届かないとわかっている声を上げる
あなたの一票で世界が変わる。選挙のたびに誰かがそう言う。統計的には、あなたの一票が選挙結果を左右する確率は、雷に打たれるよりも低い。それでも私たちは投票所に足を運ぶ。合理性が崩壊した場所で、民主主義は何食わぬ顔で回り続けている。
あなたの一票が届く確率
1957年、経済学者アンソニー・ダウンズは『民主主義の経済理論』で、ある不都合な計算を示した。投票に行くにはコストがかかる。時間、移動、情報収集の手間。一方で、自分の一票が選挙結果を変える確率は天文学的に低い。期待効用の枠組みで考えれば、投票しない方が得だ。
これが「ダウンズのパラドックス」と呼ばれるものだ。
話は単純に見える。自分の票が決定的になる確率に、候補者間の価値の差を掛け、投票コストを引く。問題は、その「決定的になる確率」がほぼゼロだということだ。有権者を重み付きコインに見立てる二項モデルでは、一票が勝敗を覆す確率は100万分の1ペニーにも満たないと推計される。もう少し楽観的な、過去の選挙データに基づく統計モデルでも、接戦州で1000万分の1程度だ。
宝くじの賞金が2億円だとしても、宝くじを買うことが合理的だとは言えない。投票も同じ構造を持っている。良い候補者が当選すれば社会は良くなるかもしれない。でも、あなたの一票がそれを実現する確率は、限りなくゼロに近い。
しかもこの計算には、もう一つ厄介な前提が隠れている。あなたが「より良い候補者」を正しく見分けられている、という仮定だ。政治学の実証研究は、有権者の大多数が基本的な政治知識すら持ち合わせていないことを繰り返し示してきた。一票の期待効用がほぼゼロであるうえに、その一票が正しい方向を向いている保証もない。
何でもいいで書いたビュリダンのロバは、等しい二つの干し草の前で立ちすくんだ。有権者はさらに厄介な立場にいる。選択肢の価値が等しいのではなく、自分の選択が結果にほぼ影響しないと知りながら、それでも「選べ」と言われている。
「みんなの意思」という幻
ダウンズのパラドックスが「なぜ投票するのか」を問うなら、もう一つの投票のパラドックスは「投票して何が決まるのか」を問う。
18世紀フランスの数学者コンドルセは、多数決が循環する場合があることを発見した。三人の有権者が三人の候補者A、B、Cについて投票するとき、ペアごとの多数決でAがBに勝ち、BがCに勝ち、しかしCがAに勝つ。じゃんけんの三すくみと同じだ。勝者は存在しない。「全体の意思」は、どこにも定まらない。
1951年、経済学者ケネス・アローはこの直観をさらに一般化した。アローの不可能性定理は、3つ以上の選択肢がある状況で、いくつかの合理的に見える条件を同時に満たす集団的意思決定のルールは存在しないことを数学的に証明した。その条件とは、非独裁制(一人の人間がすべてを決めない)、全員一致の尊重(パレート効率性)、無関係な選択肢からの独立性(AとBの順位がCの存在に左右されない)、そしてあらゆる個人の選好パターンを許容すること。どれも「まっとうな民主主義ならこれくらい満たしてほしい」と感じるものばかりだ。しかし、そのすべてを同時に満たすルールは、原理的に存在しない。
つまり、民主主義がその正当性の根拠とする「人々の声」は、集約の仕方によっていかようにも変わりうる。数学は、「みんなの意思」が単なる集計方法の産物でありうることを示している。
私たちは鎖を愛した動物として、自由を秩序に差し出した。社会契約のもとで、自分の意思を「代表」に託す。しかしその「意思」を集約する方法そのものが論理的に破綻しうるとしたら、私たちはいったい何を託しているのか。
投票箱の前に立つ動物
それでも人は投票する。
ダウンズの計算が正しいなら、投票率はゼロに収束するはずだ。しかし現実には、多くの民主主義国で過半数の市民が投票所に足を運ぶ。この説明不可能な行動をどう理解すればいいのか。
ジェフリー・ブレナンとロマスキーは1993年の著作『民主主義と決定』で「表出的投票理論」を提唱した。投票は結果を変えるための行為ではなく、自己表現の行為だという。コンサートでバンドのTシャツを着るように。スタジアムで顔にペイントするように。自分の応援するチームの勝敗に影響を与えられないと知りながら、それでも声を上げる。投票も、たぶん、そういうものだ。
この理論に従えば、投票とは「私はこういう人間だ」という宣言になる。民主主義に参加する市民であるという表明。リベラルであること。保守であること。あるいは何かに反対していること。票は届かなくても、その身振りだけが残る。
表出的投票理論は、有権者の多くが政治知識に乏しいという数々の研究とも整合する。結果を変えるつもりがなければ、政策を精査する動機もない。投票は合理的な意思決定ではなく、所属の確認であり、アイデンティティの儀式だ。
ただ、もしこの理論が正しいなら、投票には私たちが信じているような「重み」はない。投票は冷静な意思表示ではなく、感情の発露だ。そしてその感情が偏見や集団バイアスに根ざしていない保証はどこにもない。透明人間の倫理で問うたように、匿名の状況で人間の道徳がどこまで機能するかは楽観できない。秘密投票の匿名性のもとで、有権者は自分の最も未熟な衝動をためらいなく表現できてしまう。
棄権という合理性
「投票しないのは無責任だ」という通念は根強い。しかし哲学者ジェイソン・ブレナンは、むしろ無知な状態で投票することの方が害だと論じる。
ブレナンは銃殺隊の比喩を使う。100人の銃殺隊が無実の子どもを撃とうとしている。あなたが101人目として加わっても結果は変わらない。子どもは死ぬ。しかし、だからといって銃殺隊に加わることが許されるだろうか。多くの人は「許されない」と答える。手を汚すべきではない、と。
投票にも似た構造があるとブレナンは主張する。個々の票は結果を変えない。しかし、無知や偏見に基づく投票は、集団的に有害な意思決定への加担だ。「手を汚さない」ために棄権するという選択にも、倫理的な正当性がありうる。
一方で、棄権を安易に肯定するわけにもいかない。政治哲学者エリック・ビアボームは、市民は法の「共著者」であると論じる。投票しようがしまいが、政府はあなたの名のもとに行動する。投票しないことは中立ではなく、不正義への暗黙の同意とも解釈できる。あなたはもうボタンを押しているで書いたように、不作為もまた行為だ。何もしないことは、何かをしないという選択だ。
しかしこの「加担」の責任を引き受けるのは容易ではない。誰のせいでもないで考えたように、因果的に微小な寄与しかない個人に、いったいどれだけの道徳的責任を帰属させられるのか。投票しても棄権しても、あなたは何かに加担している。そしてそのどちらを選んでも、結果はほとんど変わらない。
なおも自由という夢を見るで触れたように、選択肢があること自体が呪いになることがある。投票か棄権か。その二択すら、すでに用意された構造の内側にある。
集計の果てに
民主主義は「あなたの声は届く」と約束する。しかし数学はそれが幻でありうると証明し、経済学はその行為が非合理だと示し、政治心理学は有権者が何も知らないまま投票していることを暴いた。
それでも投票所には列ができる。
おそらく投票とは、希望の表明ではない。何も変わらないことに耐えるための儀式だ。何かが変わると信じているのではなく、何も変わらないことに耐えきれないから、せめて手を動かす。
あなたの一票は届かない。届かないと知っていても、届けようとする。その行為に意味があるかどうかを問うこと自体が、たぶん、的を射ていない。
意味があるかではない。意味がなくても、やめられないということだ。