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The university is an institution that keeps asking what it is for. These entries consider governance, admissions, research, internationalization, and the distance between what a university promises and what it delivers.

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ごみ処理と拡大生産者責任

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 ごみの処理は、自治体が担う最も身近な公共サービスの一つであると同時に、費用負担や処分場の確保といった構造的な課題を抱えている。本稿では、高知市の清掃事業を事例にごみ処理の現状と課題を分析し、拡大生産者責任(EPR)の考え方を取り入れた制度設計について考察する。 高知市のごみ処理事業 高知市のごみ処理事業は、段階的な制度改革を重ねてきた。特筆すべきは、平成元年(1989年)に開始されたプラスチック系ごみの分別収集である。当初は全市の8.3%の世帯を対象としたモデル地区から始まり、翌年の平成2年1月には全市域での分別収集が実現した。これは容器包装リサイクル法の完全施行(2001年)に12年先行する取り組みであった。 現在の分別区分は、可燃ごみ、プラスチック製容器包装、ペットボトル、資源物、可燃粗大ごみ、家電品、水銀含有廃棄物、不燃ごみ、発火器具・ライター類の9区分である。こうした分別収集体制のもと、平成19年度(2007年度)以降は焼却灰・焼却飛灰の全量をセメント資源化するゼロ・エミッション

By Sakashita Yasunobu

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貴族道徳と奴隷道徳

📝本稿は、筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、加筆修正を加えて執筆したものです。 道徳の起源を問う 「善」と「悪」は自明の概念ではない。ニーチェは『道徳の系譜』(1887年)において、これらの道徳的概念の起源を系譜学的に探究し、道徳が歴史的に構成されたものであることを暴露しようとした。 系譜学とは、ある概念や制度が「なぜ」「どのようにして」生まれたのかを、歴史的な生成の過程に遡って問う方法論である。ニーチェにとって、道徳的な「善悪」の判断は天から与えられた永遠の真理ではなく、特定の人間集団の特定の利害関係から発生したものである。『道徳の系譜』の序言でニーチェ自身が述べるように、この書は『善悪の彼岸』の「補遺および解説」として執筆された。彼が問うのは、「善悪の価値判断はこれまでどのような条件のもとに発明されたのか」であり、「そうした評価そのものの価値」である。 貴族道徳 ニーチェが区別する第一の価値評価の様式は「貴族道徳」である。それは高貴な者、強者、支配者が自らを「よい(gut)」と肯定することから生まれる。 ニーチェによれば、「〈よい〉という判断のおこりは、

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ボーヴォワール『第二の性』序論を読む

本記事は、大学のゼミにおいてシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』序論を担当した際に作成したレジュメを基にしている。ゼミでの議論や下書き段階での検討内容を踏まえ、加筆修正を施した。 テキストはS・ド・ボーヴォワール『第二の性 I 事実と神話』、『第二の性』を原文で読みなおす会訳、河出書房新社、2023年を使用した。ページ番号は同書に準拠する。 1. 女とは何か (¶1-4|pp. 11-16) ¶1 女がいるかどうかの議論以前に女とはなにかを問うべきである。女であることは生物学的な根拠によって定義されるものでもない。女の本質も存在しない。とすれば、女という範疇自体を否定する立場も成り立ちうる。 ここでの論理を整理しておこう。もし性格が「本質」ではなく「状況への反応」であるならば、女を規定する不変の本質は存在しないことになる。かつて「女らしさ」と呼ばれていたものが今日では存在しないという事実は、もし「女らしさ」が本当に生まれつきの本質だったら状況が変わっても存在し続けるはずだということの反証になっている。つまり、「今日消えた」という事実が、「実は最初から本質としては存在して

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哲学を読む

ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』第1章 心理的諸状態の強度について

本記事は、大学のゼミにおいてアンリ・ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』(Essai sur les données immédiates de la conscience)の第1章を担当した際に作成したレジュメを基にしている。ゼミでの議論や下書き段階での検討内容を踏まえ、加筆修正を施した。 テキストはベルクソン著、合田正人・平井靖史訳『意識に直接与えられたものについての試論』(ちくま学芸文庫、2002年)を使用した。ページ番号は同書に準拠する。 用語集(岩波哲学・思想事典より) 本章を読むにあたって、いくつかの専門用語の理解が前提となる。 延長 (extension) 空間的な広がりのこと。物体は空間の一部分を占め空間においてあるという、物体のそういう在り方を規定する概念。 外延・内包 論理学の用語。記号とその表象している内容の関係に関わる概念。フレーゲによれば、「Xは人間である」というような単項述語の意味として規定される。含むものと含まれるものの関係として理解できる。 強度 (intensité) 質的差異とは異なる量的差異として、しかも外延量

By Sakashita Yasunobu

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ベルクソンの純粋持続

📝本稿は、筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、加筆修正を加えて執筆したものです。 言語と意識の歪み ベルクソンは『意識に直接与えられたものについての試論』(1889年)において、われわれが通常「量」として捉えている心理的状態が、実際には「質」的な変化であることを示そうとした。 議論の出発点は、言語と思考に対する根本的な批判である。ベルクソンによれば、言語は「われわれの抱く諸観念のあいだに、物質的諸対象のあいだに見られるのと同じ鮮明ではっきりした区別、同じ不連続性をうち立てることを要請する」(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』、9頁)。つまり、言語は本来連続的な意識の流れを、空間上の物体のように切り分けてしまう。この操作は日常生活において有用であり、科学の多くの場面で不可欠であるが、哲学的な問題を論じる際にはしばしば深刻な歪みをもたらす。 感情の「強さ」は量ではない 問題は、感情や感覚の「強さ」にも同様の歪みが生じている点にある。たとえば喜びが「増す」とき、われわれは同じ喜びが量的に拡大したと考えがちである。しかしベルクソンによれば、喜びの各段階は「わ

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ロック『人間知性論』における単純観念と固性

📝この記事は、筆者が哲学ゼミで作成したレポートをもとに加筆修正のうえ公開したものです。ジョン・ロック『人間知性論』第2巻第2章から第7章を扱っています。 ジョン・ロック(1632-1704)の『人間知性論』(An Essay Concerning Human Understanding, 1689)は、経験主義哲学の基礎を築いた主著である。ロックは第1巻で生得観念を否定し、第2巻で人間のあらゆる知識の素材である「観念」(idea) がどのように経験から生じるかを論じる。本稿では第2巻第2章から第7章を読解し、「単純観念」(simple idea) の概念とその分類を考察する。 単純観念とは ロックによれば、観念は単純なものと複雑なものの二つに分けられる。氷の冷たさと硬さ、ゆりの匂いと白さを例にとれば、物の性質が感官を感発して生む観念はそれぞれ単純である。冷たさの知覚の中に硬さは含まれず、匂いの中に色は含まれない。こうした単純観念は「心での一つの均質な現象態ないし想念」のみを含む。 単純観念は一切の知識の材料であり、感覚と内省だけによって生じる。知性は蓄積した単純観念から複雑

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ロックにおける一次性質と二次性質

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 ロックは『人間知性論』第2巻において、物体の性質を「一次性質」と「二次性質」に区別した。この区別は近代認識論における物体の性質理解の基本的枠組みのひとつである。 性質と観念 ロックにおいて「性質」とは、私たちの心の中に「観念」を生み出す「力」のことである。ここで重要なのは、心の中にある観念と、物体に存する性質とを明確に区別している点である。私たちが直接知るのは心の中の観念であり、物体の性質はその原因として推論されるものである。 一次性質 一次性質とは、物体そのものに内在し、いかなる変化を受けても物体から分離できない性質である。ロックは次のように述べる。 まったく分離できないような物体のうちの性質。(『人間知性論』、187頁) 具体的には、固性(solidity)、延長、形、運動あるいは静止、数がこれにあたる。ロックは「たとえば一粒の小麦をとってこの部分に分割しよう。やはり固性・延長・形・可動性をもっている」(同上、187頁)と例示し、どれだけ細かく分割しても一次性質は失われないこ

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デカルトにおける表象的実在性と形相的実在性

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 デカルトは『省察』第三省察において、「表象的実在性」(realitas objectiva)と「形相的実在性」(realitas formalis)という区別を導入する。この概念装置は、観念の分析から神の存在証明へと至る議論の鍵となるものである。 第三省察の文脈 デカルトは第一省察で方法的懐疑を遂行し、第二省察で「私は考える、ゆえに私は存在する」(コギト)を確立した。しかし、この段階ではデカルトは独我論の立場にとどまっている。確実なのは自分の存在と思惟作用だけであり、外的世界の存在はいまだ保証されていない。 デカルトが次に取り組むのは、「欺く神」の想定によって数学的真理までも疑わしくなった事態において、「神は存在するかどうか」、「存在するとするならば欺瞞者ではないかどうか」を検討することである(小林道夫『哲学の歴史 第5巻』、217頁)。この検討のためにデカルトが展開するのが「結果からの(ア・ポステリオリな)証明」と呼ばれる神の存在証明であり、その核心に表象的実在性と形相的実在性の区別が

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カントにおける分析的判断と総合的判断

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 カントは『プロレゴーメナ』§2において、「綜合的判断と分析的判断の一般的区別」を論じている。この区別はカント哲学の出発点をなす概念装置であり、近代認識論の理論的基盤となっている。 分析的判断 分析的判断とは、述語が主語の概念の中にすでに含まれている判断のことである。カントは次のように定義する。 分析的判断は述語において、主語の概念のうちでそれほど明瞭に等しく意識されてではないにせよ、実際にすでに考えられていたもの以外のことは何も述べない。(『プロレゴーメナ』、25頁) たとえば、「すべての物体は延長している」という判断において、「私は物体の概念を少しも拡張したのではなく、ただこの概念を分解しただけである。延長ということははっきりと述べられてはいないが、その物体という概念によってすでに判断より以前に実際上考えられていたのだからである」(同上、25頁)。物体という概念そのものに空間的な広がりという意味が含まれており、新しい情報は何も付け加えられていない。日常的に言い換えれば、「独身者は結婚

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哲学を読む

ラッセル『哲学入門』第1章 現象と実在

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 バートランド・ラッセル『哲学入門』(The Problems of Philosophy, 1912)は、哲学の基本問題を平易に論じた古典的入門書である。本稿ではその第1章「現象と実在」の議論を追い、ラッセルが提起する問題の構造を整理する。 本稿での引用は、バートランド・ラッセル『哲学入門』(高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2005年)に拠る。ページ番号は本文中に丸括弧で示す。 1. テーブルは実在するのか 日常的に目にするテーブルの色や形は、状況によって変化する。この「見かけ」と、変化しない「実在」としてのテーブルは同じものなのだろうか。ラッセルは方法的懐疑からこの問いを立てる。 一見すると、テーブルは見たり触ったり叩いて音を聞いたりすることで、その存在を確かめられるように思える。しかしラッセルは次のように指摘する。 もし本当にテーブルが存在するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり、触ったり聞いたりできないことが明らかにある。実在のテーブルが存在したとしても、そ

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哲学は文学的表現を必要とするか

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 ウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と述べ、哲学における厳密性を重視した。哲学は曖昧さを排し、論理的に明晰な言語で真理を語るべきだという理想がそこにはある。 ところが皮肉なことに、この言葉自体が詩的で暗示的な響きを持っている。翻訳の問題ではない。仮に「語れないことについては語るな」と素っ気なく言い換えたとしても、なお示唆的な含意がそこに入り込んでしまう。こうして考えていくと、メルロ=ポンティが論じるサルトルの洞察、すなわち「最も無味乾燥な散文であっても常に若干の詩を含む」(メルロ=ポンティ『意味と無意味』)という事態が、あらゆる言語表現を覆っていることに気づかざるをえない。 結局のところ、これは哲学と文学的表現の関係という問題に集約される。哲学は本当に文学的表現を排除できるのか。それともむしろ、哲学はそれを必要としているのか。本稿では、哲学と文学の歴史的対立から出発し、哲学者自身の実践における矛盾、言語の本質的限界を経て、哲学における文学的表現の必然性について

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メルロ=ポンティ『知覚の現象学』と身体の問い

📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 はじめに 本稿が検討する問いは「身体は〈物〉なのか」である。 この問いに対する素朴な答えは「然り」であろう。身体は物質から構成されており、物理法則に従う。医学は身体を物質的対象として扱うことで成功を収めてきた。しかし、この素朴な答えに対して、メルロ=ポンティは異議を唱える。 ただし彼の議論を追う前に、問いそのものを吟味する必要がある。「身体は物か」と問うとき、私たちはすでに「物」と「物でないもの(意識)」という区別を前提としている。さらに、フランス語で身体を表す語 corps は同時に「物体」をも意味し、objet は「対象」であると同時に「客観」でもある。「身体は物か」という問いは、言語のレベルですでに物と身体を同一視する構造を含んでいる。メルロ=ポンティによれば、この区別自体が科学的抽象の産物であり、「生きられた世界」の上に構成されたものである。したがって本稿の課題は、「物か否か」

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