は曖昧さを排除することで成り立つ。自然言語は曖昧さの上に建っている。曖昧さは欠陥なのか。それとも、曖昧であることによって初めて運べるものがあるのか。

考えるとき、頭のなかで言葉を使っているだろうか。もし使っているとしたら、言語を持たない生き物は「考えていない」のか。言語がなかったら、人間は今と同じ感情を持っていただろうか。

言語は世界を分節する道具であると同時に、世界を特定の形に切り取る枠でもある。見えるようになるものと、見えなくなるものが、同時に生まれる。

沈黙は、語ることの放棄ではないかもしれない。語りえないものに対する、唯一の誠実な態度なのかもしれない。


誰も見ていない場所で

誰にも見られていないとき、あなたは善い人間だろうか。

道に財布が落ちている。監視カメラはない。通行人もいない。深夜の住宅街。

プラトンは『国家』第2巻で、ギュゲスの指輪の話を登場させた。透明になれる指輪を手に入れた羊飼いが、王を殺して権力を奪う。グラウコンはソクラテスに問う。もし何をしても罰されないなら、それでも正しくあり続ける理由はあるのか、と。透明人間の倫理。2400年経っても、答えは出ていない。

深夜の交差点。信号は赤。車は一台も来ない。渡るか、待つか。そのとき自分を制御しているものは何だろう。法律か。道徳か。習慣か。あるいは、ただの惰性か。

カントは道徳的行為の価値は結果ではなく動機にあると考えた。義務に基づいて、義務のために行為すること。だがカント自身、人間が本当に純粋な義務だけから行為したかどうかは、確実には知りえないと認めている(『道徳形而上学の基礎づけ』1785年)。動機の純粋さは、本人にすら検証できない(「正直は美徳ではない」)。

フーコーは『監獄の誕生』(1975年)で、ベンサムのパノプティコンの概念を展開した。監視されている「かもしれない」という意識だけで、人は自らを規律する。実際に誰かが見ている必要はない。監視カメラは、設置されている事実だけで機能する。

ネット上の匿名空間で人が攻撃的になるのは、パノプティコンの逆証明かもしれない。顔が見えなくなった途端に壊れるものがある。残る道徳は、思っていたほど頑丈ではない。

「善い人間でありたい」という欲望。これは道徳の出発点なのか、それとも道徳のすり替えなのか。善い人間「であるために」善いことをするのは、つきつめれば自分のためだ。正義も善もないのだとすれば、なおさらだ。


共感という暴力

「わかるよ、その気持ち」。善意の言葉だ。だが、本当にわかっているのだろうか。

レヴィナスは他者の「顔」(visage)を倫理の出発点に据えた(『全体性と無限』1961年)。他者とは、私の理解の枠を超えた存在だ。「わかる」と言うことは、他者の他者性を自分の既知のカテゴリーに回収することと紙一重になりうる。あなたは私を知りうるか。翻訳には必ず歪みが伴う。悲しみの翻訳にも。

アダム・スミスは『道徳感情論』(1759年)で共感(sympathy)を道徳の基礎に据えた。だがスミスも、共感が完全ではありえないことを知っていた。私たちにできるのは他者の状況を想像することだけであり、他者が実際に何を感じているかを直接知ることはできない。

トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」(1974年)で、コウモリの主観的経験を人間が理解することの原理的な限界を論じた。超音波で世界を知覚するとはどういうことなのか。想像すらできない。では、同じ人間同士なら理解できると、どうして確信できるのだろう。

小説や映画で泣くことがある。架空の人物の苦しみに涙する。存在しない人間への共感。これは本物の共感なのか。それとも、自分のなかの何かが勝手に振動しているだけなのか。

意識が根本的に私的なものであるなら、「共感」は常に一種のフィクションだ。だが、このフィクションなしに社会は成り立たない。

「わからない」と正直に言えることの方が、「わかるよ」と安易に言うことよりも、ときに相手を尊重している。共感の限界を認めることは、冷たさではない。他者の経験を自分の物語に回収しないという、静かな誠実さかもしれない。


壊れたものの方が美しい

金継ぎ。壊れた茶碗を金で繕う。壊れる前よりも、壊れた後の方が美しいと感じることがある。あの感覚は何なのだろう。

完璧なものには、どこか居心地の悪さがある。完璧すぎる笑顔、完璧すぎる履歴書、完璧すぎる人生。隙のないものに、なぜか惹かれない。

古い建物。使い込まれた道具。傷のついた革のカバン。時間の痕跡が刻まれたものに感じる温かさ。新品にはないもの。それは「物語」なのかもしれない。傷は時間が通り過ぎた証であり、そこに何かがあったことの記録だ。たとえ誰も覚えていないとしても。

「傷ついた経験が人を深くする」と言われることがある。だが、それは本当だろうか。傷はただの傷であって、それ以上でも以下でもないのかもしれない。だが、傷を隠さないということ。壊れたことを否定せず、金で継ぐということ。そこには完璧さとは別の種類の強さがある。

熱力学の第二法則。エントロピーは増大する。宇宙は秩序から無秩序へと向かう。崩壊こそが自然の方向であり、完璧な状態を保つことの方がむしろ不自然だ。壊れたものは、壊れていないものよりも、宇宙の真実に少しだけ近い。

もし傷跡を一切消せるとしたら、全部消すだろうか。それとも、いくつか残すだろうか。残すとしたら、なぜだろう。


意味を探すという病

「人生の意味は何か」。

意味という病。この問い自体が、ひとつの症状なのかもしれない。石は意味を問わない。川も。犬もたぶん。なぜ人間だけが意味を探し、見つからないことに苦しむのか。

カミュは『シーシュポスの神話』(1942年)で、世界に意味を求める人間の衝動と、意味を返さない世界との対立を「不条理」(l'absurde)と呼んだ。不条理に対して、自殺も宗教への跳躍もカミュは退けた。不条理を直視しながら、それでも生きること。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。

ニーチェが「神は死んだ」と書いたとき(『悦ばしき知識』125節、1882年)、それは無神論の旗を振っていたのではない。西洋文明が意味の究極的な根拠としてきたものが崩壊したという診断だった。足元の地面が消えた。問題は、その後どこに立つのか、ということだった。

トルストイは『懺悔』(1882年)のなかで、意味が見出せない苦しみを生々しく記録した。名声も家族も財産もあった。それでも、なぜ生きるのかがわからなくなった。すべてを持っている人間が、何も持っていないと感じる。所有と意味は、まったく別の座標軸にある。

日常の小さな喜び。おいしいコーヒー。猫の寝顔。夕焼け。これらに「意味」があるかと聞かれたら困る。でも、なかったら困る。意味と価値は同じものだろうか。それとも、別のものだろうか。

意味を求めることは、世界にパターンを見出そうとする脳の機能の副産物かもしれない。雲に顔を見つける能力と同じ回路が、人生に物語を投影しようとしている。

「意味がない」と絶望するのは、「意味があるはずだ」という前提を手放せないからだ。前提を捨てれば絶望も消える。だが、前提を捨てることが本当に可能かどうかはわからない。人間が物語る動物であり、意味を探す生き物であるなら、意味への渇望は本性に組み込まれていて、スイッチを切ることはできないのかもしれない。

赤ん坊は意味を問わずに生きている。いつから問い始めるのだろう。そして、問い始めた時点で、何かが壊れたのだろうか。


死ぬのが怖いのではない

死は怖い。だが、何が怖いのか。痛みか。消滅か。忘れられることか。自分が死んだ後の世界に自分がいないことか。

考えてみれば、死んだ後に恐怖を感じる主体はいない。恐怖は常に「まだ死んでいない今」にだけ存在する。エピクロスはこれを論理的に整理した。我々が存在するとき死は存在せず、死が存在するとき我々は存在しない。したがって死は生者にも死者にも関係しない。

論理的には完璧だ。だが、この論証で恐怖が消えた人間は、歴史上ほとんどいないだろう。

ハイデガーは「死へ臨む存在」(Sein zum Tode)を現存在の根本構造として分析した。死は「まだ来ていない」が、常にすでに「差し迫っている」。そして死は代理不可能だ。誰も自分の代わりに死んでくれない。死を正面から引き受けること(先駆的覚悟性)によって、日常の匿名的な「ひと」としてのあり方から、本来的な存在へと転じうる、とハイデガーは考えた。

モンテーニュは『エセー』第1巻20章に「哲学することは死ぬことを学ぶことだ」と掲げた。この定式はプラトン『パイドン』67eにおけるソクラテスの言葉に遡る。哲学の最も古い定義のひとつが、死に関わっている。

どうせ死ぬからこそ時間に重みがある、とよく言われる。もし無限の時間があるなら、すべてを「後で」に回せる。急ぐ必要がない。それは自由だろうか。それとも、すべてが等しくどうでもよくなるという意味で、別の種類の牢獄だろうか。

毎日、多くの人が死んでいる。ニュースでは数字として流れてくる。だが、自分の死だけは特別に感じる。この非対称は何なのだろう。

死は、「自分」というプロジェクトの終了ではなく、「自分」というプロジェクトに輪郭を与えているものかもしれない。始まりと終わりがなければ物語にはならない。死がなければ「人生」という概念そのものが成り立たない。

すべての生き物は死ぬ。だが、自分が死ぬことを知っているのは、おそらく人間だけだ。この知識は呪いなのか。贈り物なのか。

不老不死の薬があったとして、飲むだろうか。あなたは死ねないとしたら、それは祝福だろうか。呪いだろうか。


考えても仕方ない。

答えなど出ない。問いが増えただけだ。読み始めたときよりも、少し余計に混乱しているかもしれない。それでいい。もともと整理されていたわけではないのだから。

午前3時はまた来る。

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Dependabotの対応が面倒なのでRenovateを導入する

Dependabotくんはある程度の依存関係の更新を通知してくれるが、山のようにprojectを抱えているとなんとも痒いところに手が届かない。 ということで、Renovateを使ってみる。 Build software better, togetherGitHub is where people build software. More than 150 million people use GitHub to discover, fork, and contribute to over 420 million projects.GitHub ここからGitHub Appを入れる。 あとは、指示に従ってポチポチするだけで、超かんたんだった。 感想 自動化最高。

By Sakashita Yasunobu

nodejsのバグを見つけたのでPRを投げてみた

概要 要するに、node --testで特定のバイナリを標準出力に書くと、テストランナーが固まったり、異常終了したりするバグです。 バグ自体は既知のものだったようで、修正がされていました。 test_runner: infinite loop in FileTest#drainRawBuffer when child stdout contains FF 0F followed by large size bytes · Issue #62693 · nodejs/nodeVersion v25.9.0 (also reproduced on v24.14.1 LTS, v22.21.0 LTS, v23.4.0) Platform Darwin 25.

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青空文庫のParser

青空文庫のParser

青空文庫のParserを作ってます。 GitHub - P4suta/aozora: Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks.Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks. - P4suta/aozoraGitHubP4suta Rustで作ってますが、配布物はcargoのほかにnpm/pypiでも入手できます Documentation * Playground — try it in

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