気の利かない問いたち

あなたがこの文章を読み終えるまでに、何ひとつ解決しない。約束する。

ここには答えがない。処方箋もない。読んだ後に世界の見え方が変わるような、気の利いた結論もない。ここにあるのは、2500年以上にわたって誰も解けなかった問いを並べて、その解けなさを眺める、ただそれだけの行為だ。

哲学には長い歴史がある。その長い歴史のなかで解決された問いは、驚くほど少ない。解決したように見えるものも、たいてい、問いの形を変えただけだ。それでも人は問い続ける。深夜2時、天井を見つめながら。シャワーの中で。カフェの窓際で、冷めたコーヒーを前にして。答えが出ないと知りながら。

以下は、そういう問いの集まりだ。考えても仕方のないことばかり。でも、一度考え始めたら、もう戻れなくなるかもしれない。


あなたはもう死んでいる

あなたはすでに何度か死んでいる。ただ、誰もそれに気づかなかっただけだ。

5歳のあなたを思い出してほしい。あの子供と今のあなたは、いったい何を共有しているのだろう。記憶はほとんど残っていない。性格も違う。身体を構成する細胞は約7年から10年でほぼすべて入れ替わるから、物質的にもほとんど重なりがない。にもかかわらず、あなたは「同じ自分」だと信じている。

その信念は、どこから来ているのだろう。

Derek Parfitは1984年の『Reasons and Persons』で、この問いに正面からぶつかった。彼が提示したテレポーテーションの思考実験はこうだ。あなたの身体をスキャンし、完全に分解する。火星で、原子レベルで完璧に再構成する。再構成されたその存在は、あなたの記憶をすべて持ち、あなたの性格をすべて持ち、自分が「あなた」であると心から信じている。さて、その存在は「あなた」か。

Parfitの答えは、挑発的だった。そもそも同一性(identity)は重要ではない、と言ったのだ。重要なのは心理的連続性(psychological continuity)と心理的つながり(psychological connectedness)であり、それらは程度の問題にすぎない。0か1かではなく、グラデーション。今日のあなたと明日のあなたのあいだにはほぼ完全なつながりがあるが、今日のあなたと20年後のあなたのあいだでは、それはずいぶんと薄い。

テセウスの船の逆説は、はるか昔にプルタルコスが伝えた。英雄テセウスの船の板を一枚ずつ交換していったら、すべての板が入れ替わったその船は元の船と同じか。2000年以上経った今でも、答えは出ていない。

そしてあなたは、テセウスの船だ。どこが私なのか。問えば問うほど、輪郭は溶ける。

行動経済学が示す時間割引(temporal discounting)という現象がある。人は将来の報酬を、現在の報酬より低く評価する傾向がある。これは一般に非合理的とされるが、Parfitの枠組みに従えば、むしろ合理的なのかもしれない。20年後の自分は、もはや「自分」と呼べるほどのつながりを持っていないのだから。年金のために今日の楽しみを犠牲にするとき、あなたは半ば見知らぬ誰かのために我慢しているのかもしれない。

10年前の日記を読み返して、まるで他人が書いたように感じたことはないだろうか。それは、錯覚ではないのかもしれない。

毎晩、眠りに落ちるとき、意識は途切れる。朝目覚めた「あなた」が昨夜の「あなた」と同一であるという保証は、実はどこにもない。


記憶が嘘をつく

あなたが昨日体験したと思っていること。その半分は、たぶん、嘘だ。

仮に「自分」が何かに支えられているとすれば、多くの人は「記憶」と答えるだろう。John Lockeは1689年の『人間悟性論』で、まさにそう論じた。人格の同一性は記憶の連続性にある。あなたが昨日の自分と同じ人間であるのは、昨日の体験を覚えているからだ、と。

直感的で、わかりやすい答えだ。だが、記憶は信用に値しない。

認知心理学者Elizabeth Loftusは、数十年にわたる研究で、記憶がいかに脆いものかを明らかにしてきた。彼女の実験では、「子供の頃にショッピングモールで迷子になった」という偽の記憶を植え付けることに成功した。被験者は、植え付けられた偽の記憶と本物の記憶を区別できなかった。心からそれを「思い出している」と信じていた。この誤情報効果(misinformation effect)は、目撃証言の信頼性に深刻な疑問を投げかけたが、問題の根はもっと深い。私たちが「知っている」と信じていることの多くが、そもそも「何も確かではない」のだとしたら。

私たちの自伝的記憶は再構成的だ。カメラのように体験を保存しているのではなく、想起するたびに組み立て直している。思い出すたびに、微妙に書き換わる。思い出したい形に、つじつまが合う形に、少しずつ。

Daniel DennettやPaul Ricoeurが論じた「物語的自己」(narrative self)とは、この脆い記憶の断片から一貫した物語を紡ぎ、その物語を「自分」と呼ぶ営みのことだ。あなたの「自分史」は出来事の正確な記録ではない。何度も推敲を重ねた小説のようなものだ。都合の悪いエピソードは無意識に削除され、格好いい場面は無意識に盛られている。

あなたが「自分はこういう人間だ」と思っているとき、それは記憶というきわめて信頼性の低いメディアに依存した、ひとつのフィクションにすぎない。


自由なんてなかった

たとえ自分が何者であるかが曖昧でも、少なくとも自分で選んでいる。自由意志。人間の尊厳の、最後の砦だ。

1983年、神経科学者Benjamin Libetは、その砦に杭を打ち込んだ。

被験者に好きなタイミングで手首を曲げてもらい、「曲げよう」と意識した瞬間を特殊な時計で報告させた。同時に脳波を計測した。すると、運動準備電位(readiness potential)は動作のおよそ550ミリ秒前に始まっていた。一方、被験者が「動かそう」と意識するのは動作のわずか200ミリ秒前。意識的な「決定」が生まれるはるか前に、脳はすでに準備を始めていたことになる。350ミリ秒の空白。その空白に、あなたの「意志」はいない。

公平を期して言えば、この実験の解釈には激しい論争がある。準備電位が本当に「決定」を意味するのか、意識された意図の時点を正確に報告できるのか。正当な批判は多い。だが、この実験が突きつけた問いそのものは、どれだけ批判しても消えてくれない。

スピノザは『エチカ』(1677年)で、もっと端的に言っていた。自由とは、必然性に対する無知にすぎない、と。もし投げられた石に意識があれば、きっと「自分は自由に飛んでいる」と思うだろう、と。

哲学的には、自由意志をめぐる立場は大きく三つに分かれる。ハード決定論は、あらゆる出来事が先行する原因によって完全に決定されており、自由意志の入る余地はないと言う。両立論(compatibilism)は、ヒュームやフランクファートの系譜に連なる立場で、決定論と自由意志は矛盾しないと考える。外的強制なく自分の欲求に従って行為できるなら、それは十分に「自由」だ、と。非両立論的自由意志論(形而上学的libertarianism、政治思想とは無関係の用語)は、人間には因果的に決定されない真の選択能力があると主張する。

この議論のもっとも不快な点は、もしすべてが決定されているのなら、この問いについて考えていること、悩んでいること、結論を出すこと、それらのすべてもまた決定されている、というところにある。

自由意志を信じるか否かすら、あなたは選べていないのかもしれない。もしそうだとすれば、誰も何も選んでいないし、誰のせいでもない


言葉は届かない

あなたが「わかってほしい」と思ったこと。それは、おそらく一度も、正確に伝わったことがない。

Ludwig Wittgensteinは、その問題に生涯をかけた。1921年の『論理哲学論考』の最後の命題はあまりにも有名だ。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.)。命題7。これは謙虚さの表明ではなく、言語の限界についての厳密な論理的帰結だった。

だが晩年のWittgensteinは、もっと根本的な問題に取り組んだ。1953年に死後出版された『哲学探究』で、彼は私的言語(private language)の可能性を否定した。自分だけの内的体験を指す、自分だけが理解できる言語は、原理的に存在しえない。言語は本質的に公共的な営みであり、「規則に従う」という行為は、ひとりだけでは成立しない。

W.V.O. Quineは1960年の『Word and Object』で、翻訳の不確定性(indeterminacy of translation)を論じた。未知の言語を話す部族の前でウサギが走り、話者が「gavagai」と言う。これは「ウサギ」を意味するのか、「ウサギの時間的断面」か、「融合されていないウサギの部分」か。行動の証拠だけからは、どの翻訳が「正しい」かを決定できない。翻訳は、原理的に不確定なのだ。言語の限界が世界の限界であるなら、世界はそこで終わっている

もし言語が本質的に公共的なものであるなら、あなたの最も私的な体験は、痛みも、孤独も、あの夕焼けを見たときの言葉にならない何かも、言語によって正確に表現されることは、原理的に、ない。言語は共有できるものしか運べない。そして、あなたが本当に伝えたいものは、たいてい、共有できないものだ。

「わかってほしい」という欲求は、おそらく人間のもっとも切実な欲求のひとつだ。そしてそれは、構造的に満たされないようにできている。


誰もわかってくれない

言葉が届かないとして、ではそもそも、届ける相手は本当にそこにいるのか。

あなたの隣に座っている人が意識を持っているかどうか。それを確認する方法は、存在しない。相手がどれほど適切に受け答えし、涙を流し、笑い、怒ったとしても、それが内的体験を伴っているのか、精巧な自動反応にすぎないのかは、外からは原理的に判別できない。

これが他者の心の問題(problem of other minds)だ。古典的には類推論法で処理されてきた。自分には心がある。他者は自分と似た行動をとる。ゆえに他者にも心があるだろう。だがこの推論は帰納法の一例であり、サンプルサイズは1だ。たった一つの事例から全称命題を導くことの危うさは、論理学の初歩でさえ教わる。

Thomas Nagelの1974年の論文「What Is It Like to Be a Bat?」は、この問題を別の角度から照らした。コウモリはエコーロケーション(反響定位)で世界を知覚する。私たちはコウモリの脳をどれだけ精密に調べても、「コウモリであるとはどのような感じか」は決して知りえない。主観的体験は、三人称的な科学的記述に還元できない。もし心を、人の心奥を、覗いてみたいと願ったところで、その願い自体が構造的に叶わない。

Wittgensteinの「カブトムシの箱」の思考実験(『哲学探究』§293)は、もっと日常的な不安を突く。全員が箱を持っていて、中のものを「カブトムシ」と呼んでいる。でも誰も他人の箱を覗くことはできない。箱の中身は全員違うかもしれない。空っぽかもしれない。それでも「カブトムシ」という言葉は問題なく流通する。

逆転スペクトル(inverted spectrum)の思考実験も同じ方向を指す。あなたが「赤」と呼ぶ色の体験が、私が体験する「青」と質的に同一だったとしても、私たちは生涯そのことに気づかない。同じ物体に同じ言葉を使うことを学んだだけだから。

共感(empathy)は「相手の立場に立つ」ことだとよく言われる。だが、文字通りには不可能だ。あなたが想像できるのは「あなたが相手の状況に置かれたら」であって、「相手が相手の状況にいるとき」ではない。その二つは、まったく違う。

「わかるよ」と言ってもらえたときの安心感は、たしかに本物だ。でもそれが「わかっている」ことの証拠には、まったくならない。それでも暗闇の中でも、あなたは明日も誰かを愛そうとする


意識がなくても世界は回る

もしあなたの意識が突然消えても、宇宙の物理法則は何ひとつ変わらない。

物理学はリンゴが落ちる理由を説明できる。神経科学はニューロンの発火パターンを記述できる。だが、あなたが赤を見るとき、その「赤さ」という主観的な感覚、あの質感は、いったいどこから来るのか。

David Chalmersは1995年の論文「Facing Up to the Problem of Consciousness」で、意識の問題を「易しい問題」(easy problems)と「難しい問題」(hard problem)に分けた。易しい問題は、注意や覚醒や情報統合といった、機能的に説明可能なメカニズムの問題。「難しい問題」は、なぜ物理的な情報処理に主観的体験(クオリア)が伴うのか、という問いだ。

哲学的ゾンビ(philosophical zombie)の思考実験は、この問いを先鋭化する。あなたと物理的に完全に同一で、行動もまったく同じだが、内側には何もない存在。灯りのついていない部屋。灯りと不在のあいだに、意識の居場所があるはずだった。もしそのような存在が論理的に想像可能なら、意識は物理的プロセスだけでは説明しきれないことになる。

この問いに対する哲学的立場は複数ある。機能主義は心的状態をその機能的役割で定義しようとするが、「なぜその機能に体験が伴うのか」には答えない。物理主義はすべては物理的だと主張するが、主観的体験をどう物理的記述に組み込むかが難題になる。二元論に立ち返れば、心と身体がいかにして相互作用するのかという別の謎が生まれる。近年再び注目を集める汎心論(panpsychism)は、意識を物質の基本的性質として位置づけるが、微小な意識がどのように統合されて人間の一貫した体験になるのかという「結合問題」(combination problem)に直面する。

あなたが今この文字を読んでいるとき、「読んでいる」という体験がある。画面の光が網膜に届き、電気信号が脳を駆け巡り、処理される。その物理的過程はすべて記述可能だ。だが「読んでいるという感じ」は、その記述のどこにも現れない。

科学のどの方程式にも、あなたの体験の居場所はない。


全部嘘かもしれない

今見えているこの画面。この部屋の壁。あなた自身の手。これらがすべて偽物である可能性を、論理的に排除する方法は、ない。

デカルトは1641年の『省察』(Meditationes de Prima Philosophia)で、全能の悪しき霊(genius malignus)があらゆる感覚経験を偽造しているかもしれないという仮説を、真剣に検討した。あらゆるものを疑い尽くしたその果てに残ったのが、あの有名な一行だった。「我思う、ゆえに我あり」(Cogito, ergo sum)。疑っているという行為そのものは疑えない。そこがデカルトの到達点であり、同時に出発点だった。

Hilary Putnamは1981年の『Reason, Truth and History』で、「水槽の中の脳」(brain in a vat)を提示した。あなたの脳が培養液の中でコンピュータに接続され、完璧なシミュレーションの体験を送り込まれているとしたら。あなたは今の体験と区別できない。Putnam自身はこの可能性を意味の外在主義という哲学的議論で退けようとした。だが直感的な不安は、論証で消せるようなものではない。現実か、あるいは。問いだけが宙に残る。

Nick Bostromは2003年の論文「Are You Living in a Computer Simulation?」で、三択を突きつけた。次の三つの命題のうち、少なくともひとつは真である。ほぼすべての文明がポストヒューマン段階に達する前に滅びるか。ポストヒューマン文明が祖先シミュレーションにほとんど関心を持たないか。あるいは、私たちが今すでにシミュレーションの中にいるか。Bostromはどれが真かは特定していない。だが統計的に考えて、もしシミュレーションが多数実行されているのなら、シミュレーション内の存在のほうが圧倒的に多い。

この問いの本当の怖さは、反証不可能なところにある。シミュレーションの外側に出て確認することは、原理的にできない。そして仮にシミュレーションだったとしても、あなたが感じている痛みや喜びは、何も変わらない。

偽物だとしても、その偽物を生きるしかない。「現実を生きる感覚」だけが、手元に残る唯一のものだ。


正しい人間なんていない

あなたは自分を「まあまあ善い人間」だと思っていないだろうか。悪いことはしていない。人を傷つけないようにしている。ルールは守る。そこそこまっとうな人間だ、と。

Thomas Nagelは1979年の論文「Moral Luck」で、その自負がいかに脆い地盤の上に立っているかを示した。Bernard Williamsも1981年に、独立して同じ主題を論じている。

飲酒運転を例にとる。酔って車を運転した二人のうち、一人はたまたま誰もひかなかった。もう一人はたまたま歩行者をひいてしまった。二人の行為の道徳的内容は同じだ。同じ無謀さ、同じ判断力の欠如。だが道徳的に非難される程度は、結果という純粋な偶然で決まる。そもそも人生に筋書きはないのだから。

Nagelは道徳的運(moral luck)を四つに整理した。行為の結果に左右される結果的運。どのような状況に置かれるかという状況的運。ナチス占領下に生まれるか、平和な社会に生まれるかで、道徳的に試される場面は根本的に異なる。性格や気質が遺伝と環境で形成されるという構成的運。そして行為を取り巻く因果連鎖に関わる因果的運。

この問いは、能力主義(meritocracy)の足元にも及ぶ。能力主義という言葉を作ったのは社会学者Michael Youngだ。1958年の風刺小説『The Rise of the Meritocracy』の中で。この言葉は能力主義社会への賛辞ではなく、その批判のために発明された。能力で人を選別する社会は、やがて新しいカースト制度を生む、と。

John Rawlsは『正義論』(1971年)で、「無知のヴェール」(veil of ignorance)を導入した。社会のルールを設計するとき、自分がどの位置に置かれるかまったくわからないとしたら、どんなルールを選ぶか。Rawlsの洞察の核にあるのは、才能も、努力する性格も、家庭環境も、すべて道徳的に恣意的(arbitrary)だという認識だ。

「頑張ったから報われた」と語る成功者は、自分が頑張れるように生まれたこと、頑張れる環境に置かれたこと、偶然の出会いに恵まれたことを、どれだけ正当に計算に入れているだろうか。あなたの「努力する性格」すら、あなたが選んだものではない。

あなたの善良さは、あなたの手柄ではないかもしれない。あなたの成功も失敗も、結局のところ、サイコロの目だったのかもしれない。


善意が世界を壊す

良いことをしようとした瞬間、あなたはすでに間違い始めているのかもしれない。

Peter Singerは1972年の論文「Famine, Affluence, and Morality」で、きわめて単純な思考実験を示した。浅い池のそばを通りかかったら、子供が溺れている。服が汚れるのを理由に助けないことは道徳的に許されるか。ほとんどの人は「許されない」と答える。

では、地球の反対側で、きわめて少額の寄付で救える命があることを知っていながら、その金額をコーヒーに使うことは。

Singerの論証は驚くほど簡潔で、反論がきわめて難しい。距離は道徳的に関係がない。気づいていようがいまいが、あなたはもうボタンを押している。あなたに救う力があり、その犠牲がわずかであるなら、救わないことは道徳的に許されない。だがこの論理を徹底すると、ほぼすべての娯楽、趣味、贅沢は道徳的に正当化できなくなる。あなたが今楽しんでいるその一時間で、どこかの誰かが死んでいく。

功利主義の古典的な困難もここに顔を出す。最大多数の最大幸福のために、少数を犠牲にすることは許されるか。Philippa Footが1967年に提示し、Judith Jarvis Thomsonが発展させたトロッコ問題は、この問いを5人と1人の命のあいだに先鋭化する。レバーを引けば5人が助かり、1人が死ぬ。引かなければ5人が死に、1人が助かる。正解は、ない。「何人殺せば正しくなるのか」と問うことすら、すでに何かを間違えている気がする。

善意にはもうひとつ、構造的な問題がある。「助けてあげる」という行為には、必然的に権力の非対称性がある。助ける側には選ぶ自由があり、助けられる側にはない。そして善意の帰結を完全に予測することは不可能だ。歴史は、「よかれと思って」行われた介入が壊滅的な結果を招いた事例で溢れている。

「良いことをしたい」という欲求は、おそらく人間のもっとも美しい衝動のひとつだ。そしてそれは、もっとも危険な衝動でもありうる。


幸福の正体

あなたが最後に幸福を感じたのはいつだろう。そしてそれは、今も続いているだろうか。

Robert Nozickは1974年の『Anarchy, State, and Utopia』で、ひとつの機械を想像した。体験機械(Experience Machine)。接続すれば、あなたが望むあらゆる体験を、本物と区別できない形で提供してくれる。素晴らしい恋愛も、偉大な発見も、深い友情も。ただし実際には何も起きていない。あなたの身体は機械に繋がれたまま、微動だにしない。

接続するか。

ほとんどの人は拒否する。この直感的な拒否が意味するのは、人間は主観的な快楽だけを追い求めているのではない、ということだ。何かを実際にすること、現実に存在すること、ある種の真正さ(authenticity)に、うまく言語化できない価値を感じている。

だが「実際に」とは、いったいどういう意味だろう。先ほどのシミュレーションの議論を思い出せば、私たちがすでに体験機械の中にいないと、どうして断言できるだろう。

心理学が明らかにした快楽的トレッドミル(hedonic treadmill)は、さらに容赦がない。宝くじに当選した人の幸福度は、数ヶ月後にはほぼ元の水準に戻る。重度の障害を負った人も、やはり時間とともに元の幸福度の付近に戻っていく。外的な出来事は、幸福のベースラインをほとんど動かさない。

もし幸福が一時的な神経化学的反応でしかないのなら、「もっと幸福になりたい」という欲求そのものが、永遠に満たされないように設計されているということになる。

David Benatarは2006年の『Better Never to Have Been』で、さらに一歩踏み込んだ。存在には必ず苦痛が伴う。一方、快楽の不在は、存在しない者を傷つけない。だが苦痛の存在は、常に悪い。この非対称性から、存在しないことのほうが常に良い、とBenatarは結論する。反出生主義(antinatalism)と呼ばれるこの立場は極端に見えるかもしれないが、論証の構造は驚くほど堅固だ。そもそもわれわれは「投げ込まれた」のであって、存在することに同意した覚えはない。

幸福を追い求めることが、追い求める行為そのものによって幸福を遠ざけているのだとしたら。そして、追い求めないことを「選ぶ」自由すら怪しいのだとしたら。


死ぬのが怖いのは間違っている

死は、たぶん、あなたが思っているほど悪いものではない。それが問題なのだ。

エピクロスは「メノイケウスへの手紙」で、端的に言い放った。死は我々にとって何でもない。死が存在するとき我々は存在せず、我々が存在するとき死は存在しない。この二つは決して出会わない。しかし「あなたは死ねない」のだとしたら、この論証はさらに奇妙な形をとる。

ルクレティウスは『事物の本性について』(De Rerum Natura)で、さらに鋭い切り口を加えた。あなたは生まれる前の無限の時間を恐れなかった。では、死後の無限の非存在を恐れるのはなぜか。出生前の非存在と死後の非存在は、構造的に対称ではないか。これが対称性論証(symmetry argument)だ。

Thomas Nagelは1970年の論文「Death」で、この対称性を崩そうとした。死が悪いのは、それが苦痛だからではない。死者は何も感じない。死が悪いのは、生きていれば享受できたはずの良きものを剥奪するからだ。これが剥奪説(deprivation account)と呼ばれる立場だ。

だがこの議論には不穏な帰結がある。もし死が悪いのが「良きものの剥奪」であるなら、あらゆる死は等しく悲劇的だということになる。100歳で亡くなった人も、101歳の体験を奪われている。200歳まで生きる技術があれば、100歳での死は今よりずっと悲惨に映るだろう。死の悪さは、比較対象次第で、無限に膨らむ。どうせ死ぬ。だが「どうせ」は何も解決しない。

対称性論証への反論のひとつはこうだ。生まれる時期はある意味で固定されているが、死ぬ時期は変わりうる。「もっと早く生まれていたら」は通常、意味のある願いとして成立しにくい。だが「もっと遅く死にたい」は十分に意味がある。ここに非対称性がある、と。

論理的にはエピクロスに一定の道理がある。死は体験不可能であり、体験できないものを恐れるのは、たしかに非合理的に見える。

だがそう言われて安心できる人は、ほとんどいない。論理と感情のあいだには、論理では埋められない溝がある。


退屈が人を殺す

最後に何もせずにただ座っていたのは、いつだろう。たぶん、思い出せない。それ自体が、ひとつの症状だ。

Blaise Pascalは『パンセ』(Pensées、死後出版1670年)でこう書いた。「人間の不幸はすべて、部屋の中に静かに座っていられないことから来る」(Tout le malheur des hommes vient d'une seule chose, qui est de ne savoir pas demeurer en repos dans une chambre.)。17世紀に書かれたこの一文が、スマートフォンの時代に、ほとんど預言のように読めることの不気味さ。私たちは暇が怖いだけなのかもしれない。

退屈は単なる暇ではない。Martin Heideggerは1929年から1930年にかけての講義『形而上学の根本諸概念』(Die Grundbegriffe der Metaphysik)で、退屈を三つの段階に分けて分析した。

第一の退屈は、何かに退屈すること。電車を待つ時間、長い会議。対象がはっきりしている。第二の退屈は、何かの際に退屈すること。パーティに行って、それなりに楽しんでいるはずなのに、なぜか満たされない。対象がぼやけ始める。そして第三の退屈、深い退屈。「なんとなく退屈だ」。もはや対象がない。Heideggerはこの深い退屈のなかで、存在者の全体が引き下がり、根本的な空虚が露出すると考えた。そしてそれを、哲学的認識への入り口と見なした。

Kierkegaardは1843年の『あれかこれか』(Enten-Eller)の「輪作」(The Rotation of Crops)の節で、もっと直截に言った。「退屈はあらゆる悪の根源である」。

現代の私たちは、退屈を感じること自体が困難になっている。5秒の沈黙、5秒の空白があれば、手が勝手にスマートフォンへ伸びる。退屈を回避するためのインフラは完璧に整備されている。だが、SNSやショート動画やゲームが提供するのは、しばしば別種の空虚だ。刺激はあるのに、満たされない。

もしPascalが正しいなら、私たちが「気晴らし」(divertissement)と呼んでいるもののほとんどは、自分自身と向き合うことからの、組織的な逃避でしかない。

何もしないことが怖いのなら、何もしないときに何が見えるのか。たぶん、何も見えない。それが一番怖い。


選ばなかった人生

あらゆる選択は、選ばなかった無数の可能性を殺す。

Søren Kierkegaardは1844年の『不安の概念』(Begrebet Angest)で、不安を「自由のめまい」(Svimmelhed af Friheden)と呼んだ。不安の対象は、特定の脅威ではない。可能性そのものだ。何にでもなれるという自由が、何も選べないという麻痺を生む。崖の上に立ったとき、落ちることへの恐怖と同時に、自分から飛ぶかもしれないという可能性に対する恐怖がある。Kierkegaardの「めまい」とは、そういうものだ。

Robert Frostの「The Road Not Taken」(1916年)は、おそらく英語圏でもっとも愛され、もっとも誤読されている詩のひとつだ。しばしば「人と違う道を選ぶ勇気」の賛歌として引用される。だが原文を注意深く読めば、語り手は二本の道に実質的な違いがなかったことをはっきり認めている。"the passing there / Had worn them really about the same"(どちらも同じくらい踏み固められていた)。そして将来、自分がこの選択を大げさに美化して語るだろうと、自嘲的に予告している。この詩は個人主義の賛歌ではない。後づけの意味づけに対する、静かな皮肉だ。

心理学者Barry Schwartzは、選択のパラドックスを指摘した。選択肢が増えるほど、人の満足度は下がる。比較対象が増え、後悔の可能性が増えるから。10種類から選ぶより、3種類から選ぶほうが、人は満足を感じやすい。それでもなおも自由という夢を見る。選択肢を手放すことは、できない。

選ばなかった人生への郷愁は、「別の自分」がどこかに存在しうるという幻想に依拠している。だが、選択の瞬間に「別の自分」は消えた。もう存在しない世界を美化するのは簡単だ。検証できないのだから、いくらでも理想化できる。

もっとも自由な人間は、選ばなかった道のことを一切考えない人間かもしれない。だが、そんな人間はたぶんどこにもいない。


宇宙に意味はない

宇宙はあなたに何も約束していない。あなたが勝手に期待しているだけだ。

Thomas Nagelは1971年の論文「The Absurd」で、人生の不条理さの正体を精密に記述した。不条理とは通常、「願望や期待と現実のあいだの著しい不一致」を指す。だが人生の不条理さは、もっと根深い。私たちは自分の生活を深刻に、真剣に生きている。同時に、一歩引いて眺めれば、そのすべてが究極的にはどうでもよいと気づくことができる。この二重性そのものが、不条理なのだ。

Albert Camusは1942年の『シーシュポスの神話』(Le Mythe de Sisyphe)の冒頭でこう書いた。「真に重大な哲学的問題はただひとつしかない。それは自殺である」。Camusの言う不条理とは、人間が意味を求める根源的な欲求と、世界がその欲求に沈黙で応じるという事実との、永遠の衝突だ。「意味という病」に罹ったまま、治療法も見つからずに生きている。

Camusはこの不条理に対して、自殺でも信仰への跳躍でもなく、反抗(revolt)を提案した。シーシュポスは神々から罰を受け、山頂へ岩を押し上げては転がり落ちるのを見届け、また押し上げることを永遠に繰り返す。それでもなお、「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」(Il faut imaginer Sisyphe heureux)。岩はまた転がり落ちる。毎回、必ず。

NagelはCamusの「反抗」を、過剰に劇的だと退けた。不条理に対する適切な態度は、英雄的な身振りではなく、皮肉(irony)だとNagelは論じた。人生が不条理であることを認めつつ、それでもなお深刻に生き続ける。その矛盾を、ユーモアとともに抱える、と。

100万年後にあなたの行為はまったく意味を持たない。だがNagelは鋭く指摘する。もし100万年後に問題にならないことが今の行為を無意味にするなら、同じ論法で、「今」問題にならないとも言える。その論理は自分自身を食い尽くす。

「意味」そのものが意味を必要とするなら、無限後退に陥る。人生に意味を与えるとされるもの、それが神であれ使命であれ愛であれ、その意味もまた問われうる。不条理を「解決」しようとすること自体が、不条理の一部だという再帰的な構造。

それに気づいてしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。


考えることの無意味さについて考える

哲学の問いの多くには答えがない。2500年以上のあいだ議論されてきて、解決した問いはほとんどない。解決したように見えるものも、たいてい、問いの形を変えたか、あるいは問い自体を静かに棚上げしただけだ。

だが、解決しないことは問題ではない。

これらの問いが示しているのは、人間の思考そのものの限界かもしれない。あるいは、思考が暗黙に前提としている枠組みの脆さかもしれない。私たちは言語で考え、言語で問い、言語で答えようとする。だがその言語自体が、ここまで見てきたように、根本的な限界を抱えている。道具の限界が、作業の限界を決める。

もし決定論が正しければ、深夜にこういうことを考え始めてしまう衝動すらも、宇宙の始まりから因果的に決定されていたことになる。自由意志で考えているわけでもなく、その考えを正確に伝えることもできず、伝える相手が本当に意識を持っているかすら確認できない。

それでも考えてしまう。やめられない。答えが出ないとわかっていても、問わずにはいられない。

それが人間の、おそらくもっとも滑稽で、もっとも美しい矛盾だ。

答えはない。最初に言った通り。

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なにかをしよう!(何のために?)

人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。 献血にいこう 献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。 この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。 だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ち

By Sakashita Yasunobu

私という凡庸

あなたの代わりはいる。それも、かなりたくさん。人間にも機械にも。 これは侮辱ではない。観察だ。深い穴を何十年もかけて掘り続けてきた専門家がいて、あらゆる穴の構造を瞬時に把握できるAIがいて、あなたはシャベルすら持たずにその傍らに立っている。素人として。 ある企業のインターンシップに参加したとき、期待されたのは「哲学を学んでいる人間ならではの視点」だった。だが哲学を学んでいるからといって、人を唸らせるような洞察が自動的に湧いてくるわけではない。当然だ。哲学は知識の自動販売機ではないし、「ならではの視点」はボタンを押して出てくるものではない。 深さも広さも足りないとき、残っているのは何だろう。たぶん、何も残っていない。だがその「何もなさ」のほうに、少しだけ面白い問いがある。 以下は、そのあたりのことを真夜中に考えていたら、いつのまにか遠くまで漂流してしまった思索の記録だ。答えは用意していない。答えがないことが答えだ、とすら言うつもりはない。ただ、考えてしまった。深夜の、誰にも頼まれていない時間に。 代替可能 すべては交換可能である 産業革命は肉体を機械に置き換えた。AIは認

By Sakashita Yasunobu

あなたの憧れは、誰ですか。

あなたは何者にもなれる、と誰かが言った。嘘だ。 サルトルは『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』(1946)でこう述べた。「人間はまず先に実存し、世界の中で出会い、その後に自分自身を定義する」。生まれつきの本質もなければ、設計図もない。まず存在してしまう。それから何であるかを作る。 「実存は本質に先立つ(l'existence précède l'essence)」。この定式は解放の宣言に聞こえる。しかし少し考えればわかる。何者にもなれるということは、まだ何者でもないということだ。何かを選ぶたびに、選ばなかった可能性が静かに消えていく。選ぶたびに自分は狭くなる。自由に作れるはずの自分が、選択のたびに固まっていく。 ハイデガーは「被投性(Geworfenheit)」という概念でこの状況を別の角度から照らした。私たちは自分で自分の存在を始めたわけではない。気がついたら、すでにここにいた。生まれる場所も時代も身体も選んでいない。われわれは「投げ込まれた」。その地点から、そのままの条件で、何者かになろうとするしかない。

By Sakashita Yasunobu

退屈な今を生きる

明日のための今日 「今を生きろ」と誰かが言う。SNSにも自己啓発の本にも、同じ言葉がいたるところに転がっている。今日を大切にしろ。先延ばしにするな。一度きりの人生だろう。 ただ、よく聞いてみると、その理由はいつも明日に接続されている。今日の行動が未来を作る。後悔しないために今を無駄にするな。チャレンジすれば奇跡が起きる。つまり「今を生きろ」の看板の裏には「そのほうが結局うまくいくから」という計算がぴったり貼りついている。それは今を生きているのではなく、今を明日の原料として消費しているだけだ。 ホラティウスの "carpe diem" はもともと「今日という日を摘め」という意味だが、続く句 "quam minimum credula postero" は「明日をできるだけ信じるな」であって、「明日のために今日がんばれ」ではない。明日を計算に入れること自体を退けている。現代の自己啓発が借用する "carpe diem" は、原典とほぼ逆の意味で流通している。 マルクス・

By Sakashita Yasunobu