生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

生きること

岩はまた転がり落ちる

朝、目覚ましが鳴る。昨日も鳴った。明日も鳴る。あなたはそれを止めて、起き上がる。なぜか、と問われたら、たぶん答えに詰まる。「仕事があるから」、「学校があるから」。でもそれは理由ではなく、状況の説明にすぎない。 ギリシア神話に、シーシュポスという王がいた。そして1942年、アルベール・カミュという哲学者が、この古い物語を使って、とても厄介な問いを投げかけた。 神々は退屈だったのかもしれない シーシュポスはコリントスの建国王にして、神話屈指のトリックスターだった。ゼウスが河神アーソーポスの娘アイギーナを連れ去ったとき、シーシュポスはそれをアーソーポスに密告した。死神タナトスが迎えに来れば鎖で縛り上げ、冥界に送られれば冥府の神すら言いくるめて地上に舞い戻った。 神々はついに、彼にふさわしい罰を考案する。巨大な岩を山の頂上まで押し上げること。ただし岩は、頂上に届く寸前で転がり落ちる。シーシュポスはまた麓に降り、また押し始める。それが永遠に繰り返される。 この罰の本当の残酷さは、肉体的な苦痛にあるのではない。無意味の反復にある。どれほど力を込めても、結果は振り出しに戻る。努力の痕跡は

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

透明人間の倫理

善人はたぶんいない ひとつ、思考実験をしよう。 もし今この瞬間、あなたが完全に透明になれるとしたら。誰にも見えない。カメラにも映らない。記録も残らない。法も届かない。そうなったとき、あなたは今と同じように振る舞うだろうか。 約2400年前、プラトンの『国家』第2巻で、グラウコンがソクラテスに向かってひとつの寓話を語った。 リュディア王に仕えるギュゲスという羊飼いが、ある日、地震によって大地に開いた裂け目へ降りていく。そこには青銅でできた馬があり、扉を開けると、中には人間の骸骨が横たわっていた。その指に、金の指輪がはまっている。ギュゲスはそれを抜き取った。 後日、指輪の石を内側に回すと自分の姿が見えなくなることに気づく。透明人間になったギュゲスは王宮へ上り、王妃を誘惑し、王を殺害し、自ら王座に就いた。 グラウコンはソクラテスにこう問いかけた。もし正しい人間と不正な人間それぞれにこの指輪を与えたなら、二人の行動に違いは出るだろうか。彼自身の答えは明快だった。違いはない。どちらも同じことをする。人が正しくあるのは、見られているからにすぎない。正義とは、弱さゆえの社会的な妥協であっ

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

灯りと不在

朝、目が覚める。自分がいる。少なくとも、そう感じる。 これほど当たり前のことを疑う人は少ない。目の前のコーヒーカップが存在すること、隣で眠っている猫が生きていること、電車で向かいに座っている人に心があること。全部まとめて「そりゃそうでしょ」で片づけられる。 ただ、哲学はこの「そりゃそうでしょ」をまったく信用しない。 隣の人には中身がない 通勤電車に乗っている人を見る。表情がある。動作がある。スマートフォンを操作し、あくびをし、ときどき窓の外を眺める。この人には意識がある、と思う。 しかし、それをどうやって証明するのか。 デイヴィッド・チャーマーズが1996年に提示した「哲学的ゾンビ」という思考実験がある。外見も行動も脳の物理的状態も、意識のある人間とまったく同じだが、主観的な経験が一切ない存在。痛みを感じているように振る舞うが、何も感じていない。笑うが、おかしくはない。泣くが、悲しくはない。 論理的に、この存在は矛盾しない。外側から意識の有無を確かめる方法は、原理的に存在しない。物理学も神経科学も、ニューロンの発火やシナプスの接続は説明できる。しかし「なぜそこに主観的な

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

誰も聞いていない

森で木が倒れた。誰もいなかった。音はしたか。 あなたにとっては、どうでもいい話かもしれない。木が倒れれば空気は揺れる。物理としてはそれで片がつく。ところがこの問いは、少なくとも140年以上、哲学者にも物理学者にも片づけられずにいる。もしかすると、問い自体が壊れているのかもしれない。 問いは最初から壊れている 1883年、アメリカの雑誌『ザ・ショトーカン(The Chautauquan)』にこんな問いが載った。「木が島で倒れて、人間がひとりもいなかったら、音はあるのか?」。回答はこうだった。「ない。音とは空気の振動によって耳に引き起こされる感覚のことだから」。 翌年には『サイエンティフィック・アメリカン』が似た質問を取り上げ、より技術的な回答を添えている。音とは振動が耳という機構を通じて伝わり、神経中枢で認識されるものである。耳がなければ音はない、と。 問いの現在のかたち、つまり「森で木が倒れて、誰も周りにいなかったら、音はしたのか」は、1910年に出版されたチャールズ・リボーグ・マンとジョージ・ランサム・トゥイスの物理学の教科書『Physics』に登場したのが最初とされてい

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする

あなたの右隣にいる人間を見てほしい。その人は呼吸をしている。まばたきをしている。話しかければ返事をするし、冗談を言えば笑う。あなたと同じ言葉を使い、あなたと同じように怒り、あなたと同じように泣く。 だが、その人に意識があるという証拠は、どこにもない。 これは比喩ではない。誇張でもない。哲学が数百年にわたって格闘し、いまだに解決できていない問題だ。あなたが毎日すれ違うすべての人間について、その内側に「誰か」がいるのかどうか、あなたには原理的に確かめる方法がない。 この記事は、その絶望的な事実についてである。 確かなのは自分だけ デカルトは、あらゆるものを疑った。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、自分の身体すら、悪い霊に騙されている可能性がある。だが、「疑っている自分自身」の存在だけは疑えない。疑うという行為そのものが、疑う主体の存在を証明するから。有名な「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」だ。 ここで立ち止まってほしい。デカルトが確実だと言ったのは、自分の意識だけだ。あなたの意識の存在は、あなたにとっては疑いようがない。だが、その確実さは、あなたの隣にいる人間に

By Sakashita Yasunobu

生きること

誰もまだ死んでいない

あなたは自分が死ぬところを想像できるだろうか。試してみるといい。目を閉じて、呼吸が止まり、意識が途切れ、世界から自分という存在が消え去る、その瞬間を。 できない。想像しようとするたびに、「想像している自分」がそこに居座っている。自分の不在を描くには、不在を見届ける自分が必要になる。これは論理の欠陥ではなく、意識の構造そのものだ。 誰もまだ、本当の意味では死を知らない。死んだ人間は語らないし、生きている人間は死を知らない。つまりこの文章も、死について何かを語っているようでいて、たぶん何も語っていない。 届かない手紙 紀元前3世紀、ギリシアの哲学者エピクロスは友人メノイケウスへの手紙のなかで、こう述べた。死はわれわれにとって何ものでもない。善悪はすべて感覚のうちにあるが、死とは感覚の剥奪そのものだからだ、と。われわれが存在するとき死はここになく、死がここにあるときわれわれはもう存在しない。だから死は、生者にも死者にも関わりがない。 明快な論理だ。反論の余地がないほどに。 しかし、この完璧な議論を読み終えたあなたは、たぶん少しも安心していないだろう。エピクロスの論理は死の恐怖を

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

幸福という自殺

あなたの幸福が、すべて嘘だったとする。安らぎも、達成感も、誰かに愛されているという確信も、一つ残らず精巧に設計された幻だったとする。 あなたはその幻を壊した者に感謝するだろうか。それとも「余計なことをするな」と言うだろうか。 この問いに即座に答えられる人を、少し疑ったほうがいい。50年以上、哲学者たちはこの問いの前で立ち往生している。答えが出ないのではない。問いのほうが、底なしに深くなっていく。 影の中は暖かい プラトンは『国家』の第七巻で、ひとつの寓話を描いた。地下の洞窟に生まれ落ち、一度も外の光を知らない人々。彼らは壁に映る影を現実のすべてだと信じ、影の名前を覚え、影の動きを読む技術を競い合い、それなりに充実した日々を送っている。 ある日、一人が鎖を解かれて外に出る。太陽の光に目を灼かれ、やがて世界の本当の姿を知る。影は影にすぎなかった。 ここまではよく語られる。だが、あまり語られない部分がある。 洞窟に残った人々は、不幸だっただろうか。 彼らは何も失っていない。外の世界を知らないということは、欠落を感じようがないということだ。影を現実だと信じることに苦痛はない。

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

何でもいい

あなたが最後に「何でもいい」と言ったのは、いつだっただろう。 レストランで。カフェで。Netflixの画面の前で。誰かに「どっちがいい?」と聞かれて、少し考えて、考えることをやめて、「何でもいい」と言った。 あれは怠惰だっただろうか。無関心だっただろうか。 もしかすると、あれが一番正直な答えだったのかもしれない。 ロバは正しかった 600年以上語り継がれている思考実験がある。 完全に同じ量の、完全に同じ質の干し草の山が、完全に等しい距離に二つ置かれている。その真ん中に一頭のロバが立っている。ロバは空腹だ。どちらの干し草を食べてもいい。だが、どちらを選ぶ理由もない。条件がまったく同じだからだ。 ロバは選べない。そして、餓死する。 「ビュリダンのロバ」と呼ばれるこの寓話は、14世紀フランスの哲学者ジャン・ビュリダンの名を冠しているが、ビュリダン本人がロバについて書いたわけではない。似た着想はアリストテレスの『天体論』にまで遡ることができる。哲学の世界では、考えを生んだ人と名前を残した人は、しばしば別人だ。 それはさておき、このロバはばかげているように見える。どちらでもい

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倫理と思考実験

知れば知るほど暗くなるのに誰も懐中電灯を置けない

「知は力なり」とフランシス・ベーコンは書いたということになっている。四百年が過ぎた。人類はかつてないほど多くのことを知っている。それで何か解決したかと聞かれると、少し困る。 知ることは、普通、良いこととされている。教育を受けろ、本を読め、世界を知れ。そう言われて育つ。誰も「知るな」とは言わない。けれど、何かを知ってしまった後の、あの取り返しのつかなさについては、誰も教えてくれない。 この文章は答えを出すためのものではない。知ることがなぜこんなにも厄介なのか、その厄介さの輪郭をなぞってみるだけだ。なぞったところで何かがわかるわけでもない。それすらも、知っている。 ググれば済む世界で何も知らない ひとつ試してみてほしい。スマートフォンを置いて、友人の電話番号を何人分言えるか数えてみる。 おそらく、片手で足りる。あるいはゼロだ。十年前には覚えていたはずの番号が、今は連絡先アプリの中にだけ存在している。それでも日常は困らない。知らなくても、アクセスできればいい。現代の「知っている」は、多くの場合「検索できる」と同義になりつつある。 しかし、検索できることは本当に「知っている」と言

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倫理と思考実験

あなたはもうボタンを押している

ある朝、目を覚ますと、枕元にボタンがある。 押せば100万ドルが手に入る。ただし、世界のどこかで、あなたの知らない誰かがひとり、死ぬ。 押すか。押さないか。 これはSF作家リチャード・マシスンが1970年に発表した短編「Button, Button」の設定だ。2009年にはリチャード・ケリー監督の映画『運命のボタン』(原題: The Box)としても知られるようになった。SFの皮をかぶった、残酷なほどシンプルな道徳実験。 でも、この話の本当に気味が悪いところは、押すか押さないかじゃない。 あなたがもう押しているかもしれない、というところだ。 善人は距離でできている 目の前で人が倒れたら、たいていの人は駆け寄る。隣の家の子どもが飢えていたら、何かせずにはいられない。 でも、「地球の裏側で誰かが飢えている」と聞いたとき、あなたの胸はどれくらい痛むだろう。 哲学者ピーター・シンガーは1972年の論文「Famine, Affluence, and Morality」で、ひとつの思考実験を示した。通勤途中、浅い池で子どもが溺れているのを見かけたとする。高価なスーツが台無しにな

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倫理と思考実験

あぁ、さようなら

最後に誰かと会ったとき、「もう二度と会えない」と思っただろうか。 思わなかったはずだ。最後はいつもそうだ。「じゃあまた」が最後の言葉になることを、事前に知ることはできない。そしてある朝、「また」が永遠に来ないことを知る。それはニュースのように不意に届くこともあれば、長い沈黙のあとに、静かに気づくこともある。 この文章には答えがない。もしあなたが今、誰かを失って苦しんでいるなら、ここに処方箋はない。あなたの悲しみをやわらげる言葉を、僕は持っていない。持っていたら自分に使っている。ただ、同じように途方に暮れた人間の、まとまらない思考の断片がここにあるだけだ。 最後はいつも静かに過ぎる 「最後に会ったとき、これが最後だとは思わなかった」 おそらく、人類史上もっとも多くの人が、もっとも多くの言語で、もっとも多くの夜に呟いてきた言葉だ。そしてそのたびに、誰もが同じことに気づく。別れは、別れの瞬間には姿を見せない。 考えてみれば当然だ。もし「これが最後だ」と分かっていたら、僕たちはきっと別の言葉を選ぶ。もっと丁寧に、もっと慎重に、もっと正直に。しかしそれは「最後だと知っている別れ」で

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

鎖のない牢獄

あなたは自由だと思っている。そう思っていること自体が、もう手遅れだという証拠なのだけれど。 「自由になりたい」と口にするとき、人はたいてい、何かから逃げたいだけだ。仕事から。人間関係から。退屈から。けれど、すべてから逃げ切った先に何があるか、想像したことはあるだろうか。おそらく、何もない。文字通り、何もない。そしてその「何もなさ」は、あなたが逃げてきたどの苦痛よりも、ずっと耐えがたい。 何もしなくていい地獄 長い休暇の最初の3日間は楽園だ。4日目から、楽園は少しずつ腐り始める。 目覚まし時計を止める必要がない朝。どこへ行ってもいい午後。何をしてもいい夜。それは自由の完成形のはずだった。けれど1週間もすれば、あなたはスマートフォンを無意味にスクロールしながら、なぜか以前より疲れている自分に気づく。 完全な自由は、無限の選択肢を意味する。そして無限の選択肢の前で、人は何も選べなくなる。レストランのメニューが300ページあったら、あなたは注文できるだろうか。おそらく店を出る。人生も同じだ。なおも自由という夢を見る人間だけが、選ぶたびに静かに壊れていく。「何にでもなれる」という祝福

By Sakashita Yasunobu