嘘に泣く

フィクションに泣くのは、考えてみれば、おかしなことだ。

あなたが涙を流しているその物語は、あなたのために書かれたものではない。あなたの人生を知らない誰かが、あなたとは無関係な架空の人物について、おそらくは締め切りに追われながら書いた。そしてたいていの場合、それは売り物として世に出ている。棚に並び、値札がつき、レビューがつき、星の数で格付けされる。

なのにあなたは泣いている。

歌詞にしてもそうだ。あなたの悩みを歌っているわけでもない。あなたの名前も、あなたの人生も、あなたの失恋も、作詞家は知らない。それでもあなたの胸に刺さる。どうしてだろう。いや、もっと根本的な疑問がある。どうしてそれが「刺さる」などという暴力的な比喩で語られるのだろう。あなたは自分から刺されに行っているのに。

存在しないものに泣いている

哲学にはこの問題を正面から扱った議論がある。「フィクションのパラドクス(paradox of fiction)」と呼ばれる。

1975年、哲学者コリン・ラドフォードは「アンナ・カレーニナの運命になぜ心を動かされるのか(How Can We Be Moved by the Fate of Anna Karenina?)」という論文で、フィクションへの感情的反応がはらむ矛盾を指摘した。議論の構造は端的だ。

まず、ある対象に感情を抱くためには、その対象が存在すると信じている必要がある。次に、フィクションの登場人物が実在しないことを私たちは知っている。にもかかわらず、私たちはフィクションの登場人物に心を動かされる。

この三つの前提はどれも正しそうに見えるが、三つ同時には成り立たない。ラドフォードの結論は率直だった。フィクションへの感情的反応は「非合理的で、首尾一貫しておらず、矛盾している(irrational, incoherent, and inconsistent)」。解決ではなく、診断だった。彼は矛盾を矛盾のまま残して去った。それからもう50年以上が経つが、哲学者たちはまだこの矛盾の前で立ち往生している。

もしラドフォードが正しいなら、映画館で頬を濡らしているあなたは、厳密に言えば、矛盾を生きている。存在しないと知っているものに心を動かされるという、理性では説明のつかないことをしている。

しかし「非合理的だ」と言われて、あなたは泣くのをやめるだろうか。やめないだろう。非合理だと知っていても泣くのだとしたら、非合理であることはどうやら泣くのをやめる理由にはならないらしい。

現実を生きる感覚でも触れたことだが、夢の中で恐怖を感じたことがある人は多いだろう。あの恐怖は「本物」に感じるが、対象は存在しない。VRで高所に立たされたとき、あなたの膝は震える。目の前の崖がピクセルの集合体にすぎないと知っていても。体は知性より先に反応する。感情は信念の許可を待たない。

これは感情が理性より原始的なものであることを示唆しているのかもしれない。あるいは単に、人間が矛盾した生き物だということを確認しているにすぎないのかもしれない。いずれにしても、あなたは泣く。理由などなくても。

あなたの歌じゃない

あなたが聴いて涙するあの曲は、あなたのことを歌っていない。

アーティストがインタビューで「あの曲は失恋のときに書いた」と語ることがある。あなたはその失恋を経験していない。そのアーティストに会ったこともない。ある人の固有の経験から生まれた言葉が、まったく別の文脈を生きるあなたの胸を打つ。作曲者の意図と、聴き手の感情は、完全に独立して動いている。

ここには二つの奇妙さがある。一つは、他人の経験を描いた作品に自分自身の経験を重ねるということ。もう一つは、その「重ね合わせ」が、しばしば直接的な人間関係よりも強い感情を引き起こすということだ。

友人があなたの前で泣いているとき、あなたが流す涙にはどこか義務の匂いがある。社会的な期待、共感すべきだという圧力、場の空気。しかし暗い部屋で一人、イヤホンから流れる知らない誰かの声に涙するとき、そこには不純物がない。誰に見せるためでもなく、誰かを慰めるためでもなく、ただ泣いている。他人の作品をきっかけにして流す涙が、あなた自身の人間関係の中で流す涙よりも純粋だというのは、なかなか皮肉なことだ。

もう一つ考えてみたい。歌詞の意味がわからないのに泣ける曲がある。外国語の曲、意味不明なフレーズ。このとき感情はどこから来ているのか。音楽哲学者スティーヴン・デイヴィスは「外見情動主義(appearance emotionalism)」と呼ばれる立場から、音楽が感情そのものを持つのではなく、人間の感情表現に似た「外見」を持つにすぎないと論じた。音楽は悲しいのではなく、悲しそうに聞こえるだけだ、と。

だとすれば、あなたが泣いているのは音楽の「内容」に対してではない。音楽が持つ外見、輪郭、抑揚のようなものが、あなたの内部にある何かと共鳴しているだけだ。旋律の上下動は、もしかすると、泣いている誰かの声の抑揚に似ているのかもしれない。人は音楽に泣いているのではなく、音楽を通して「誰かの泣き声」を聞いているだけなのかもしれない。

それがあなたの歌でないことは確かだ。しかしあなたの涙であることもまた確かで、その涙の所有権だけは誰にも奪えない。

あなたの涙の原価

あなたを泣かせた映画は商品だ。

脚本家は給料をもらって泣ける話を書いた。俳優は演技として泣いた。監督は泣けるカットを計算して繋いだ。プロデューサーはそれを「泣ける映画」として市場に出した。音楽プロデューサーはサビ前にストリングスを入れれば涙腺が刺激されることを知っている。あなたの涙は、設計された結果だ。

アドルノとホルクハイマーは1947年刊行の『啓蒙の弁証法(Dialektik der Aufklärung)』で「文化産業(Kulturindustrie)」という概念を提示した。資本主義のもとで文化は工業製品になり、大衆の感情反応は規格化される。あなたが「感動した」と感じるその反応すら、産業が設計した反応パターンにすぎないかもしれない、と。

これは大袈裟な話に聞こえるかもしれないが、「泣ける映画ランキング」「感動のCM集」「泣けるアニメ10選」のようなコンテンツが量産されている現実を見れば、感情のカタログ化は着実に進行していることに気づく。笑いたければコメディ、泣きたければドラマ、怖がりたければホラー。感情はメニューから選べるようになっている。

ただし注意すべき点がある。アドルノが批判していたのは大衆文化それ自体ではなく、独占資本主義のもとで生産される特定の形態の文化だった。「商業的な作品は全部ダメだ」という雑な議論ではない。とはいえ、「感動を設計できる」という事実は残る。映画のストーリー構成にはフォーミュラがあり、ヒット曲のコード進行にはパターンがある。感動は再現可能であり、再現可能なものは量産できる。

ここで一つ考えたくなる。設計された感動は「偽物」なのか。薬で治まる痛みが「本物の痛み」でないとは誰も言わない。レシピ通りに作った料理のおいしさを「偽物のおいしさ」と呼ぶ人もいない。設計図があるからといって、それによって生じた体験が偽物になるわけではないだろう。

しかしあなたは泣くために金を払っている。映画のチケットを買い、コンサートのチケットを買い、サブスクに課金する。「お金がなくなっても何も解決しない」で書いたように、通貨を消しても欲望は消えない。感情体験が商品として流通し、あなたはその消費者だ。美術館で静かに絵の前に立つ。その感情もまた入場料と引き換えに得たものだ。路上ミュージシャンの演奏に涙するとき、金銭は介在していないように見えるが、誰かが何かを提供し、あなたがそれを受け取って泣くという構造は同じかもしれない。

問題は、感情が商品であるかどうかではないのだろう。問題は、商品化された感情しか経験する方法を知らなくなったとき、あなたに残る感情が何か、ということだ。感情に値段をつけることへの違和感はどこから来るのだろう。感情が「聖域」であるべきだという前提が、どこかにあるのかもしれない。あるいは、聖域などもう残っていないのかもしれない。

みんなが好きなものは何でもない

人気のアーティストについて考える。何百万人が「共感した」と言う曲。その「共感」はどれだけ固有のものか。

百万人が同じ歌詞に自分だけの体験を投影しているのだとしたら、その歌詞はあらゆる体験を受け入れるほど空虚だということにならないか。あらゆる人が自分の意味を読み込めるほど開かれたテクストこそ、優れたテクストだという考え方もある。しかしそうだとすると、最も「共感」を集める歌詞は、最も意味が薄い歌詞ということにならないか。具体的なことを何も言っていないからこそ、誰もが自分のことだと思える。

これは星座占いの構造に似ている。「あなたは最近、心に迷いがありますね」。誰にでも当てはまることを、さも言い当てたかのように見せる技術。心理学でいうバーナム効果だ。心理学者バートラム・フォアラーが1948年の実験で示した、曖昧で一般的な記述を自分だけに当てはまると感じてしまう認知傾向。ヒット曲の歌詞が持つ「誰にでも刺さる」力は、この効果と無縁ではないかもしれない。

だからといって「大衆音楽は全部空虚だ」と言い切るのは乱暴だろう。シェイクスピアもまた普遍的だが、空虚だとは呼ばれない。普遍性と空虚さを分けるものは何か。具体性の密度なのか、言語の強度なのか、それとも単に数百年の権威がついているかどうかの違いなのか。

SNSで「共感した」と書くとき、あなたは本当に共感しているだろうか。それとも「共感した」というラベルを自分に貼ることで、何百万人の仲間に入ったような所属感を得ているだけではないか。「好き」と「共感」は違う。好きなものに共感しなくても好きでいられるし、共感しても好きでないことはある。「共感」という言葉は便利すぎて、中身が何なのかもう誰にもわからなくなっている。

百万人が泣いた映画で泣いたとき、あなたの涙はあなただけのものだろうか。それとも百万分の一に薄まっているだろうか。

その涙は本物か

ケンダル・ウォルトンは1990年の著書『ごっこ遊びとしてのミメーシス(Mimesis as Make-Believe)』で、奇妙なことを言った。フィクションに対する感情的反応は「疑似感情(quasi-emotions)」にすぎない、と。

ウォルトンの説明はこうだ。フィクションに触れているとき、私たちは一種の「ごっこ遊び(make-believe)」に参加している。ホラー映画で怖がるとき、あなたは本当に恐怖しているのではなく、恐怖の「ごっこ遊び」をしている。心拍数は上がる。手は汗ばむ。しかしあなたは映画館の席を立って逃げたりはしない。本当に恐怖しているなら、逃走するはずだ。行動が伴わない以上、それは恐怖によく似た別の何かだ、とウォルトンは論じる。

直観的にはこう反論したくなる。「いや、本当に怖いんだけど」と。ウォルトンのこの説は、発表以来ずっと強い抵抗に遭い続けている。私たちの日常的な実感と真っ向からぶつかるからだ。しかし少し立ち止まって考えてみると、ウォルトンの視点はそう簡単に退けられない。「本当に悲しい」のなら、なぜ人は悲しい映画を自発的に観るのか。本物の悲しみは回避したいものであるはずだ。歌で泣いたあと、5分後にはラーメンを食べている。この切り替えの速さは、「本物の悲しみ」と呼ぶには軽すぎないか。

一方で、ノエル・キャロルは別の角度からこの問題に取り組んだ。彼の「思考説(thought theory)」によれば、感情は存在を信じていなくても、ただ想像するだけで生じ得る。ラドフォードのパラドクスの根幹にある前提、すなわち「感情には存在への信念が必要だ」という前提そのものを否定したわけだ。想像するだけで恐怖できるのなら、フィクションへの感情に矛盾はない。

ウォルトンに反論する哲学者たちの多くも、フィクションへの感情が日常の感情と完全に同じだとは主張していない。何かが違う。しかしその「何か」を正確に特定するのは、驚くほど難しい。「疑似感情」と「本物の感情」の区別を突き詰めると、結局「感情とは何か」という問いにたどり着く。「赤を知らないし、何もわからない。」で問うたクオリアと同じ構造だ。感情が何であるかを定義できない限り、あなたの涙が本物かどうかも、永遠にわからない。

悲しみに溺れたがる動物

悲しいときに悲しい曲を聴く。苦しいときに苦しい物語を読む。不快な感情を自ら求めに行く。これは冷静に考えると、かなり奇妙な行動だ。

この問題は古い。「悲劇のパラドクス」として知られ、少なくともアリストテレスにまで遡る。アリストテレスは『詩学(Poetica)』の中で、悲劇が観客に恐怖と憐れみを喚起し、それを通じて感情の「カタルシス(katharsis)」、すなわち浄化が生じると論じた。苦しみの経験それ自体が、何らかの解放をもたらすという考えだ。もっとも、「苦しみは何も教えない」のだとすれば、その浄化すら事後的な物語にすぎないのかもしれないが。

ヒュームもまた1757年の「悲劇について(Of Tragedy)」でこの問いに向き合っている。彼の説明では、悲劇が喚起する不快な感情は、芸術的技巧がもたらす快の感情によって「変換」される。つまり、あなたは悲しんでいるのではなく、「見事に悲しませてくれた技術」に感嘆しているのかもしれない。

しかしこれらの洗練された説明よりも、もっと素朴な話がある。悲しい曲を聴いて泣くとき、あなたは自分の悲しみに名前をもらっているのかもしれない。それまで言語化できなかった感情が、他人の歌詞によって輪郭を与えられる。泣けるのは、ようやく自分の感情を「認識」できたからではないか。

この機能はカウンセリングに似ている。カウンセラーが「それは悲しかったですね」と言ったとき、あなたは初めて自分が悲しかったことに気づくことがある。悲しみはすでにそこにあったのに、名前を与えられるまで認識されなかった。音楽はその名づけの役割を果たしているのかもしれない。音楽は感情の語彙を拡張する。言葉にできない感情の微妙なグラデーションを、メロディと和声が描き出す。

しかしそうだとしたら、あなたが感動しているのは「音楽」ではなく「自分自身」ということになる。音楽は鏡にすぎない。鏡に映った自分の顔を見て泣いている。美しい行為のように聞こえるが、別の言い方をすればこうだ。

あなたは自分のために泣いている。いつだって。

共感は自分しか見ていない

「この曲に共感した」と言うとき、あなたは曲の中の誰かの感情を感じているのか。それとも、自分の中にすでにあった感情を曲の中に見つけているだけなのか。

もし後者なら、共感は他者への理解ではなく、自己認識の別名にすぎない。他者のふりをして、自分を見ている。

映画で泣くとき、あなたは登場人物の苦しみに泣いているのか。それとも登場人物の苦しみをきっかけにして、自分の中にある何かに泣いているのか。もっと厄介な問いがある。誰かの葬式で泣くとき、あなたは亡くなった人のために泣いているのか。それとも残された自分のために泣いているのか。

「共感」という概念は、哲学的に見ると思ったより曖昧だ。認知的共感(相手の立場を理解すること)と情動的共感(相手と同じ感情を感じること)は区別される。情動的共感は、相手の感情の「コピー」が自分の中に生じることだとされる。しかしコピーである限り、それは相手の感情ではなく、あなた自身の感情だ。他者の感情のコピーに涙するのは、他者のために泣いているのか、自分のために泣いているのか。

「わかるよ、わかる」と言われて腹が立ったことがないだろうか。あの苛立ちの正体は、たぶん、相手の「共感」が自己投影にすぎないことを直感的に見抜いているからだ。わかってない。わかるはずがない。あなたの痛みは、あなただけのものだ。

もしすべての共感が最終的に自分自身に帰ってくるのだとしたら、私たちは他者の感情を「理解する」ことが原理的にできないのかもしれない。他者の心は永遠にブラックボックスで、私たちはその表面に自分の影を投影して、「理解した」と思い込んでいるだけなのかもしれない。そしてそれでも共感をやめられない人から先に壊れていく。「優しい人から壊れる」とは、おそらくそういうことだ。

好きなものは何も語らない

「好きな音楽は何ですか」

この質問に答えるとき、あなたは音楽の話をしているようで、実は自己紹介をしている。音楽の好みはアイデンティティの一部として機能する。「〇〇が好きな人」として自分を提示する。だが「どこが私」で書いたように、そのアイデンティティの輪郭自体がすでに怪しい。共通の好みは共同体を作り、異なる好みは境界を作る。

しかし本来、あなたがある曲に感動するという事実は、あなた自身については何も語っていないはずだ。泣いたのは曲がそう作られていたからであって、あなたが特別だからではない。万人が泣くように設計されたものに泣いたことは、あなたの個性の証明にはならない。

なのに人は「感動できる自分」に価値を見出す。「あの映画で泣けなかった」と告白するとき、そこにはどこか後ろめたさがある。何かが欠けているのではないかという不安。感受性は美徳として扱われ、鈍感さは欠落として扱われる。

「わかる人にはわかる」という言い方がある。これは感受性による人間の序列化ではないか。「わからない人」は劣っているのだろうか。感動は能力なのか、それとも出来事なのか。もし出来事であるなら、感動「できない」ことに罪はない。

趣味が合うことが人間関係の基盤になるのはなぜだろう。「同じものに感動できる」ことの確認は、結局のところ「同じ種類の人間である」ことの確認ではないか。私たちは音楽を通じて仲間を探しているのであって、音楽そのものを愛しているわけではないのかもしれない。

名前のない感情のために

「悲しい」という言葉は、あまりにも多くのものを引き受けすぎている。

友人の死の悲しみと、夕暮れの悲しみと、懐かしさに混じった悲しみと、理由のない悲しみ。それらはまったく異なる体験だが、すべて「悲しい」と呼ばれる。言語が一つの容れ物しか用意していないところに、まったく別の種類の液体が注ぎ込まれている。

音楽はその隙間を埋めているのかもしれない。ある和音の響きが、「悲しい」の射程の外にある感情に輪郭を与える。言語の限界の先に、音楽が機能する領域がある。

ただし、ここには区別しておくべきことがある。音楽は感情を「表現」しているのか、それとも「喚起」しているのか。この二つは違う。絵画が悲しみを「表現」していることと、その絵画があなたに悲しみを「喚起」することは、まったく別の現象だ。表現は作品の側にあり、喚起は受け手の側にある。この二つを混同すると、芸術の話は容易に混乱する。

もう一つ厄介なことがある。「言葉にできない感情」という表現自体が、言葉で成立している。「世界はそこで終わっている」で掘り下げたように、言語の限界を言語で語ることの逆説。しかしそれでも私たちはその表現を使い続ける。「言葉にできない」と言うことで、言語がカバーしていない領域の存在を指さしている。月を指す指は月ではないが、その指がなければ月の方向すらわからない。

感情に名前を与えることは、感情を飼い慣らすことかもしれない。「これは怒りだ」と認識した瞬間、純粋な感情の塊は「怒り」というカテゴリに回収され、おとなしくなる。名づけは理解であると同時に、抑圧でもある。名づけられた感情は、名づけられる以前のそれとは別の何かに変わっている。

もし完璧な感情言語が存在したとしたら。あらゆる微細な感情のグラデーションに対応する言葉がすべて揃った言語。その言語の話者に、音楽は必要だろうか。

おそらく、それでも必要だ。音楽は何かを「語っている」のではなく、語ることとは根本的に異なる何かをしているのだから。「哲学は文学的表現を必要とするか」という問いにも通じるが、言葉の外に何かがあることを、人は言葉の内側からしか指さすことができない。

繰り返し聴くという異常

同じ曲を何十回も何百回も聴く。同じ映画を何度も観る。そのたびに泣く。

冷静に考えると、これは奇妙な行動だ。結末を知っている物語に泣く。次のフレーズを暗唱できるほど聴き込んだ曲に泣く。驚きはない。新しい情報はない。なのに感情は毎回生じる。もし感情が新しい状況への適応反応であるなら、既知の刺激に同じ感情が繰り返し生じることは説明しにくい。知っている結末に泣くことは、知っているオチの冗談に笑うこととは何が違うのか。冗談は繰り返すと面白くなくなるのに、音楽は繰り返すと深くなることがある。

繰り返し聴くことで感情が「深まる」ことすらある。初回よりも10回目のほうが泣ける曲。情報量は減っているのに、感情の強度は増している。何が蓄積しているのだろう。理解か。親密さか。あるいは、「何も起きなかった日」のように溶けていくはずの時間が、曲に付着することで残り続けているのか。

ある曲があなたの記憶と結びついているとき、あなたが泣いているのは曲に対してか、記憶に対してか、それとも「あの頃の自分」に対してか。ノスタルジアの涙は、対象が三重に重なっている。曲そのものと、曲に結びついた記憶と、もう「届かない一言」を抱えたままの過去の自分と。

一方で、繰り返しによって感情が摩耗することもある。大好きだった曲をリピートし続けた結果、何も感じなくなる。「あの曲は聴きすぎて壊れた」と言うことがある。壊れたのは曲ではない。曲はスピーカーから出る空気の振動としては何も変わっていない。壊れたのは、あなたの中のその曲に対する何かだ。感情には寿命があるのかもしれない。

何度も観た映画の結末で泣くとき、あなたは物語の中の出来事に泣いているのではないのかもしれない。「この物語と過ごしてきた時間」に泣いている。作品そのものではなく、作品との関係に。

繰り返しが可能であるということ自体が、フィクションの特権だ。現実は繰り返せない。あの会話をもう一度やり直すことはできないし、あの夕焼けはもう二度と見られない。しかしあの曲は、再生ボタンを押せばいつでも戻ってくる。フィクションに泣く人は、ひょっとすると、現実が繰り返せないことに泣いているのかもしれない。

語れば語るほど嘘になる

言葉にしないことが、最も誠実な反応であることがある。

感動を言語化した瞬間、何かが抜け落ちる。「よかった」「泣いた」「感動した」。どの言葉も、あなたが本当に経験したことの近似値にすぎない。レビューを書くとき、あなたは感動を再構成している。経験を言語に変換するプロセスで、経験そのものが変質する。あなたが書いた感想は、あなたが経験した感動の翻訳だ。そして翻訳には常に損失がある。

SNSに「泣いた」と投稿する行為は、感動の報告なのか。それとも感動の演技なのか。あるいはその区別自体に意味がないのか。「泣いた」と書くことで、あなたは自分の感情を他者に開示しているように見えて、実際にはその感情を「泣いた」という二文字に圧縮し、封印している。

ライブの後の静寂を思い出す。最後の音が消えてから、拍手が起こるまでの一瞬。あの短い沈黙が、もしかしたら会場にいる全員の最も正直な感情表現かもしれない。拍手は社会的儀礼であり、「ブラボー」は語彙の問題だ。しかしあの沈黙には、言語以前の何かがある。

「感動を言葉にできない」と言うことで、かえって感動の深さを伝えようとする逆説もある。言語の限界を告白することで、限界の向こう側にある何かを暗示する。巧みだが、やはり言語を使っている。どこまで行っても言語の外には出られない。

スマホで撮影しながら観るコンサートと、ただ目を閉じて聴くコンサート。前者は記録し、後者は経験する。記録された感動は再生できるが、あの瞬間の体の震えは再生できない。感動を保存しようとした瞬間に、保存しようとしたまさにそのものが手からすり抜ける。

これについて、こうして文章を書いていること自体が、すでに嘘かもしれない。フィクションに泣くことの不思議さについて語れば語るほど、泣くという行為そのものから遠ざかっていく。

結局あなたは何に感動しているのか

フィクションに泣くとき、あなたは何に泣いているのだろう。

存在しない人物にではない、とラドフォードは言った。本物の感情ではないかもしれない、とウォルトンは言った。産業が設計した反応かもしれない、とアドルノは示唆した。自分自身の投影にすぎないかもしれない、と共感の問題が示している。

もしこれらがすべて部分的に正しいなら、あなたの感動は、存在しないものに対する、本物かどうか不明な感情による、設計された、自分自身への反応だということになる。

それでも、あなたの頬は濡れている。

すべてを疑っても、涙だけは残る。そのことが何かを意味しているとしたら、おそらくそれは、人間が自分自身にとって永遠に謎であるということだ。「意味という病」に冒された生き物は、涙にすら意味を求めずにはいられない。なぜ泣くのか、何に泣いているのか、その涙が本物かどうか。どの問いにも決定的な答えはない。

そして答えがないまま、明日もあなたはイヤホンをつけて、誰かの嘘に泣くのだろう。

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なにかをしよう!(何のために?)

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明日のための今日 「今を生きろ」と誰かが言う。SNSにも自己啓発の本にも、同じ言葉がいたるところに転がっている。今日を大切にしろ。先延ばしにするな。一度きりの人生だろう。 ただ、よく聞いてみると、その理由はいつも明日に接続されている。今日の行動が未来を作る。後悔しないために今を無駄にするな。チャレンジすれば奇跡が起きる。つまり「今を生きろ」の看板の裏には「そのほうが結局うまくいくから」という計算がぴったり貼りついている。それは今を生きているのではなく、今を明日の原料として消費しているだけだ。 ホラティウスの "carpe diem" はもともと「今日という日を摘め」という意味だが、続く句 "quam minimum credula postero" は「明日をできるだけ信じるな」であって、「明日のために今日がんばれ」ではない。明日を計算に入れること自体を退けている。現代の自己啓発が借用する "carpe diem" は、原典とほぼ逆の意味で流通している。 マルクス・

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