言語化できない不安の正体

何が不安なのかと聞かれて、答えられなかった。

不安はある。胸の奥のどこかが圧迫されている。胃が重い。眠れない。だが、何が不安なのかを言葉にしようとすると、ちょうどよい言葉が見つからない。「仕事が」「将来が」「人間関係が」と口にしてみても、どれもしっくりこない。不安の輪郭に言葉が届いていない感じがする。

たぶん、不安に輪郭がないのだ。

対象のない不安

ハイデガーは『存在と時間』の中で、恐れ(Furcht)と不安(Angst)を明確に区別した。

恐れには対象がある。暗い道を歩くときの恐怖。試験に落ちるかもしれないという不安。病気の診断を待つ緊張。これらには「何が怖いのか」という問いに対する答えがある。

だが、Angstには対象がない。ハイデガーによれば、Angstは世界全体が「無意味に」感じられる経験だ。普段は当たり前に機能していた世界の意味が崩壊し、すべてが「どうでもいい」ものとして立ち現れる。スタンフォード哲学百科事典が記述するように、不安が襲うと、日常の仕事への没頭が崩れ落ち、世界のアフォーダンスが「どうでもよいもの」として現れる。それは特定の何かへの恐怖ではなく、存在そのものの重さへの反応だ。

不安に怯えているとき、あなたが怯えているのは特定の何かではない。存在そのものの底が抜ける感覚に怯えている。

身体が先に知っている

不安は言葉の前に身体に現れる。

胸の圧迫感。胃の重さ。肩の強張り。手のひらの汗。呼吸が浅くなる。身体は不安を知っている。言語化できないのは、不安が言語の領域に属していないからかもしれない。不安は身体の出来事であり、身体の言語で記述されるべきものなのかもしれない。

だが、私たちは身体の言語をほとんど持っていない。「胸が苦しい」、「胃が痛い」という表現はあるが、不安の身体感覚を精密に記述する語彙はほとんどない。医者に行けば「ストレスですね」と言われる。カウンセラーに行けば「不安を書き出してみましょう」と言われる。どちらも、身体の出来事を言語の世界に翻訳しようとしている。

言葉にした瞬間、別のものになる

仮に不安を言語化できたとしても、そこには別の問題がある。

言葉にした瞬間、不安は変質する。漠然としていた不安が、言葉によって特定の形を与えられる。「将来が不安だ」と言えば、不安は「将来」に限定される。「お金が不安だ」と言えば、不安は「お金」に限定される。だが、元の不安はそんなに整理されたものではなかったはずだ。

世界はそこで終わっている。言語の届かない場所に、不安の本体がある。言葉にできた部分は、不安の影にすぎない。

キルケゴールは不安をめまいに喩えた。自由のめまいだと。崖の縁に立ったとき、落ちることへの恐怖と、自ら飛び込むかもしれないという可能性への恐怖が同時に襲う。『不安の概念』において、不安は罪に先行するものとされた。つまり不安は、まだ起きていないことへの、しかも起きるかどうかすらわからないことへの、先取りされた反応だ。

夜中の3時の不安

不安には時間帯がある。

夜中の3時に感じる不安と、朝の光の中で感じる不安は、質が違う。夜の不安は増幅する。暗闇の中で、不安は輪郭を失い、際限なく膨張する。朝になると、同じ不安が小さく見える。光の中では、不安に形を与えやすくなる。

これは不安の正体が変わったのではなく、不安を受け取る身体の状態が変わっただけだ。コルチゾールの分泌パターンが変わり、睡眠の有無が認知を変え、光が脳の覚醒状態を変える。同じ不安が、身体の状態によってまるで別のもののように感じられる。

つまり、不安の「正体」を探ること自体が的外れなのかもしれない。不安に正体などない。あるいは、正体は無数にある。そのときどきの身体と、そのときどきの環境と、そのときどきの認知が掛け合わされた結果として、「不安」と呼ばれる状態が立ち現れるだけだ。

不安を抱えたまま

「不安を書き出しましょう」というアドバイスがある。認知行動療法でも用いられる手法だ。効果はある。だが限界もある。

書き出せる不安は、すでに言語化できた不安だ。言語化できない不安は、書き出しようがない。書き出せなかった部分が残る。そして残った部分こそが、たぶん不安の核心なのだ。

何も確かではないということだけが確かで、その不確かさそのものが不安の燃料になっている。

孤独は治らないように、言語化できない不安もたぶん治らない。それは人間が意識を持ち、未来を想像でき、そして自分の存在が有限であることを知っているかぎり、消えることのない影だ。

不安の正体を知りたかった。でも正体を知ったところで、不安は消えない。名前をつけたところで、その名前が不安を飼い慣らしてくれるわけではない。

あなたは不安とともに眠り、不安とともに起き、不安とともに一日を過ごす。それはあなたの欠陥ではなく、意識の副作用だ。意識があるかぎり、不安はある。

それだけのことだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

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